前蛹山 − ぜんようざん −
妻が死んだ。
自宅葬儀の慌ただしい喧騒が過ぎ去った後に、底のない実感がじわじわと湧き上がってくる。ああ、もうナギサはこの世にいないのだ。
二人で暮らすにはあれほど広いと感じていた我が家は、ただの空虚な箱へと成り果て、世界から色彩が消え失せた。視界に映るすべてが、モノクロの背景のようだった。
「なんで私より先に……」
暴飲暴食、飲酒や喫煙。そんなものとはおよそ無縁の健康的な生活を送っていた妻を、突然の訃報が襲った。
「なぜだ、なぜなんだ……」
絶望に心を引き裂かれながら、幸せだったあの頃を思い出すと、止めどなく涙が溢れてくる。
スマートフォンのロックを解除し、写真を過去へとスクロールしていく。一番古い日付のところで指を止めて、タップした。
「本当に、君との写真しか撮っていないな」
出会った頃、彼女の田舎にある『前蛹山』の山頂で撮った写真だった。二人が笑顔でピースサインをしている。あの頃、私たちはまだ二十代の半ばだった。私が無理をして買い揃えた本格的な登山装備を見て、「ただのトレッキングコースだよ」とナギサが思い切りバカにして笑っていたっけ。あんなに気分の晴れた日は、後にも先にもなかった。
「懐かしい」
次々とナギサとの思い出を遡る。もうその液晶の光の中にしか、彼女は存在しないのだから。
「ん?」
画面をスクロールしていた右手がピタリと止まった。
前蛹山の山頂で撮ったはずの、最後の写真。その二人の真後ろに、見覚えのない「社」が写り込んでいた。
管理が行き届いていないのだろう。建物にはびっしりと苔が生え、色味も風化して赤黒くくすんでいる。なんとも荘厳に感じられる佇まいだったが、同時に、妙に不気味でもあった。
あの時は背景の角度まで入念に計算してシャッターを押したはずだった。こんな建物、背景に入り込むはずがない。
「おかしいな。こんな場所、あったはずがないぞ」
記憶違いということも十分にあり得た。何しろもう、二十年以上も前に一度訪れたきりの場所だ。彼女の実家へ帰省することはあっても、あの山へ登ったのは生涯で一度だけ。
だが、なぜだか胸の奥がざわざわと嫌な脈を打ち始めた。
プルルルルル。
静寂を破り、心臓が跳ね上がるほどの音量で携帯電話が鳴った。画面には、ナギサの母親の名前が表示されている。
「もしもし、お義母さん。無事に家に着きましたか?」
『ああ、祐海さん。こちらは今しがた着きましたよ。そちらは大丈夫ですか?』
「ええ、なんとか。何か忘れ物でもありましたか?」
『いえね、そういうことではなくて。どうしても言い忘れていたことがありましてね』
「はい、なんでしょうか」
『ナギサには、末期の水と含み米は絶対にしないでくださいね』
「え? それは一体どういう……」
聞き慣れない不気味な風習に、思わず疑問が口から飛び出した。
『私たちの田舎の古い風習では、そういった行為は重い禁忌にあたりますの。ただの迷信ですがね、天国へ行けなくなってしまうという話です。娘のことを思うのなら、どうかそっとしておいてあげてください』
私は耳を疑った。お義母さんは掠れた声で、確かにこう付け足したのだ。
──『死後に栄養を摂らせると、生き返ってしまいますから』
『それじゃあ、確かに伝えましたよ』
ツーツーと電子音が鳴り、無音の部屋に引き戻される。私はただ一点を見つめたまま、思考の深淵に没入していった。
そんなバカな話があるか。
非科学的すぎる。
第一、何の確証もない大昔の、寂れた集落の迷信だ。
柱に掛けられた鳩時計が、間の抜けた鳴き声で午後八時を告げたとき、ようやく我に返った。
あの電話の後、私は一度も動かず、居間のテーブルの上でスマートフォンを握りしめたまま逡巡していたらしい。夏場でカーテンも閉め切っていたとはいえ、周囲にすっかり薄暗い夜の帳が下りてきていることすら気づかなかった。
それほどまでに、お義母さんの言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡り、離れてくれなかった。
翌朝、目を覚ましてベッドの左側を見やっても、やはり妻はいなかった。当たり前だ。彼女の納められた棺は今、広間に安置されているのだから。
