寝静まる頃に
書きかけ
これはある人にとっては見るに耐えない汚物であり、またある人にとってはテーマのないグラフティのようなものであると思う。誰か一人くらい分かってくれという気持ちが無いでもないけれど、俺はそこまで期待もしていない。
少し無駄話になる。生まれてこのかた、目標、目的、主義、主張、、、そんなもの一度も持たなかった。そもそもそれら自体が高尚なものだと思うし、それらは限られた人間がゲームを楽しむための適度なストレスに過ぎない。明日デパートでラルフローレンのセーターを買うとか、友人と野球をするためにグラウンドを借りるとか、そのくらいが俺にはちょうどよかった。ほんとうにそんなものだ。
これまで色々な人とすれ違い、何人かとは親しくなり、そのうち何人かは死んでしまったり、また何人かは生きてはいるけれどもう二度と会うことがなかったりする。拒絶したりされたりもある。そんなものだろう、と思えるまでにはそれ相応の代償があった。それらは往々にして防ぎようの無い手厳しいものだった。
ふとした瞬間、俺のこれまではとてつもない長い夢なんじゃないかと思うことがあった、そう思うと変な汗が出てきたり自暴自棄になったり、人に雑に当たったりしたものだ。今ではちゃんとこれが現実だと分かる。
仮にもしこれが長い夢である場合、忘れないための記憶装置として文章にしようと思った。目が覚めて枕元にノートとペンがなくても、ニュアンスくらいは持ち帰られるだろう、、、いや、そうであってほしい。しかし思い通りにはいかないだろう。言葉による事実への正確なアプローチは人間が最も不得手とする種目だし、まして夢ならなおさらだ。ただ、もしこの種目を完璧にマスターしたとしたならば、殆どの芸術は死に絶えるに違いない。残るのはチープでナードなロックバンドくらいだろう。
とにかく、書くことにする。これまでの人生、というよりある一人の人間が身に付けてきたスタイルについての説明書だと思ってほしい。床や天井を見て時間を潰している人たちには退屈凌ぎになるかもしれないが、読後はそっと抽斗の奥にしまってほしいというのが、俺の願いだ。
もしかしたら床や天井よりつまらないかもしれない。
やはりこれは醜い自己防衛だ。
ねえ、聞いてるの?なんでこんなことするの、別に、あなたなら普通に抱かれてもよかったのに。
女の声が遠くで響く風みたいに実体を失いながら耳に柔らかく侵入する。確かに、俺を酷いと言う女は少なくなかったが、皆んな後から俺を激しく求めてきた。この女もきっとそうだ。
俺は唐突に腰を振った。女が声を上げる。
俺は女の悲鳴や嬌声を聴くと決まってあの「映画」が脳内で再生される。何故だろう…?
…海がきこえる。住宅街の真ん中を車道が貫いて、線路の手前に白いワンピースを着た女がこちらに手を振っている。あんなに綺麗な人だったのに、すでに顔が霞みがかっている。彼女は2つ上の綺麗な人だった、明るくて聡明で、近所の評判も良く、誰もが彼女を愛で、女は嫉妬し、男は彼女の身体を欲しがった。もちろん俺もその一人だった。
俺と4度目くらいのセックスの後
「いつも気が狂いそうなの、誰にも話せないの、ねえ知ってる?わたし、毎日違う男と寝てるのよ。でも朝になれば白いブラジャーとパンティを着けて、セーラー服を着て、学校に行くの…。ねえ、私のこと嫌いになった?」
「…全然。そんなこといいから、もう一回しよう」
彼女は微笑んで、汗で濡れた身体をしばらく俺の胸に預け、そのあとペニスを音を立てて舐めた。
途中で彼女は言った。
「ねえ、鉄を舐めているみたい」
彼女は3年後ビルから飛び降りて死んだ。21歳だった。
俺は今年の冬、彼女と同じ歳になる。
いつもその車道は果てしなく続くかのように見えるのだった。両脇には林道、ずっと遠くの正面には霞んだ山が連なり、足元の細い歩道に大きく角張った石が転がっていて、夏は蝉が鳴き、冬は枯れ葉の擦れる音。いつも真っ直ぐ前を向き、口ずさみながら歩く。空はドブネズミの背中みたいで、雨の匂いがたちこめていた。
仕事が終わるとバスに乗り、最寄り駅から一つ前の駅で降りてそこから歩く。今日は中々適切な音楽が思いつかなかったが、ちょうどいいタイミングで雨が降ってくれた。持っていた古い折りたたみ傘をさして、ワルツフォーデビーを口ずさむ。雨と傘と1人の若い男にピッタリの選曲だ。別にジャズが特別好きというわけではない。
あの女は、と思う。簡単だろうな。やっぱり夏はそういう季節なんだ、俺は冬の方が好きだけど。
いつの間にか音は止み、今回の点検を始めている。スムーズな運びだったか。時間は適切だったか。あの言葉、反応の意味を履き違えてはいないか。
ここは車通りが極端に少ない。この歩道を歩くようになってから、つまり今の家に住むことになってから約1年、多分1台も通っているのを見かけていない。本当だ。
ハンチングを被った老人と年老いた犬にすれ違う。彼らとは何度かすれ違ったことがある。この雑種犬はなにか深く考え事をしているような、意味ありげな目をアスファルトに向けてトボトボと歩くのだった。彼らしかこの先には住んでいないのだろうか?
