九十九壬は空虚な余生を望まない③
泥をかぶったような斑模様のチョウチンアンコウが僕の前を横切る。
月よりも青く、宇宙よりも暗く、しんと静まりかえった水底をぼんやりと照らす篝火。
とても歪な顔立ちをしたチョウチンアンコウが、僕を何処かへ誘うように灯りを揺すった。
手足をばたつかせる。不思議と苦しくはなかった。
海水も眼球に沁みず、息苦しさが僕を悩ませる瞬間もない。
生きた心地が綺麗に剥落していて、海というよりは夢に溺れているみたいだった。
やがて、白砂に埋もれかけ、節々に苔と錆を這わせた船艇が僕とチョウチンアンコウを出迎えた。
小さな魚の群れが、まるでスイミーのように大きな魚の形を呈して沈没船の近くを回遊している。
船の傍らにはクレーターが薄く描かれていた。
クレーターの中心で踊る、幾つかの仄白い影。
それはまるで、成長すると貝殻を捨ててはばたくクリオネのように見える。
ぼくらは体が朽ちても、魂が眠らないのであれば、あのような影になるのかもしれない。そう思わせる淡い光だ。
「どこいったんやろなぁ」
突然、チョウチンアンコウが口をばくりと開けて言った。
やはり夢なのかもしれない。それでも……と期待している自分が心の傍らに居ることに気付く。
選鉱されたばかりのダイヤモンドみたいな初々しい輝きを放つ小さな泡が、海底からこぽこぽと噴き上がっていた。
「おぉぉ、おったでぇ」
チョウチンアンコウがぷらぷらと篝火を揺すった。
沈没船を包んでいた薄闇が遠のき、巨大な錨が視界に飛び込んでくる。
白砂に刺さる錨。
そこに彼女は座っていた。
ただ、もう一度会いたかった。ただ、もう一度だけ、君に名前を呼ばれたかった。僕はもう何度も何度も君を呼んだ。でも、そこに君はいなくて。
すれ違った筈の何かがぴたりと重なり合った気がした。
「……っ」
僕の口から震える声は、鯨に似た鈍い遠吠えとなって海にのまれていく。
僕の瞳から零れる涙は、記憶という名の宝石となり海にしずんでいく。
「壬君、ごめんね」
どうしてか、彼女は僕を見とめるなりそう謝った。
僕が聞きたかった言葉は……違う、違うのに。
彼女は錨に座ったまま、寄ってきたチョウチンアンコウに「ありがと」と告げる。
「ブルームーン……あったね」
頷いた。決して有り得ないことが起きている。
━━once in a blue moon
それがブルームーン。僕と彼女だけに伝わる呪文のような一言。
「朝、寒くなってきたね。ちゃんと上も着て寝るようにすること」
「……」
「そうだ、読みかけの小説あったでしょ? あとは壬君にまかせたぞ」
「……」
「あーあ、富士ガリバー王国、一緒に行きたかったよー」
「……」
「あのギター。たまには弾いてあげてね」
「……」
「ゆー、香水とか捨てちゃいなよ? ああいうのを残してるとさ、次のあい」
━━ォォォォオオオオ!!