起き上がり、ふらつく足取りでキッチンへと向かう。洗う前のコップに蛇口から水を注ぎ、一気に飲み干すと、乾ききっていた臓器が少しだけ回復したような錯覚を覚えた。
私はもう一度、コップへなみなみと水を注いだ。そして米櫃を開け、一握りの生の白米を左手に握りしめた。
もしかしたら……。
淡い期待。いや、自暴自棄に近い狂気だということは分かっている。だが、どうしても確かめたかった。できることなら、もう一度だけでいいからナギサに会いたい。ダメ元でも構わなかった。
足音を荒げ、広間の襖を肘で乱暴に押し開ける。
コップを床に置き、棺の蓋を開くと、血の気のすっかり引いたナギサの、生気のない顔がありありと現れた。ひどく気分が落ち込み、全身がガタガタと震え出す。
「ナギサ……」
右手で彼女の顎を優しく下へと押し下げると、わずかに、その唇が開いた。
死体損壊だと誹られても構わない。気持ちの悪い狂人だと罵られてもいい。私は左手の米をさらさらと彼女の口内に滑り込ませ、コップの水を一気に流し込んだ。
いつまで経っても、ナギサの顔色は白いままだった。
やはり、間抜けで哀れなだけの独りよがりだった。猛烈な虚しさが押し寄せ、肩を落としたその時──瞼の裏の眼球が、わずかに動いた気がした。
いや、見間違いか。張り詰めていた緊張の糸が切れ、私はコップを片付けるために台所へと向き直った。
「あ、あなた……」
優しく、思いやりに溢れた、聞き間違えるはずのないナギサの声だった。
恐る恐る振り返ると、棺の中でよろよろとナギサの上体が起き上がってくるところだった。息を呑んだ。まさか、本当に生き返るなんて。
彼女は生気のない顔色のまま、いつものように優しく微笑んでいる。私はすべてを投げ出して彼女へと駆け寄った。
「ああ、ナギサ!」
涙と嗚咽が止まらなかった。彼女はそんな私の頭を、愛おしそうにそっと撫でてくれた。
だが、その復活の奇跡は長くは続かなかった。私を撫でていた彼女の手が急に脱力し、糸の切れた人形のように、勢いよく元の体勢へと倒れ込んだのだ。
「ああ、なんてことだ!」
私はすぐさま台所へ走り、もう一度米と水を用意して同じことを繰り返した。彼女はまた起き上がったが、やはり長くは持たなかった。お義母さんの言っていたあの風習は、恐ろしいほどの真実だった。ナギサの口の中を確認すると、先ほどの生の米は綺麗さっぱりと飲み込まれ、姿を消していた。
私は細かいことなど気に留めず、冷蔵庫から次々と食料を引っ張り出しては、包丁で細かくカットしていった。焦りでリンゴを剥く手に刃が当たり、指を切った。その私の鮮血が、ナギサの青白い唇を赤く染め上げる。
その瞬間、彼女の血色が劇的に改善した。パチリと目を開けると、生前と何ら変わらない元気な姿で、棺からしなやかに降りてきたのだ。
それから約三時間、私たちは他愛のないいつもの会話を楽しんだ。しかしその最中、彼女は突然、頭からダイニングテーブルへと突っ伏した。
「大丈夫かい!?」
顔に怪我がないか確認する。大事はないようでホッと胸を撫で下ろした。
……生の米や果物であれだけ持つなら、新鮮な血肉を与えれば、完全に生き返るのではないか。
一瞬、脳裏をよぎった物騒な思考を振り払い、まずは豚、鶏、牛の肉で試してみるべきだと自分に言い聞かせた。彼女を静かに布団へと運んだ後、私は近所のスーパーへと車を走らせた。
両手に抱えきれないほどの買い物袋を提げて帰る姿を、近所の住人が不審そうに見ていたが、どうでもよかった。すべては妻のためだ。
「ただいま」
元気よく声をかけてみたが、ナギサはまだ眠ったままだ。返事があるわけもない。「すぐにご飯を食べさせてあげるからね、待っててね」と声をかける。
買ってきた生の牛肉を、そのまま彼女の口内へと押し込んでみた。するとみるみるうちに顔色が戻り、彼女はまた起き上がった。
「あなた、次はこっちから入れてね」
ナギサは自ら服のボタンを外し、胸元をはだけさせた。そして、首の付け根からおへそに向けて、右手の中指をすっと滑らせた。
ポッカリと、そこへ巨大な「空洞」が現れた。