家というよりは、ロッジやペントハウスに近い、簡素的な白塗りの木造で、俺はこの削ぎ落とされた我が家がとても気に入っている。冷蔵庫を開けてみると一通りの食材が揃えられていた。買った記憶もなければ、俺はこんな丁寧な仕事もしないから多分リサが揃えておいてくれたのだ。
フライパンにオリーブオイルをたっぷりと敷き、塩胡椒を振ったサーロインを中火で何度もひっくり返し、肉を休ませながら丁寧に焼き目を入れていく。フライパンを高温にしすぎないように注意を払う。香ばしさが出てきたらバターとニンニクを入れ、肉にたっぷりと纏わせてからアルミに包み、少し休ませる。フライパンを洗いもう一度バターを多めに入れて、肉が十分な弾力を持ったことを確認し、もう一度フライパンで焼く。ステーキを食べる時、ワインではなくビールを飲む。もう一度冷蔵庫を開けると2ダース缶ビールがあった。リサは気の利く女だ、次の仕事までの間隔がこのビールの本数で分かるようにしてくれている。
肉の焼き方もリサに教わった。全ての物事にはある程度の意識的な訓練が必要なの、呼吸にもね。と彼女は言ったが、全くその通りだった。
半分食べ終えたくらいで雨が強くなった。目を閉じると、アスファルトの匂いがこの家まで入ってきて水浸しになる想像、、何年か前タイに行った時スコールでずぶ濡れになりながらタバコを吸って、何度も火が消えてはその度につけて、確かそこにも悲しい目をした犬がこっちを見ていた。犬は言った、『最も永く続く愛とは、決して報われぬ愛のことである』。
そうかもしれないとしか返せなかった。まず犬が喋ることに面食らっていたからだ。犬はまだこちらを見ていた。
彼女が来る約束なんてないけれど、それまでに何かしようと思っていたことがあって、それがなにか思い出せなかった。ただ窓の外の雨を見ていると急速に年老いてしまう気がしたので、俺は濃くなり始めた顎の髭を一本抜き、黒々としているそれを見て、特に感想もなく前歯で噛んで飲んだ。
庭に紫陽花が咲いていて、雨のせいで大きく揺れている。窓が風を受けて音を立てる。灰色の天気は頭が痛い、昔大麻の吸いすぎでキチガイみたいに笑ったあと、呼吸ができなくなって、ブーンという重低音とキーンという高音が混ざった不協和音が響き渡って上を向いたまま首が硬直して口を開けたまま天井の電灯を見るしかなくて、その電灯から虹色の輪っかが何重にも重なって迫ってきて、眼前で消える。俺はなんとか体を動かして後ろの赤くて硬いソファに横たわり、床が伸び縮みするのをぼんやりと目の端で見ながら、済まなかった、と何度も呟く。京都行こうって言ってたのにな、ごめんな、もう無理だ。強烈な吐き気がやってきて、トイレに行こうとする意思はあるのに、体が全く動かなくて、なんでこんなことに、と思った。でも、いつも俺は、俺の体、俺の魂じゃないみたいにいつの間にかその場にいて、ゲームプレーヤーが指示を出してその通りにキャラクターが動くように、ふわふわと地に足がつかないまま生きてきた気がする。トリップとさして変わりない。
サナギ、、、懐かしい響きだ。サナギという男がいた。奴は男の中の男だった、それ自体が意思を持つ独立生命体のような漲る筋肉と浅黒い肌、そして殺人者の鋭い一重を持っていた。奴の素晴らしい点は、センチメンタルで、純真で、そして惚れた女に狂ったように暴行を加えることだった。俺はサナギのただ1人の友人だった。人見知りで誰かに話しかけられると顔を赤くして俯くような、そんな男だった。サナギは18の時に好きだった同級生と恋仲になり、その子と高架下で青姦して、頂点に達する時に激しく殴打した。落ち着いた後で、彼は雑草に紛れたガラス片で自分の手首をざっくりいったが、運悪く土手を散歩中の主婦に見つかり助かってしまった。精子とガラスと血溜まり、下半身を晒して倒れる男と女。その子は全身打撲、顔面の骨折。すぐに転校した。
サナギは今四国の町工場で働きながらひっそりと生きているらしい。サナギも旅行者の一人だが、制御盤がどうしようもないほどぶっ壊れていた。自意識が滑り込む隙間もないほどに。違いはそれだけだ。愛すべき男だった。
いつの間にか眠っていて、吸っていたタバコの吸い殻が床に落ちていた。テーブルの上の灰皿に捨て、床をアルコールタオルで拭いた。雨は少し弱まっていたが、まだ音を立てて家を打っていた。
突然玄関が開いて、俺はしばらく振り向かなかった。むこうも一言も発さずじっと俺の背中を見ているようで、俺は小学生の頃虫眼鏡で太陽光を利用して葉っぱを焼いたことを思い出した。
「帰ってたのね」
「うん」
俺はリサの所作が好きだ。とても洗練されていて無駄がないのに、艶っぽく感じる。それは今みたいに黒いパンティをゆっくりと脱いだり、俺の耳に口付けたり、形のいい乳房を押し付けたりする時だけでなく、頷き方、頬杖をついて目を落とすその何気ない動きの節々に、黒い綺麗な蝶が舞うような麗しさが走る。俺はリサのことについて殆ど知らないけれど、勝手に家柄の良い女なのだろうと決めつけていて、実際彼女はピアノも弾けるし、心が震えるくらい素敵なスパゲッティを作るし、着ている服も嫌味のない上品なものばかりだった。