僕は力の限り吠えていた。
ザトウクジラの唄声が共鳴する。
スイミーがはらはらと散らばる。
クリオネの動きが止まる。
チョウチンアンコウの篝火が小さくなる。
彼女の表情に哀しみの色が濃く浮かぶ。
「壬君」
違う、そうじゃない、君に呼んで欲しかった名前の響きは……そうじゃないんだ。
「君はまだ来ちゃ駄目だよ」
僕は、そんな言葉を聞くために蒼い月を願ってない。
「大丈夫だよ。きっと君は立ち直れる。かつて少年だったものよ。大人になろうとも大志を忘れるな!! ……なんてね」
なんの迷いもなく信じていた。
「ねぇ……ひとつだけ、ずるいこと言ってもいい?」
来年も、再来年も、そのまた次の年も。
「私のこと、忘れないでね」
君が隣にいる未来ばかり夢にみてきた。
「ほら、誰かが君を呼んでるよ」
喧嘩だってしてきたけど。
「ばいばい、壬君」
君になにを言われようと、僕はきっと……。
「やっと目を覚ましたか。間抜けが」
彼女の声とは違う、誰かが僕に囁いていた。
緩やかな間隔で、小波が耳朶を揺すっている。
目を開けると、僕は砂浜の波打ち際に寝かされていた。
遠くに防波堤が続いており、テトラポッドが積み重なっている。
白い砂が頬にこびりついていて、腕には塩の結晶が付着していた。
「僕は海に堕ちた筈なのに……」
呆然と呟いた僕に、聞き知らぬ声が返す。
「Ich weiss nicht was soll es bedeuten」
引用句であるのか、語調はすらすらと滑らかなものだった。
事至って、僕はようやく隣に座っていた声の主を視界に入れる。
煤けた赤煉瓦のような色合いの頭髪が世にも珍しい女の子だった。
首筋まで伸びた髪は濡れそぼっており、薄地のワンピースは湿って肌に吸いつき体格を露わにさせている。
目を瞠るような白い肌に、口の端から尖って突き出た八重歯が幼さを強調していた。
「何がそうさせるのかわからないが……海は人を誘う。お前はローレライにでも魅了されたんだろうな」
少女の口調はひどくぞんざいで、どこか冷めているものだった。
「会えたんです。たしかに……僕はあのまま」
死にたかったんだ……きっと。
「死ねば好きだった奴と一緒になれたってか? ふん、馬鹿を言うのも大概にしろよ。死んだら終わりだ。それはどうしたって変わらない」
僕が何も答えないのを待って、少女は先を続けていく。
「残念ながら私に死者の声を聞く才能なんてないが、そうだな……想いが地に残る。残想という概念は確かにあるのかもしれない。だからといって、一度きりの命を投げ捨ててまで死者の想いを確かめる術を私は許さないが」
「僕を助けたんですか?」
「……過程はあった。決して偶然じゃあないよ。迂闊だったと戒めるべきか、僥倖だったと慰めるべきか迷う部分ではあるが……結果的に私はおまえを救わされた。相手は引き際を弁えてる奴だったんだろうな」
僕にはとても理解できない独り言を一頻り言い終えると、彼女はこちらへ鋭い眼差しを向けた。
丹色の虹彩が、日の光を閉じ込めて無数の乱反射を繰り返している。
「私はな、人に死を強要させるものを追ってこの国に来たんだ」
「はぁ」
そんな突拍子もない事を言われても、返答に詰まるだけだった。
「本命は《心中愛だったんだが、どうやら、この国もそれなりに狂った奴を抱えているらしい。なぁ、人を死に追いやる手段はどれくらいあると思う?」
「それは……えっと、つまり自ら手を下さずに、という意味で?」
「そうだ。例えば、借金という重荷を負わせて環境的に死を選ばせたり、ドラッグを流布して偶発的な死を撒き散らしたり……そうやって己の手を汚さず、狡猾に人の死を弄ぶ人間は存在する」
「どうしてそんな話を?」
「中には死の匂いを嗅ぎ取って、そいつの死に顔を拝みにくるやつなんかもいる。おまえさ、歌は人を殺せると思うか?」
「思えない、けど」
「考えることを放棄するなよ。直接的な要因になんてならなくていいんだ。むしろ、間接的でなければならない。でなければ煙に巻けないからな。ある一定の条件下に当て嵌まる人間に対してだけ、トリガーとなればいい━━心当たりがあるんじゃねーか?」
一周のアルバム《Witch of the bear》は、彼女が唯一共感してくれた僕の音楽感性だ。
なぜか脳裡を過ったのは、僕が海へ足を向ける直前に対面した彼が生み出した、ひとつのアルバムだった。
「一周……彼が? でも、まさか」
「おまえがそいつの事をどれくらい知っているのかを私は知らない訳だが、人の本質なんてものは二言三言交わした程度で見えてくるものじゃないぜ」
「そうだね。うん」
息を吐くように意味深な事ばかり口にする少女だったが、その部分だけは僕も頷けた。
