鯏茶万里は他者の犠牲を厭わない②
鯏茶万里を連れて帰宅した当初、妻はまだ半信半疑、僕に対して「どうしたの?」と視線で訴えかけている節があった。あくまで主観だが。だけど、今はどうだろうか。
僕と万里の不得要領な会話に嫌気が差したのか、お茶を入れてきますと言い残して席を立った時の妻の表情は、あからさまに敵意を剥き出していた。あんなに怒っている顔を見るのは随分と久しぶりだ。
もう妻の中で、万里に対する評価は下されたことだろう。結論、百害あって一利なし。といったところか。隣の万里へ、そのままを告げてみたところ
「ふざけんなっ!! あたしの名前には万里。って、りが一つは入ってるだろうが!!」と、怒鳴られた。一利なしとはそういう意味ではない。
そして、妻の怒りの矛先が僕にまで向いている可能性は限りなく高い。彼女と結婚して以来、その予兆は幾度かあれど、一度たりとも不純な交際へ発展させなかった僕が犯す初めての過ち。にしては、あまりにも奇妙奇怪な浮気相手。いや、浮気なんてしてないけど。しかし、反応にほとほと困り果てていることだろう。言い訳ではないが、僕も同じだ。
仲良く並んでソファーに腰掛ける僕達の様を見せつけられて、半信半疑の信の部分がごっそりと抜け落ちていても、彼女を責められはしない。
ふと、気を紛らわしたくて……そんなものは逃避の一環でしかないが、妻に怒鳴られる未来を想像していても、気が沈むだけなので、僕はテレビへ逃げる事にした。
「あんまりテレビ画面ばかり見入ってるとさ、そのうち、その映像が目玉に張り付いて取れなくなっちまうぜ。あたしの友達の一君がそうだったんだけどよ、ありゃ悲惨だ」
「そんな現象が起こり得るのなら、テレビは普及してないだろ」
「さぁ、どうだろうな。実感を伴わない危機感というやつは、ほとんどの場合、手遅れになってから後悔するもんだ」
「癌になるまで喫煙を止められない。とか、そういう話かな?」
ただ、僕の周囲では、癌が発覚しても、それこそ初めから禁煙だなんて選択肢は無かったのだと開き直る奴もいたし、中には、指摘されても、喫煙と発癌の関連性を認めない奴だっていた。いや、実際、証拠はないんだっけ? よくわからないけど、そもそも喫煙と、万里が話す冗談とでは、危険性が周知されているか、そうでないかの前提が違う。
プロ野球の中継が繋がれている液晶画面の向こう側では、投手の男性が深刻な面持ちで、頻りに首を左右へ振っていた。普段、プロ野球の試合観戦に興じる趣味は持ち合せていないし、野球自体、素人知識しか有していないのだが、あれはたぶん、捕手のサインに同意しかねているのだろう。状況は二死満塁、どうやら、あの投手は今試合、無失点を守っているらしく、いわば正念場らしかった。なんだか、作為的過ぎるタイミングである。
「ふんっ、見ろよこいつ。まるで世界が終わるかのような面してるな」ははっ、うける。などと腹の底に別の生き物でも飼っているかのような重低音な笑い声を響かせて、巨躯を揺らす万里。
「もしかしたら、そうかもしれないじゃないか」
特に意図があった訳でもないが、気付いたら、僕はそんな言葉を隣に返していた。この理不尽な状況を作り出した彼女に対する意趣返しだったのかもしれない。
「へぇ、例えば?」てっきり大声を張り上げるものだとばかり身構えていたが、万里の声は予想に反して、不自然なほどに静かで、落ち着いていた。
「例えば……、この試合に負けると、家族の身に何かが起きる、とか」
口を衝いて出た妄言を、万里は茶化すような口調で補足する。