リサの秘部に触れると、もう十分すぎるほどに濡れていて、俺が抱きしめたりキスしたりする前に触ったから、彼女は少し驚いて、珍しく顔を赤らめた。
「生理前なの、分かるでしょ」
「分からないよ」と俺は笑う。
彼女はわざとらしくため息を吐いたあと、俺を仰向けに倒して跨った。リサの濡れた陰毛が下腹部に当たってぬるぬると冷たかった。
「女の子はね、生理の前はみんなムラムラするの。分かった?別に、私だけじゃないのよ?」
と言って俺のペニスを握ってゆっくりと上下に動かす。するすると顔をペニスの方に持っていって、尿道を舐め、性刺激を効果的に与えるように舌を動かしながら根元から先端までしゃぶる。俺はリサの髪をくしゃくしゃに掴んで、そのあと頭を撫でてやる。リサはこっちを向いて微笑む。二人の汗と体液が混じった人間の匂いがシーツから立ち上る。
口内に射精する。彼女は蕩けた表情のまま綺麗に飲み干す。
俺は動かない。戸惑って、いつもこれからどう動けばいいか分からなくなる。また浮遊したまま現実に引き戻されて、ヤクの切れ目みたいに体が真ん中から震えるのを唇強く噛んで紛らわせる。リサがこっちを見ているのに気づいて、俺は誤魔化すように押し倒して犯す。リサが声を上げるけど、他の女と違って、思慮に富んだ、こちらを試しているような喘ぎで俺は没入できなくて焦燥を覚えるけど、その分興奮してペニスは硬さを増す。リサを粉々にして、そのベッドで寝たいと思う、リサとこんな関係を築かないまま、街を歩くただの綺麗な女として攫って汚い路地に連れ込んで犯せたならどれだけ最高な気分だろうと思う。この女をもっと杜撰に、ラフに扱えたら、と思いながら、リサの奥深くに吐き出した。リサも同時に達して切ない声を上げた。
セックスが終わると決まって二人で一緒にビールを飲んだ。気だるさと無力感がタバコの煙みたいに寝室に漂っていて、リサの汗で濡れた脇を嗅ぐと、ちゃんと人間の汗の匂いがした。
「ねえ、恥ずかしいわ」
と言って俺の頬をつねるけれど、もう抵抗はしなくなっていた。
「君は、、、」
俺は何を訊こうとしたんだろう。
「なに?」
なんでもない。素敵なレストランを見つけたんだ。今日は外でディナーにしよう。
こぢんまりとした正方形のオフィスはまるで無菌室のように真っ白で、俺は自分が招かれざるウイルスみたいに感じていつも息苦しさを感じるのだった。
Tは白い封筒を俺に手渡す。
「中を見てみろ」
封筒の中には100万(多分)が入っていた。
「50万ほど多いようですが」
「クライアントの田辺さん、お前の仕事にひどく満足してるらしい。まあ、インセンティブだよ。素直に受け取っておけ」
「どうも」
あのユウコって子な、お前と寝たあとおもしろいくらいにスケベになって、田邊さんに縛ってけつ叩いて欲しいって毎晩せがむようになったらしいぜ。試しに縛り上げて蝋燭垂らしたらひいひい泣いて喜んでたらしい。笑っちまうよな。
Tは顔をぴくりとも動かさず、ニュースを読み上げるようにそう言った。そして俺の表情の変化をじっと10秒くらい観察して、一つ鼻で笑った後姿勢を崩して不自然に口の端を歪めた。
「オーケー、余計な話は止そう。次の仕事の話だ。依頼者は丸川肇35歳。ベンチャー企業アゲインの創業者。メディア出演多数。知ってるか?」
「知りません。家にテレビないんです」
動画とかにも出てんだけどなぁ、と言いながら丸川の写真とターゲットの女、それぞれのプロフィールをまとめた資料、依頼内容を俺に渡す。
「女の名前は、」
「結構です」
冗談だよと言ってTはデュポンを開閉する。行儀の良い耳鳴りみたいな音が響く。
「初接触は3日後クラブ『サブマリン』。明日から数えて1ヶ月以内に仕事を完遂するように」
「分かりました。失礼します」
なあ、と俺がドアに手をかけたところでtに呼び止められた。
「お前、いつも何考えながらヤッてるんだ?前にも言ったように俺は善人から人殺しまで取り扱ってきたが、お前みたいなやつは初めてなんだ」
俺は振り向かずに答えた。
「さあ、俺が一番訳がわかっていないし、誰よりも混乱しています。それと最初に言ったように、俺が邪魔になったらいつでも切ってください」
「おいおい先走るなよ」
Tは葉巻に火をつける。
「お前は金になるし、大した犯罪も犯していない。極めてクリーンだよ。お前にしかできないことをしてるんだ。ただな、俺だったらこの仕事、やりたくないね。ほとんどの奴がそうさ。お前、金には全く困ってないはずだぜ?なんで辞めようと思わないんだ?脛に傷もないっていうのに」
「…考えたことないですね、気づいたらこの仕事をしていて、満足いく報酬を貰い、温かい家でご飯を食べて眠る。幸せですよ。社長、俺はなんでこの仕事を始めたんですか?」
おいおい勘弁してくれよとTはまた鼻で笑った。葉巻の甘い香りがした。
「2年前の冬に、突然お前がこのオフィスに転がり込んできて『いいビジネスがある』って言い出したんだぜ?」
「2年前ですか。すみません。その頃の自分のことはあまり思い出せないんです。記憶喪失とかそんなんじゃなくて、こう、靄がかかって、記憶はあるけど昨日のような気もするし10年前の気もするしどこかで見た落書きのような気もする。とにかく、よく覚えてないんです」
病院を紹介してやろうか?