「ここなら、いっぱい入るから」
医師ではない私でも、それがおおよそこの世の生物の構造ではないことくらい理解できた。内臓も、骨も、一つも見当たらない。それどころか、血が通っている気配すらなく、ひどく乾燥した漆黒の闇がそこに広がっている。
「こ、これは……」
私が思わず体内へと手を伸ばしかけると、すぐにナギサの手によって制された。
「ほら、変なことしないの」
そう言って悪戯っぽく笑った妻の瞳には、一切の光が宿っていなかった。
それからというもの、来る日も来る日も、私はその空洞へ食べ物を入れ続けた。やはり動物の肉類が一番日持ちがした。空洞の内部を満たすように肉を詰め込むと、彼女は約二日間、何事もないように動き回ることができた。だが、いつエネルギー切れを起こすか分からない彼女を、家の外へ出すことなど到底できなかった。
それどころか、日に日に消費する肉の量は増していくのに、妻が活動を停止して倒れる頻度は上がっていった。
このままでは、家畜の肉ごときでは彼女を動かすに足る栄養が得られないのではないか──そんな予感が胸を締め付け始めていた。
ピンポーン。
突然、静まり返った家にチャイムの音が響いた。こんな時に一体誰だろう。玄関の方を凝視するが、心当たりは皆無だった。
「あなた、お腹が空いたわ」
最近のナギサは、倒れる直前に必ずこのセリフを口にする。
「ナギサは横になっていなさい」
私は引き戸に向かった。磨りガラスの向こうに、女性らしき人影が立っている。「すみませーん」と溌剌とした若い声が聞こえた。
黙って玄関を開けると、相手は私のただならぬ雰囲気に一瞬たじろいだようだったが、すぐに営業用の笑みを張り付かせて用件を切り出した。
「初めまして! 私はプリズムC・9という総合商社のマエハシと申します。この度は、お客様にぜひご紹介したい
新商品がございまして──」
どう考えても怪しい訪問販売員だった。終始笑顔で、中身のない商品説明をまくし立てている。だが、その瞳の奥
は、獲物を見定める野生動物のような獰猛な光を孕んでいた。
「いえ、結構ですから」
「そんなことおっしゃらずに!」
いい加減にして帰ってほしかった。しかし、こういう強引なセールスを突っぱねる強さは、私の性格には持ち合わせていなかった。
いや、待てよ。
脳裏に、悪魔の囁きのような閃きが降ってきた。
「……どうぞ、中で話を伺います。気に入ったものがあれば購入しますので」
意識するよりも早く、スラスラと言葉が口から出ていた。セールスの女は「ありがとうございます!」と満面の笑みで私の後ろに続いた。
ダイニングの椅子に彼女を案内し、「お茶を淹れますね」と言って台所へ向かう。私はカウンターに直置きされていた三徳包丁の柄を、きつく握りしめた。一気に寝汗のような脂汗が吹き出してくる。だが、愛するナギサのためだ。
その間も、女は資料だかパンフレットだかを机に並べ始めている。私は足音を消して、その背後へと近づいた。
なるべく苦しまないように。そう念じながら、肋骨の隙間をすり抜けるように刃を横に向け、左手で女の口を完全に塞ぐと同時に、全力で心臓のあたりへと包丁を突き刺した。
「────────ッッ!?」
女は激しい痙攣のように身をよじって暴れたが、ダイニングテーブルの上の資料が少し揺れた程度で、すぐに動かなくなった。刃を抜くと、面白いように血が溢れ出してきた。妙に冷静だな、と自分でも思った。まるでゲームのキャラクターを画面越しに操っているような、奇妙な俯瞰視点で己の行動を眺めている気分だった。
人間の肉の塊は、想像以上に重かった。
風呂場までのルートの障害物を退け、女の両脇に腕を入れて、抱え込むようにしてズルズルと引きずっていく。何度も息を整えながら、十分ほどかけてようやく風呂場へと運び込み、私は「解体」を始めた。
彼女を喜ばせたい一心だった。私は今、最高のフルコースを用意する一流シェフの気分に浸っていた。
昔、日曜大工で使っていた古びた鋸を持ち出し、女の関節のあたりに刃を当てて、思い切り引いた。ブツブツという不快な手応えと共に、血が勢いよく吹き出す。顔や下着を血まみれにしながら、私は淡々と四肢を切り分けていった。
