第十四話:み:文学
第十四話
私が大島を訪ねるのは何年振りだろうか。別れた妻の好きだった場所、そして私達二人を祝福してくれた場所だった。しかし、もう二人で此処に来ることなどあり得ないのだ。
「あなたの妻でいる事に疲れました」
そう言って妻は私に頭を下げたのだ。明け方はいつもの通り、笑みを絶やさぬ女性だったと言うのに判を押した薄紙を渡すときは笑みなどどこにもなく、どこか苦しそうに見えた。
「後悔しないのか」
「はい」
素っ気なく、感情のこもっていない返事は私に続きの言葉を言わせることはなかった。ただ一つ、頷いて寝室から判子を持ってきてその薄紙に押しつけた。
「ありがとうございます」
妻の、いや、元妻の感謝の言葉は私の心を抉って二度と感知する事のない傷を負わせてくれたのだ。
幸い、子供のいない家庭で良かったかもしれない。子供の出来ぬ身体だと結婚前にいきなり告げられたが、そんな事はどうでもよかった。一緒に暮らせればそれでいい、私と一生いてほしいのだと伝えたあの日の言葉を思い出す。
元妻が、君江が私に離婚届を渡した理由は今となってはわからない。離婚して一カ月後、君江は自らの命を絶ってしまったからだ。後を追う事も考え、一度は準備までした。しかし、あちらに行って君江に会ったとしても私は拒絶されるに違いない。
大島も昔と違っている。もしかしたら、君江の好きだった私も変わってしまっていたのだろうか。今となっては知る由もない。
「みんなー、今日もありがとー」
テレビからよく知るアイドルの声が聞こえてくる。読みかけの文学作品をさっさと閉じて椅子に座りなおして、音量を大きくした。
「お、そういえば今日はりっこちゃんの番組があるんだったな」
部室である理科室で見るのはいかがなものかと思うだろう。しかし、先生も今日は出張でいないし、須黒も休みだ。つまり、今この理科室の主は俺なのである。下僕の骸骨と人体模型と一緒にりっこちゃん観賞が今日の部活内容だ。
「大仁、おれもまぜてくれよ」
理科室の扉が開いてカメラを抱えた緑川が入ってくる。
「なんだ緑川かよ」
「なんだとはなんだ。お前一人で見るなんてもったいないだろ」
「もったいなくはないだろ」
どこがもったいないのか、詳しく尋ねようと考えるも止める。そんなことよりりっこちゃんだ。
「しょうがないからお前も見ていいよ」
「なんだか引っかかるような言い方だな。ところで、最近放課後一緒にいる須黒美咲はどうしたんだよ」
緑川の声がうるさいので音量をさらに大きくする。
「さぁな。今日は休みだそうだ」
「ふーん、そうなのか。お前、ここに須黒がいたらこれみるのかよ?」
「そりゃそうだろ。先生が出張だから見てもいいだろ。どうせ研究とか言って吸血捕獲用のくだらない罠を作るよりも、りっこちゃんを見ていたほうが健全だ」
「まー、たしかにそうだわな」
「おう、テレビなんかじゃなくていつか部費でコンサートを見に行きたいもんだ…」
俺がこの場所にやってきたのはあくまでNKKの調査のためだ。これまで幾度となくコンサートが行われる日には騒動が起こっていたからな、行った事が無いんだよ。
そんな不運少年の俺にすっと一枚のチケットが差し出される。
「元気出せよ。これ、やるからよー」
「これはっ…」
隣県のコンサート場で行われる真白りっこちゃんのコンサートチケットだった。
「どういう風の吹きまわしだよ」
「いや、この前懸賞で偶然手に入ったんだよ。だから大仁にやるよ」
怪しい、絶対に怪しい。これは俺の事を何かしらの罠にはめようと思っているのかもしれないぞ。
「…で、だ」
「やっぱり何か裏があるんだな」
「そりゃそうだ。世の中ギブ君とテイクちゃんで成り立ってるんだよ」
その通りだろうな。
「金ならないぞ」
「違う、金なんていらねぇよ」
テレビではりっこちゃんのインタビューが終わり、新曲のお披露目があっていた。
「…実はだな、俺らの担任でお前の部活の顧問である玉宮菜穂子先生が吸血鬼なんじゃないかって話があるんだよ」
「え?」
にわかには信じられないような話だった。
「……詳しく教えてくれよ」
「一番最初に襲われた女子生徒とかに話を聞いていたり、目撃者のおばちゃんたちへと聞き込みを俺はやったんだよ。するとさ、最初の方はもうあまり情報が得られてないんだけど、玉宮先生を見たって言う人が結構出て来たんだよ」
「……本当かよ、それ」
「ああ、警察もそれを怪しんでいたようだ。だけど、先生自体が途中で襲われているからな。警察はその可能性を消したんだよ。その後、事件現場での先生の目撃報告はない…でも個人的に気になるから調べてほしいんだ。おれよりお前の方が玉宮先生に会うからな」
「で、俺は玉宮先生が吸血鬼かどうか調べればいいだけなのか?」
親父に連絡してから名簿を確認してもらうだけでいい。違うのなら夜道で襲って血を飲んでみれば一発でわかる。
「ああ、違った場合は先生に謝っておいてくれよ」
「わかった」
たったそれだけならお安い御用だ。
「でもよ、先生が吸血鬼だったとしても素直にはいそうですって言わないと思うぜ」
「…まぁ、そん時はしょうがねぇ」
「しょうがねぇって……」
「ともかく、俺は吸血鬼の写真を撮れればいいんだよ。何ならお前が裏地の赤い黒マント着るか?」
「死んでもいやだね」
俺の親父なら快く引き受けてくれるに違いない。大体、創作物の後付けだろうに……。まぁ、先生が吸血鬼かどうか調べるのは俺にとっても有益だろう。これまで相手は男とばかり思っていたんだけど、もしかしたら変わった味覚の持ち主かもしれないからな。
サブタイトルの文学後にはなんちゃってがつきます。え?なんちゃってすら生ぬるい?見逃してやってくださいよ、旦那。