大丈夫です。きっと治らないですから。
外はあまりに暑かった。俺はどうしてここにいるんだろう、と思った。ターゲットの女の顔写真を見たけれど、全く顔が認識できない。顎から嫌な汗が垂れてアスファルトに落ちた。どんなに激しい雨が打ちつけても、その染みは一生ここに残るような気がした。
蝉時雨の隙間に、どこからか懐かしいピアノが聴こえた。
中略
ー哀しみが終わらないと思っているのなら、それはあなたがまだ若いからです。
最後に、この手紙は燃やしてもいいしお腹を空かせたヤギに食べさせても面白いだろうし、トイレットペーパーにしてもいいかもしれません。でも、必ずこの世から消すこと。あなたの中ではまだいい女でいたいからです。
それでは、さようなら。
愛を込めてー。
クラブ「サブマリン」ではDJによって次々と現行のドリルやトラップが響き、若い派手な男女が汗を飛ばして激しく躍る。赤や緑や紫のレーザーがフロアを錯綜して、ビートに合わせてスピードや照らし方が変わる。腕にキリストや自由の女神を彫った者から真面目そうな大学生、尻や胸を触られても仕方のないような格好をした女、実に色んな人種が箱に入っている。
クラブには何度も足を運んだ、女と来たこともあれば厄介に厄介が重なって人を見つけにいったこともある(これははっきりと覚えている、本当に面倒で、そいつを殺すか或いは自分が死ぬか本気で考えたほどだ。そして結末はどちらでもない)。なんにせよ、ここは異空間で、DJが奇怪なほど酔っ払いながらスクラッチして気持ちよくなっていたり、冷たい魚みたいな目をした細身の男がグラスというグラスに錠剤を入れて回っていたり、さっきまで笑って踊っていた女が、トイレから帰ってきた途端震えて泣いてたりする。俺は嫌いじゃないけれど、たまに思う、ずっとこうなら俺もさすがに踊らなきゃいけないような気もするが、踊ってしまえば楽になるだろうな、きっと俺は一度踊ってしまえば、朝まで、客が俺1人になるまで汗だくで踊るだろうなんて思う自分が、外に出て冷たい風を浴びると嫌になるから、やっぱり嫌いだ。
女が見つかる。写真より濃いメイクをして男と腕を組んで、レッドブルウォッカを飲んでいる。顔立ちはまずまずだが笑い方が下品で、数日風呂に入らなくても平気で何もない日はずっと携帯をいじってそうな女だと思った。隣のスキンフェードの男は中肉中背、使い古された竹箒のような色とパーマ、胸に大きくディオールのロゴが入った白いシャツ、首からは安物のチェーンをぶら下げて、女がステージを向いている時全身を舐め回すように見て、後ろの手を徐々に女の尻に近づけている。
俺は後ろから近づいて、右手で女の左手の5本指をしっかりと交差させて握った、振り向いた時はひどく驚いた表情をしていたが、微笑んで、今腕組んでるその男な、君に目を付けてる、こいつはここらじゃ有名なレイプ魔で、もう何人もこのクラブで被害が出てるけど、残念ながら彼をとっちめるのは難しい、ボンボンだからね。彼は今から君に名前を聞く、そして彼は偽名を名乗る、適当な世間話をしながら君のお尻とおっぱいを触る、君もこういうことは慣れっこだろうが問題はここからだ、彼は君にマリブ系の酒を奢る、その中にはもちろんハードですぐに溶ける錠剤が入っていて、君は3分でぐわんぐわんになりセックスのことしか考えられなくなる、相手なんか誰でもいい、とにかくちんこをアソコに入れたり出したり咥えたり擦ったりすることが君の優先事項になるんだ、そして朝起きた時に君は微かな記憶と痛みを辿って、昨夜のセックスでどれだけ自分の尊厳が傷つけられたかを思い出すけど、そのことを誰にも言えない、警察に行ったって真面目に話を聞いてくれるか怪しい、それに君のボーイフレンドもいずれそのことを知るだろう。嫌なら俺の言うことを聞いてくれ、イエスなら頬にキス、ノーならすぐに手を振り解いて、1人で逃げろと耳元で言うと彼女の表情は恐怖と興奮で歪んでいたが、俺の頬にキスをした。うるさいから抜け出そう、もっといいところがあるんだと言って鎖骨に口付けをし、頬を撫でてやると女は強く手を握り返してきて、猫みたいな眼をして言った、
「あなたはだれ?」
小さい頃、浜田省吾の『少年の心』が母の車の中でよく流れていた。その時はメロディーも歌詞も知らないし、これがいつの時代の音楽なのかさえ知らなかったけど、母が泣きながらこの歌を口ずさんでいたことが大きな壁画みたいに頭に貼り付いていて、この曲と関わらないように生きようと思った。高校生の時に自閉症気味の田中という同級生がいて、彼がそのメロディーを口ずさんでいて、同い年ですこの曲を知っているのは俺しかいないと思っていたからつい、なぁ、その歌好きなのか?と訊くと、カマキリみたいな眼だけこっちに向けて、別に好きじゃないよ、と迷惑そうに応えた。数日後彼は1枚のCDを持ってきて、これ、貸してあげると言って俺のバッグに押し込んで帰った。それから一度も田中とは話さなかった。まだそのCDは俺が持っているはずなのだが、どこかに失くしてしまった。
俺は自分の部屋にあった古いCDプレーヤーで何度も聴いた。気狂いみたいに、毎日。
だけどある日革命的な目眩がやってきて、その日に死ぬまでこの曲は聴かないと心に決めた。母が泣いていた理由も、彼女の死もサナギのことも、あのメロディーをきっかけに全てがリフレインされてしまうと気づいたからだ。
ねえ、正直ね、今までで一番気持ちよかったしびしょびしょになったわ、ねえ、あなた彼女いるの?
女は荒い息を整えながら俺に抱きついてきた、強い香水と酒の匂いがしてえづきそうになる。
いないよ。
そうなんだ。私はいるわよ。
どんな人?
そうねえ、お金持ちだけどブサイクね。セックスは優しいけど遠慮がちで、つまんないわ。私のこと勘違いしてるのよ。
どんな?