腋窩から上腕、前腕、手首へ。股関節から大腿、下腿、足首へ。そして、頸椎。
腹部を裂いて臓物を取り出す作業は、凄まじい悪臭とグロテスクな視覚刺激に耐えかね、一度だけ激しく嘔吐してしまった。
シャワーの水を常に流して排水口へ流していたが、人間の脂のせいで次第に流れが悪くなった。私はお湯を沸かし、排水口へ熱湯を注ぎ込んで脂を溶かした。これからの作業のためにも、もっと効率的な処理方法を考えなければならない。
切り分けた部位を、一枚一枚のステーキ肉のように丁寧に水洗いする。汚い血がナギサの体内に入らないようにするための、シェフとしてのこだわりだった。
すぐには使わない部分を冷蔵庫の冷凍室へと押し込み、まずは片腕分の肉塊を、事切れているナギサの空洞へと隙間なく丁寧に納めていく。太い上腕、前腕、手首の順で綺麗に収め、はだけていた服を元に戻してあげる。その間に、彼女はすでに目を覚ましていた。
私をじっと、深い愛情を湛えた目で見つめるナギサと視線が交差する。
「やあ、おかえり。気分はどうだい?」
「とてもいいわ、あなた」
同種肉の効果は、これまでの家畜の比ではないほど凄まじかった。以前よりもナギサが若返っているように見える。二十代の、あの前蛹山で笑っていた頃よりも、さらに美しくなっているようにすら感じられた。
だが、やはりそれも長くは続かなかった。
最初の片腕で二ヶ月持った。しかし、次の片腕を補充した時は一ヶ月半。他の部位をどれだけ丁寧に詰め込んでも、彼女の生存時間は目に見えて短くなっていった。それどころか、活動が止まるたび、彼女の肌は急速に老いさらばえていくようだった。
「どうしたものか……」
私は途方に暮れていた。そうそう都合よく、新鮮で状態の良い「食料」が向こうからやってくるはずもない。通常の家畜の肉では、今のナギサは数時間ともたなくなっていた。
そんな膠着状態が続き、さらに一ヶ月が経過した。頭を抱えて居間に座り込んでいたとき、チャイムの音が響いた。
ピンポーン。
その音を聞いた瞬間、私の顔に自然と笑みが浮かんだ。新しいエネルギー源だ。相手が誰かも確認せず、私は歓喜と共に玄関の引き戸を勢いよく開け放った。
そこに立っていたのは、ナギサの母親だった。
お義母さんは私の顔、そして血の匂いが染み付いた凄惨な家の中を見て、呆然と口を開けて戦慄していた。
「まさか貴方……彼女に『食べ物』を与えてしまったの……?」
「ナギサのためです。当然でしょう。お母さんだって、もし同じ立場ならやったはずだ」
「忠告したのに! なんてことを!!」
お義母さんは私を激しく突き飛ばし、ナギサの眠る居間へとズカズカと入り込んでいった。
「待ってください!」
私は慌てて後を追った。お義母さんは布団に横たわるナギサの前で、口を押さえて立ちすくんでいた。
「この世のものではないものが羽化してしまうわ! すぐにやめなさい──」
叫び声を上げるお母さんの後頭部目掛け、私はあらかじめ用意していた特大のハンマーを思い切り振り下ろした。
グシャリ、と乾いた鈍い音が響く。お義母さんは口から泡を吹き、崩れ落ちるようにしてナギサの体の上へと倒れ込んだ。
「ナギサ。これでまた、ずっと一緒にいられるね」
頭からナギサの空洞へと突っ込まれたお義母さんは、上下逆さまになり、両足だけをまっすぐ天井へと向けた奇妙な格好で静止していた。
ジュブジュブと不気味な音がして、彼女の肉体が内側から適切に消化されていくのが分かった。喜びが胸を打ち、私の鼓動はかつてないほど速くなる。
ああ、また綺麗な、あの頃のナギサに会えるんだ。
消化が完全に終わったのだろう。彼女は上半身をはだけたまま、音もなく立ち上がった。そして、愛おしそうに両腕を広げ、私へと抱擁を迫ってきた。
もちろん、拒む理由などあるはずがなかった。すべては、ナギサと一つになるためなのだから。
彼女の冷え切った、それでいて柔らかでキメの細かい肌が、私の全身を包み込んだ。
同時に、濃密な、生の蛹の底から湧き上がるような生臭い液体の臭いが鼻腔を完全に突き刺した時──私の意識は、心地よく途切れ去った。