相手の気持ちなんて、簡単には分からない。
喧嘩もするし、より形にして確かめたくもなる。
「にのまえあまね……か、気取った名前だな。覚えておくか」
「君は一体」
「私か? あー、アリシスでいいよ」
「アリス?」
「違う。アリシスだ……呼ぶ時はシスにしろ」
「でもアリスの方がよく似合ってると思うけど」
言われて彼女は不服そうに声を荒げた。
「うっせぇ、しね」
ど真ん中直球の罵言。でも、飾り気のない、嘘偽りのない言葉が、今の僕にはちょっと嬉しかったりもした。
「ねぇ、アリス」
「だから、アリスって呼ぶんじゃねーよ」
「さっき……地に想いが残るって話していたけど」
「深い意味はない。ただ……言うなれば影響力、というものになるのだろうな。その人物そのものが死してなお、誰かへ残す影響力。だが、それが死んだ人間の思い通りであるとは限らない」
僕は彼女を求めた。でも、彼女はそれを拒んだ。
「過去はな、囚われるものでも縛られるものでもないんだ」
「生きていても、もう……」
「その喪失感だって、結局は一過性のものでしかない。いずれは薄れゆくものだ」
「わかってるよ……だからこそ、僕はその一過性に身を委ねたかったんだ」
「なら、私を恨め。正直、お前が死のうが知ったことではないが、ただな、目の前で死のうとする人間を見逃すほど、私は親切でもないんだ」
「アリスは優しいんだね」
「どうしてそうなるんだよ」
茜色と溶け合う海平線を映し出すように、微かにだけど、彼女の頬に赤みが差す。
「さて、私はそろそろ次の街へ向かう」
「君は、えっと、そうやって人を死に追いやるもの? を追いながら、死に追いやられたものを救っているの?」
「まぁ……結果的にはそうなるかもしれないな」
「僕も」
しかし、その言葉は言い始めてすぐに、彼女の強い語勢によって遮られた。
「やめておけ」
「……」
「好んで関わるものじゃない。もし救われたことに恩を感じ始めているんだとしたら、お前なりの方法を見つけるといい。彼女もきっとそれを望んでいるだろうさ」
僕も、それにたぶん、アリスも。お互いにそれ以上の詮索を望んでいなかったのだと思う。だから、僕達の別れ際はやけにあっさりとしていた。
「いつかまた僕の顔を見に来てくれないかな?」
「まぁ、気が向いたらな」
「コーヒーでも奢るよ」
「コーヒーは飲めないんだ」
「やっぱり、少女だ」
「ふん、アリスって言う方がアリスなんだよ」
んな無茶苦茶な。
「僕は壬だ。九十九壬」
「そうか、壬。この街はどうだ?」
「朝は寒いよ」
「なら、もし次があれば、その時は春を待ちたいものだな」
「うん、待っているよ」
アリスが背を向ける。煤けた赤煉瓦のような色合いの頭髪が、夕日を浴びて輝いていた。
彼女の背中が遠のき、砂浜にぽつりと独り残されてから、僕はふと気付いた。
僕は彼女の事を一言でも口にしていただろうか?
アリスの口振りは、まるで僕と彼女の関係をよく熟知しているようにも聞こえたけど、息を吐くように意味深なことを口走る彼女特有の話術なのかもしれない。
それよりも……僕は立ち直れるのだろうか。
「時間が解決してくれるなんて思ってないけど、僕なりに頑張ってみようと思う」
今はまだ、君の事を忘れられるとは思えないし、僕はこの先も君だけを愛していたい。
でも、人生はまだ途方もなく長い。
不思議な少女に拾われた余生……虚しく終わらせたくはないと思った。
歩き出した途中で振り返ってみても、砂浜に残っている足跡は一つだけだった。
「えっと、ここで働きたい理由を教えてもらってもいいかな?」
あれから数年。僕はこの街で喫茶店を開こうとしていた。
二人ほど人手が必要となり、求人雑誌に募集の項を載せて貰うと、何人かがアルバイト希望の連絡をくれた。
「ゲームのためにお金が欲しかったんです。あと、行き付けのゲームセンターとも近いんですよ!!」
面接三人目となる少年、遠野真君ははきはきと、自信満々に志望動機を教えてくれた。
なんというか、言われて嬉しい理由でもなく、一から百まで彼個人の事情でしかなかったが、一人目や二人目の子みたいに飾らない動機が、僕には好ましかった。
「接客業の経験は?」
「ありません!! でも、喫茶店を営業するシミュレーションゲームならやったことありますっ!!」
高校に通う彼には、これから先、進路という壁が立ちはだかることだろう。
このままで大丈夫だろうか?
そういった類の不安が、僕に採用を……いわば余生としてのお節介を……自分勝手な自己満足を決めさせた。
当時の僕は、いずれ彼が原因となって、アリスと再会することになるとは夢にも思っていなかった。