うーん、、、清楚なお嬢様、みたいな感じかな?こんなエッチなのにね。
女は俺の手を握り自分の両脚の隙間に導いて、俺の指を膣に入れ、顔を歪ませて小さく呻いた。
指に生温かさを感じながら、俺は何も考えずにぼーっとして、明日はなにをすればいいんだろう、と思う。家に帰って料理をして、ビールを飲んでタバコを吸って、少し眠って映画を見よう。あのアルパチーノの映画、、、セントオブウーマンだ、あれを見よう。最初の時よりもいい映画になってるはずだ。次は泣ける気がする。
リサ、、、。リサは明日は来ないだろう。彼女も他の男と寝ているかもしれない、裸に森の匂いがする香水を振って、もっと激しいセックスをしているかもしれない。それがいい。
ふとあの帰り道を思い出す。山を真っ二つに切り裂いたみたいな静かな車道、アスファルトと木と土と雨が混じった風の匂い、、、。あの先にはなにがあるのだろう、俺はいつかあのずっと向こうに行く気がする。海があるのだろうか、もしそうならあの海と繋がっているのだろうか。
女の体が踏み潰されたウシガエルみたいに跳ねた。勝手に喋って、勝手に俺の体の一部を使ってイった。女はこっちを見ながらゆっくり股を自分で開いて、俺のをねだった。肩を思い切り噛んで、太ももをつねり、脇腹に吸いかけの煙草を押し付けてやると、マイケルジャクソンのシャウトみたいな声を上げて痛がった。
あ、あ、と泣きながら俺に抱きついてくる。
こういう時女は光の当て方で色が変わる宝石みたいだと思う。男とは違う体の匂いや表情、獰猛で狡猾で弱く、美しさと醜さがマリアージュされた過剰な生き物だ。俺はサナギにフェミニンを感じていた、奴はあまりに優しくて獰猛で哀れな男だった。
女が深い眠りについたあと、俺は静かにホテルを出て汚いネオン街を歩いた。何軒かバーをハシゴした。オールドパーのロックを2杯ずつ飲んで店を出た。最近オープンしたらしいガールズバーの入り口が開いていて、誰かがサザンの栞のテーマを歌っていた。その日のネオン街は酷かった、吐瀉物と生ゴミとフルーツの香りが混ざった世紀末みたいな匂いが鼻についたから煙草をひっきりなしに吸っていると、マンホールからゴキブリが出てきてUCCの自動販売機の前で止まった、ネズミがいたのだ。彼の尻尾は不自然に千切れていて、昔教科書で見たアフリカの子どもみたいに痩せこけて片目が潰れていた。ゴキブリが固まっていると、ネズミは素早く動いて捕まえて、頭から齧り付いた。俺がしゃがみ込んでもネズミはゴキブリを喰い続けた。俺はさっきやったみたいに煙草の先をネズミの背中に押し付けようとして、やめた。
雨がそこまできていた。
このデジタル資本主義の渦中にいながら詩を生業にしているユニークな知り合いがいる。彼とはあるバーで酩酊した時に仲良くなったのだった(次の日インフルエンザだったことが分かった)。彼の詩は殆ど箸にも棒にもかからない駄文だが、唯一非常に優れた一節がある。
ねえ、暴力は好きかい?ぼく?大好きだよ。いや、大丈夫、みんなそんな顔をするよ。誰か友達はいないかなぁって、昔はよく走り回ったものさ。ずいぶん苦労したよ。でも心配しないで、この望遠鏡ですごく遠くに手を振っている人を見たことがあるんだ。素敵だろう?とても嬉しかったけど、同時にとても悲しくなったんだ。だってぼくには足がないんだもの!
この世界には救いが訪れない者もいる。俺はどうだろうね?
「そんなに難しく考えないでいいよぉ。ただの詩じゃないかこんなの」
全くその通りだね。
俺たちはビールで乾杯した。
1ヶ月後、Tへの報告を済ませ、俺は家に帰った。もう秋がそこまできていた。Tは報告が終わると、クライアントの性癖やその後あのクラブの女がどうなったかを饒舌に喋ったが、俺にとっては知らない国の知らないニュースと同じことだった。
あの女は何度目かの事後物足りなそうな顔をした。体にはもう十分に傷をつけてやったのに、何度も痛みをねだってきた。世の中には様々な人間が様々な人生を潜って、太陽が輝くうちは平然と生きているのだ。
街は夕暮になると冷えた風が吹き始めて、日中汗で濡れたシャツを乾かせた。背中が冷えて鳥肌が体を覆った。カラスが張り巡らされた電線の一角で鳴いた。歪な夕焼けだが、悪くはなかった。
昔終電を逃した駅のホームで、「Fuck patriarchy」と書いたシャツを着た女の子が壁にもたれて寝ていた。胸が大きくて可愛い顔をしていたから、この子は何か訳ありだと思った。 どうやって口説いたかは忘れたけれど、俺はその子と寝た。それはとても純粋な物々交換のようで、俺は彼女が欲しい物をあげて、彼女は俺が欲しい物をくれた。それは単なる性欲の解消や寂しさの埋め合わせではなく、きのこを食べたい男と魚が食べたい女がちょうど居合わせて、双方合意の上で交換したというような、公正で、あるべきトレードだった。
女は俺の耳元で言った、
「私のひいおじいさんは大犯罪者だったのよ」
大犯罪者、と俺は口に出さずに反芻した。面白い響きだった。
「詳しく聞かせて欲しいな」
彼女は目を伏せて、少し考えてから首を振った。
「全然知らないの。というよりも知らないようにしてる。知らないままなら私には関係ないでしょ?」
「そうかもしれない、、、、。でもどうだろう?俺は君のひいおじいちゃんのことをとても知りたいんだ。それは俺が君のひいおじいちゃんみたいになりたいからなんだと思う」
彼女は珍しい模様をした虫を観察する少年みたいに俺の顔を覗き込んだ。
「なんて言えばいいんだろうな、つまり俺はすごく酷い奴になりたいんだ。機嫌が悪かったら野良猫を蹴ったり、ヤりたくなれば通りすがりの女をレイプしたり、それを通りすがりのサラリーマンのせいにしたり、、、、。分かるかな?とにかく、そのくらいに思いっきり、極端に生きてみたいんだ。例えばさ、、、なんて言えばいいんだろう、、、上手く言えないけど、ほら、一生ユニクロの白Tシャツを畳み続ける人生なんてつまらないじゃないか。俺が言いたいのは、つまりそういうことだよ」