「何か。なんて言葉で誤魔化すなよ。つまり、お前はこんな想像をしているんだろ? 例えば、狂信的なサポーターがいて、あの投手の家族を誘拐し、人質に取っている。で、この試合に勝てなければ家族の命は保証しないとか脅されている、とかな」
「妄想でしかないけどね……それこそ、もっと大局的な、例えばオリンピックの予選で、その試合の勝敗が勝ち上がりを左右するとかなら、味方側でなく、相手側から負けろと脅されるかもしれないけど」
中々終わらない、例えばの応酬。
「そうだな。けどよ、自分達の物差しで、事の大きさを計るのは愚かしいことだぜ。この世の中ってのはさ、色んな種類の人間が居る訳だ」
熊みたいな魔女も居るしね。とはさすがに言えなかった。
「まるで接点なんてないように思えても、実は密接に関わっててよ、こっちからすれば、無関係にしか思えない━━理不尽な圧力に脅される時だってあるだろうさ」
「理不尽な圧力か」
「あたしの組織の━━『協会』の知り合いは、不気味な圧力って言い方をしていたが」
「確かに、実態の掴めない圧力は、理不尽というより不気味なのかもしれない」
昔、何かの小説で、作家が改稿を強いられる場面があったのをふと思い出す。何度、読み返してみても、それは純粋に作品の出来を重んじての修正に思える。が、一方で、あまりに小奇麗にまとめられた文章は━━尖った部分を尽く削られた物語は、とても自分が書いたものに思えず、作家は電話にて担当へ受け入れ難い主旨を伝えた。が、その直後、通話先の相手が変わり、聞いたことも無い男の声でこう返ってくるのだ。「受け入れがたくても、受け入れて頂かねばなりません」と。作家は理由を尋ねた。すると、男は更に続ける。「理由は、貴方の作品がその改稿でより素晴らしくなる。ではご不満ですか?」作家は答える。「とてもそうは思えない」と。その返事を受けて、男は声を低くして、相手を脅すように告げる。「この改稿を承諾して頂かなければ、大変なことになります」ひどく曖昧な、中身のない脅迫である。だけど、作家には、その先に、得体の知れない、不気味な圧力を感じ取るのだ。
「大変な事とは、具体的にどういった事でしょうか?」
「起きてしまってからでは、取り返しのつかなくなるようなことです」
表現規制や左派右派の確執、そういった世間一般に通ずる問題点とは異なる、もっと別の何かによる圧力。それに屈することで失うものがあるのかさえ分からない。だが、作家はその脅しに屈するべきか、己の信念を貫くべきか迷い、結果的に筆を折る。
「人間は無駄に想像力が逞しいからな。肝心の部分を濁らすと、勝手に自滅する。ほら、なんだっけ……この国の言葉はさ、最初と最後さえ正しければ、繋ぐ語順がデタラメでも、内容が理解できるってやつ」
「あぁ、ケンブリッジ大学の?」話の関連性がまるで見えてこなかったが、偶然にも知っていたので、僕はつい答えてしまう。
「そう、そのケンブリッジ大学の……こんちにわ みさなん おんげき ですか? ってやつだな」
「音読する人に初めて出会ったよ。でも、あれって、ケンブリッジ大学の部分は都市伝説みたいなものだった筈だけど」
「そこは然して重要じゃないさ。要は、そういう発想をする人間が居るという部分だ」
「わりと思いつきそうな発想だとは思うけど」
「これも例えだって、わからねーものかね」と、万里は僕の鈍さを揶揄するかのような視線を投げ掛けてくる。距離が近いが故に、迫力が尋常じゃない。
「で、だ、大分、話が逸れてしまったが、あんたの娘についての話をしようじゃないか」
いつそんな話をしたんだよ。と言葉に代えて溜息を返す。
「あたしの親友の一君なんだけどさ」
娘は何処に行った?