「すごく良い人になるのはどう?」
「確かにそういう手もある。だけど雨が上に降ることがないように、俺が凄くいい人になることはない」
「どうして?」
喉が渇き始める。
「ある時資格を失ったんだ」
「難しいわ」
「まだ子供なのさ、、、」
しばらくの沈黙の後、彼女は一旦うつ伏せになって、大きく息を吐いた。そして枕元にあったタバコを一本取り出して指で遊びながら言った、
「みんなそんなもんでしょ?それともあなたって凄く寂しがり屋なの?」
あの時彼女が言ったことはささやかな忠告だったのかもしれない。そして俺はそれに気づかないまま、こんなにも遠くまで来てしまった。
その女の子は生まれ育った海辺の町で税理士をしていると風の噂で聞いた。もう二度と会うことはない。
リサは隣で死んだように寝ていた。彼女は二人分のトマトクリームパスタを作り、ビールと一緒に食べて、ベッドに入る前に俺に今日はできないと申し訳なさそうに伝えた。体調が悪いのかとも思ったが、特にそんなふうには見えなかった。今日は蝉が特別五月蝿く、そして嘘みたいに暑かった。部屋はエアコンの冷気で心地良かったが、冷蔵庫が躾のできていない犬みたいに唸っていて、沈黙が横たわった俺たちにとって、その音は焦燥を掻き立てるようだった。
体を丸めて寝ているリサの頬を撫でた。真っ黒の髪が白いシーツの上で無作為に乱れて、何かを暗示している紋様のように見えた。蝉は俺の頭の中で叫んでいた。ずっと、叫んでいた。
目が醒めるとすっかり外は夕闇に染まり、蝉は全滅したかのごとく鳴くことをやめ、リサはいなかった。昼間と打って変わって外は涼しさが浮遊し、網戸にすればエアコンは必要なかった。
ビールを飲みながら少し散歩しようと外に出た時、ポストに洋封筒が入っていることに気づいた。水道やガスはこの間払ったし、手紙をやり取りするような男も女もいない。Tは俺の家を知らない。知っていても手紙を送ってきたりはしない。
その洋封筒には何も書いていなかった。封を切る。
ベンです、うちに来なさい。
遠くに行きたいと思っていた。とにかくずっと遠くに、、、。街をすり抜け、海を越えて、1人で、無駄のない身なりで知らない場所の冷たい空気の中で生きたいと、静かに、強くそう思っていた。
「人には希望が必要だし、その希望に自分を連れて行く羽が必要で、最初から翔べるやつもいれば、そうでない者もいて、多くは後者、または羽に気づかない前者、悲惨なのは羽を毟り取られちゃうやつだよ、、、。お前には羽があったのか?いや、まて、まてよ。俺は目を見れば分かるんだ、嘘じゃないぜ。そう、ある程度食えるライターになるにはそういうチカラをつけるフェーズが必要になってくるのさ、、、。写真家もね。絵描きには必要ない。大体わかるだろ?全部セックスみたいなもんさ、相手が必要な仕事はな。リピートされなくちゃならない、そうすれば安売りしなくて済むからね。」
特急列車に乗り込み、空いていた窓際の乗降口に近い席に座った。古い電車のせいかディーゼルのにおいがたちこめている。車内に人はまばらで、仕方なく用事で帰らなければいけない、というふうな顔ばかりだった。実際にそうなのだろうと思う。
山を潜り、川を渡り、列車は町に向かって煙を吐いた。進むにつれ何もかもが後退していくようで目眩がした。この町にいた頃、、、。語ることはない。
駅から東に歩く。この町からはすでに夏が手を振って去ろうとしていた。そしてそのことに誰も気づいていないようだった。
潰れたパチンコ屋、潰れた美容院、まだやっているラーメン屋、作業着の男たち、造船所の重い音、時折鼻を掠める潮の匂い。
ベンおじさんの家に近づくに連れ体が何か嫌な音を立て始めた。古い扉の、ギィ、という音だ。やがてその音が右後頭部辺りで、執拗に何度も鳴り始めた。バタン、ギィ、バタン、ギィ。
寒い。
実家のある住宅街をすり抜けて、ベンおじさんの家に向かった。古い扉の開閉音はまだ続いていた。寒気も酷くなっていくばかりだった。寂れた文化住宅が並んでいて、両脇のコンクリート塀の影がアスファルトを覆っていた。以前戻った時より空き家が増え、敷地内には草が無作法に繁殖し、錆びついた自転車や、キリンのビールコンテナが転がっていた。小学校の鐘と、17時に鳴る夕焼け小焼けが同時に響いていた。少し離れたところで子どもの声が聞こえた。俺は老犬のように下を向いて、考えが散らばった頭のまま歩いた。
「ベンおじさん」というのはスターウォーズのオビワン=ケノービから名付けられた。当時から白髭を蓄えていて、日本人とは思えない彫りの深い顔立ちだった。彼にはいろいろな噂があって、由緒正しい公家の血筋だとか、あるフランスの名高い音楽家の私生児だとか、顔を隠して活動している絵描きだとか、どれも出鱈目なものばかりだが、彼は否定も肯定もせず、確かに家も洒落ていて、チェロを弾くし、自作の絵も広間や玄関に飾っていて、それらは噂されているどの出自が真実だとしても納得のいくような出来栄えだった。
ガキの頃、ベンおじさんの家の前を通りかかった時、彼が2階のバルコニーでチェロを弾いている光景をよく覚えていて、それは秋の深まった昼下がりだった。冬を仄かに孕んだ風と厳かな音色に体を抱かれているような気持ちになって、俺は口を空けて長い間ベンおじさんを見ていた。おじさんは長い演奏を終えると、こっちに手を振って、上がってジュースでも飲みませんか?と言った。その時からの友だちだ。
門の前に立つ。久しぶりに目の前にしたこの家は3階建ての白壁で、天使と山羊のレリーフが玄関の真上の壁に施されている。広い庭があり、端に白い椅子とテーブルが配され、四方に植えられた庭木は枝葉を広げ、西陽を受けて影を落としていた。ここにはもっと早く来なければならなかったという気もするし、二度と立ち入ってはいけない気もした。
…… 。
音を立てて門が開く。庭の芝生の真ん中を石段が玄関まで貫いている。
足の裏から静かな震えが伝わる。意思とは関係なく、玄関に吸い込まれるように体が引き寄せられる。近づいてくる、山羊と天使のレリーフ、、、。山羊と天使。
蔦の意匠が施されているドアノブが手に触れると凍るほどの冷たさだった、ここには陽が当たらないのだ。
鍵は掛けられていなかった。
ギィ。
世界中から音が消えてしまったかのように、静寂が隙間なく空間を塗りつぶしていた。埃っぽい赤絨毯や、シャンデリア、壺、階段の手すり、壁に掛かった大きな絵画、とにかくこの家は異質で、維新後に建てられたフランス建築が時代を越えて空から現代に降ってきたかのようだった。
耳を澄ますと通奏低音が聴こえる、音源はこの家のずっと奥の、その深く、パイプオルガンのような、柔らかな地鳴りが絨毯を這って足の裏から上に登ってくる。
階段を一段上がる。子どもが泣いている。
また一段 雨と土の匂いが、
一段 女の身体の匂いが
上がる あの日肩を噛まれた時の痛みー。
2階の居間に彼はいた。相変わらず広々とした空間の真ん中には古いヤマハのグランドピアノが鎮座して、大きな窓の向こうから西陽が差して、レースカーテンが風を受けて広がっている。ベンおじさんはそんな様子を死体のように動かず眺めていた。
「何年振りかな」
アンティークチェアに座っているベンおじさんの側に立ち、顔を覗く。ベンおじさんは恐ろしく老けこんでいたが、一層静けさと賢さを手にしたレオナルドダヴィンチの肖像を思わせる立派な老人になっていた。内臓まで見透かすような鳶色の瞳、日本人離れした鼻筋はそのままに年老いていた、確実に死に向かっていた。
俺はその瞬間を、きっと一生忘れられない、今でも酒やその他諸事情でグロッキーになった時、あの西陽、揺れるカーテン、海の底で眠るクジラのようなピアノ、全てがそのベンおじさんの横顔、死の横顔を中心に展開されるあの空間がフラッシュバックして、目が醒めるのだった。
ベンおじさんは隣のチェアを指し示した。隣に座る。よくこうして2人でジュースやコーヒーを飲みながら、俺はベンおじさんに色々なことを教わった。ご飯はゆっくり食べること、25歳までに各種こだわりの銘柄を決めておくこと、株は売りから入らないこと、新興国株には手を出さずアメリカのビッグテック企業の株式を長期で保有すること、直近の業績よりCEOのビジョンと行動力を見極めろ、お前は金を稼ぐことになるが、納めた税金と寝た女の人数は口が裂けても言いふらすな。
「私には時間が残されてないと気づくまでに時間がかかった。今ではこの有様だ」
ベンおじさんはゆったりとしたカーキ色のズボンを膝下まで捲った、足は海岸線の夕暮れのような鮮やかな紫色をしていた。
「血行障害か?」
わからない、病院に行っていない。ひどい痛みだ、時折気を失うほどに。2年前この美しい痣に気づいた時から、徐々に世界、目に映る景色、物体、空気、色、匂いが摩耗していった、少しずつだが確実にだ、何と言えばいいのか、テープが両端からジリジリと燃えていくような感じで、それは私の時間、過去であり未来であり今だ。取り返しがつかない。それと同時期に体の内部、もっというと脳の後ろ側で虹色の爆発みたいな現象が起こった、網膜が捉えるわけではなく、目の裏側でそれは起こって、はっきりとしたイメージは理解できるが眼球に映っているわけではない。爆発は何日にも渡り続き、やがて何かを形成しようとしていた、それは少年期に過ごした満州の部屋だった。
ベンおじさんは一度も俺の方を見ず、機械的に語った、それは俺がこの家に足を踏み入れたその瞬間に起動するよう呪いをかけられていた魔法人形のようで、満州の部屋だった、と言った後手元のコーヒーを飲む時でさえ、ここでコーヒーを飲む、というプログラムが組まれている動きだった。
大きく息を吐いて、ベンおじさんはまた語り始めた。
部屋ができあがるまでに私の中でまた別のビッグバンがあった、それは古い記憶の解放だった。些末なものから運命を変えた出来事まで鮮明に押し寄せ、私は私を追体験した。家の外の砂埃、煉瓦造りの建物群と煙突、美しい中国人の女教師、下駄や農機具の製作所から聞こえる金属音、瞬きするたびに映像は切り替わり、後頭部は熱された鉄球のように熱くなっていった。
部屋はディテールまで完全再現され、静寂がうす暗い部屋を支配した、それは質量と寒気を孕んで、少年となった私に幽霊や妖怪を想起させた。目の前に古い木製の扉があって、ところどころささくれていた、それは当時の部屋ではなく、もし今現存していればこんな感じだろうといったドアだった。私はそこで永久に近い時間座り込み、声も出さずドアを見つめていた。
目が覚めた、俺はチェロもピアノも弾けなくなった。弾きたくなくなったんじゃない、弾けなくなったんだ。音楽、音を奏でる、メロディー、キー、音符、コード、そういった構成要素の意味が分からなくなった、正確には言葉の意味は分かるけれど、それらが遥か太古の楔形文字として耳から側頭葉に伝達されて、理解を諦める。ずっとそうだ。
私は見ての通り空っぽになった、生まれ変わった瞬間にあまりに多くの情報が脳内を埋め尽くしたからだ、判別できなければそれは訳の分からない記号でしかない。そこにも、
そこにも、そこにも、そこにもそこにもそこにもそこにもそこにもそこにもそこにもそこにも
ベンおじさんはそこにも、を途中で切っておそらく冷めきっているだろうコーヒーを啜った。そこにも、のこだまがまるでいつか聴いたガムランのように部屋中の隅から隅まで響いて、俺の足の小指の爪の細胞の中の一つの粒子を構成するその先の先まで振動させた。
ベンおじさんはそれから動かなかった。陽が落ちて、明け始めの様な紫が訪れ、そのグラデーションに合わせてベンおじさんも溶け込んでいった。ゆっくりと目を閉じて、長いまつ毛が震えた。
俺は椅子を立って、家を出た。すっかり暗くなった住宅街を抜け、自宅の脇を過ぎた。そこに音は無かった、俺の生まれた家は、古くなったタイプライターのように眼に映った。俺は駅に辿り着くまで冷たい夜を泳ぐ魚みたいに言葉を失っていた。