「あいつも意地っ張りでよ。目玉に液晶が貼りついてもゲームとか止めなかったんだ。そしたら、どうなったと思う?」
「失明した、とか?」
「消えちまったんだよ。存在ごとな」
「そ、そうでしたか……お気の毒に」彼女はそんな突拍子もない与太話を聞かせて、何がお望みなのだろうか? それこそ不気味な圧力を味わっているような気分だった。
「あいつはな、口癖のように話していた……自分は試されてるんだ。って」
「試されてる?」
「あぁ、だから信念を曲げなかった。だから消された」
「不気味な圧力に?」
「そう、不気味な圧力にだ……勇気と無謀は紙一重ってな」
そこで突然、万里は腰を上げた。家全体が軋むのではないかと、見る側を不安にさせる鈍重な動きだ。立ち上がってから暫く、彼女は黙然と、天井を睨みつけていた。
「あら、おかえり?」ようやく戻ってきた妻の皮肉めいた一言には微動だにせず、万里は太く言い放つ。
「二階は?」
「あぁ、僕達の寝室だけだよ」
「案内しろ」
吐き捨てるなり、のそのそと床を踏み鳴らしながら、横腹を扉の枠に擦りながら、廊下へ抜けていく万里。僕も妻も、慌てて彼女を追う。案内とはどういう意味だったかな?
「ねぇ、あの人、本当に浮気相手なの?」
「そう見えるかい?」
「見えないから浮気なんじゃないの?」
「一理ある」
階段の先を見上げると、全身を窮屈そうに歪めながら、一段、また一段と踏み超えていく万里の姿が飛び込んできた。もし、彼女が段を踏み外して、転がり落ちてきたら、せめて妻を庇って死のう。と僕は助からない前提の想像に怯えていた。
百段を超える参拝道を登りきったのかと問いたくなるぐらい、息も切れ切れに我が家の階段を制覇した彼女は、弛んだ首元をぼりぼりと爪を立てて搔き毟りながら、ある一点を見据えた。
「なにを見ているんだ?」
「やっぱりそうか。あんたらにはもう認識できないんだな?」
不可解な言動を残し、彼女は、僕達の寝室とは異なる方角へ━━なにもないはずの先へ踏み出す。なにもない? なにも。なんだ、この感覚。
眼球が忙しなく揺れ動き、汗腺からどっと汗が吹き出す。暴走する焦点を横に立つ妻へ合わせると、彼女もまた筆舌に尽くし難い異形を成していた。まるで悪夢だ。
「忘れたままでいられる方が幸せなのかもしれないが、あたしにはどうでもいいことだ。あたしは他人を気遣うようなできた人間じゃないし、自分の目的を達する為に、人間を足蹴にすることなんて意にも介さない」
万里の独り言が、鼓膜にこびりついて気持ち悪かった。
「突き詰めていけば、手段に過ぎないんだろうよ。こちら側とは異なる世界……いわゆる異世界か。そんなものに興味なんてない連中からすれば、ゴミ処理場となんら変わらない。不都合なものを処理するにはうってつけの送り先というわけだ。遠野宮古の自殺が……仮に《心中愛》だとしたら、その存在を感知したが故に、久野道麻衣は消されたのかもしれない。ぶっちゃけ単なる偶発的な被害者である可能性も否めなかったが、他の連中よりは関与が疑わしい。で、態々(わざわざ)、接触してみたけどよ……これは、なんだ、当たりかもな」
いい加減、目を覚ませ。と万里は、呆然と立ち尽くす僕達を怒鳴り、順々に肩を掴んで、強引に投げ飛ばした。
なにもない。筈の先に広がる可愛らしい一室。ベッドの枕元にはぬいぐるみが並んでおり、机の上にはカラフルな文房具が無造作に散らばっている。 もし、自分達に年頃の娘が居れば、こんな風に部屋を飾り立てるのだろうか。
朦朧とする、きっと夢遊病に違いない。と言い聞かせたくなるような意識の狭間に溺れる僕を、万里は冷やかな目で見つめていた。そして、彼女はふくよかな顎をくいっと逸らして、部屋の隅を指す。
その先には小さな丸いテーブルがあり、テーブルの上にはデスクトップパソコンが鎮座している。唸る冷却扇が、今もなお、駆動中だと告げていた。
「確信したよ。あんたらの娘さんは、この画面の向こう側に吸い込まれちまってる……一君と一緒だな」
胡散臭く口の端を吊上げる万里。直後、いつか、僕の事を父と呼んでいた少女の残像が、脳裏に蘇った。