駅に辿り着く頃には恐ろしいほど体が冷えこんでいた。そばにある紳士服店でコートとマフラーを買ってその場で着た。店主は真夏にコートとマフラーを買う男を不審に思って「いらっしゃいませ」も「ありがとうございます」も言わなかった。この禿げた背の小さな店主が人差し指で押す古いレジスターの音がどこかに暗号文を送信していて、その内容は俺を捕えることで、急がないと俺を誰かが攫ってしまうのだと思った。
脳天から氷柱が突き刺さっていて身体中の血が冷えて凝り固まっていく。真夏のホームは脂ぎったサラリーマンや夏服の高校生たちがそれぞれどこかに向かって急いでいた。初めてコカインを吸った時のなんだこんなもんかと思って数分した後の浮遊感と昂揚と、キレた時の恐怖とか冷や汗を思い出した。なんでもやってやろう、ひどいことをしようと思うと興奮した。
みんなが俺のことを見ていた、夏の終わりにコートとマフラーで足早にホームを歩く男。
電車の揺れは寒さをより酷くした。死ぬほど眠かったが眠ってしまったら二度と目覚めることができないと感じたのだ。車掌のアナウンスが遥か遠くの海から聞こえる汽笛のように耳に届いた。
ポケットから鍵を取り出して何度鍵を開けようとしても開かない。俺はドアを叩いたが、なんの返事もない。思い切りドアを蹴ってもドアは開かない。もう一度鍵穴に挿して回すと、開いた。
俺は玄関に倒れ込んで、這いつくばりながら洗面台に行き、からだを凭れ掛けながらグラスを取り、水を2杯飲んだ。一度眼を閉じてしまったせいでもう瞼を持ち上げられなくなってしまった。リビングに向かってベッドのあるところに倒れ込み、最後は気持ちよく死のうと思いながら寝た。
意識が途切れる寸前、シャワーの音が聞こえて、その音の中で、いつか行った海辺のバーで飲んだ甘い酒や外の優しい潮風、路肩に停めた古いセダンのことを思い出した。
とてもひどい夜だった、とリサは遠くを見ながら机を指で規則的に叩いていた。俺は昨晩リサにどんなひどいことをしたのだろうと思った。起きた時、感覚を取り戻してくるとひどく汗をかいて身体が冷えていることが分かって、それは酩酊とは違い物理的に説明のつきやすい理由だったのでかえって落ち着いた。
背中側にリサが寝ていた。俺の肩にかかる柔らかい髪が揺れるのがむずがゆく、リサの方に寝返りを打った。リサも俺も裸で、彼女も汗でぐっしょりだった。シーツが2人の体液で湿って気持ち悪かった。
私にとってもね、と彼女はビールをゆっくり飲み下した。グラスを置いて、自身の発言について思いを巡らせているような表情をした、ようにみえた。もしかしたらただビールを吟味しているだけなのかもしれない。
「昨日のことは、、、、」
「いいのよ」
彼女は俺に微笑みかけた。
「あなたの周りには、言葉にしないほうがいいことばかりが溢れてるのよ。これもその一つ。でも私はあなたに犯されたと思っていないわ。知ってるでしょ、あなたとご飯を食べる、あなたと寝る、全部好きでやってるのよ」
それに、とリサは俺の手を取る。
「別に犯されたっていいのよ、あなたは優しすぎて、別に満足してないってわけじゃないのよ。ただ、もう少し乱暴でもいいと思うの。これは私が単にマゾヒストってわけじゃなくて、私が弱い人間だからだと思う。弱い人間はよくヒステリックを起こすのよ。私たちを安心させるものがあなた何かわかる?」
なんだろうな、具体的な依存先かな。
「そうね、そんなところよ。例えばなんだけど」
視線を落とし手のひらを見つめて、一つ息を吐いた。
「少し逸れるけど、痴漢とかレイプとか、初めてあった男の子3人に酔わされて回されて、ハメ撮りも撮られたりされたあとにする好きな男とのセックスってあそこがすごく濡れるのよ、なんでか分かる?」
リサの口から発せられる痴漢とかレイプとか4Pとかハメ撮りとかアソコが濡れるという音は妙にエロティックで、それらを想像しないわけにはいかなかった。
なんだろうな、強いストレス後のカタルシスってことかな。分からない。なぁ、それはリサの体験談なのか?
そこは重要じゃないのよ、と椅子を立ち俺の膝の上に跨った。余計なことを口走ったと後悔する間もなく首に腕を回し俺の耳を噛む。リサの体から性的で甘酸っぱい香りが溢れた、汗とアソコの匂い。ワンピースを捲って触ると下着から滴り落ちるほど濡れていて、リサは吐息を漏らして微かに喘ぐ。
「被支配、もしくは権利がない状況が1番体力を使わなくて済むのよ。男とかお酒とかタバコとか、とにかく考えないで、無責任に浪費できる時間とか、言い方が難しいけど、人のせいにできるような状態に身を置いて、そこで泣いたり嘆いたりして安心したいのね。怒られたり慰められたりして」
俺は君に酷くしたいと毎回思ってるけど、それをしてしまうと一生君に甘えることになりそうで、そんな自分を想像するだけで死にたくなるんだ。
喉元まで出かかったその言葉を飲み込んだ。胃液の味がした。
抱いて、とリサが耳元で囁いて、俺はベッドに連れて行こうとしたけど、リサは今すぐ、欲しいと言って聞かなかった。
リサはその日6回オーガズムを迎えて、俺は3回射精した。リサは初めて行為中に俺を好きだと言った。
ペルー人のカルロンってのがいてな、こいつは人口減少とか物価上昇、というか日本がどれだけ弱くなってて、そしてそのことに対して日本人がどれだけ無関心かということによく気づいていながら、良心的な価格でクスリを捌いてくれるお得意さんなんだ、南米にちゃんとしたルートを持っていてな、絶対足がつかないような輸送ルートと人間を揃えてアジア市場を治めてるんだ、『僕はずっと小さな国の王様になりたかった』というのがカルロンの口癖で、色んな妄想を話すんだ、それが結構面白い。
妄想?
会えば分かるとTは言った。
あいつは天使って言うんだよ日本人のことを。つまり馬鹿だと思ってるんだな、実際そうなんだけど。
マリファナを吸っているせいか、Tはいつもよりよく喋った。唇を煙を吐くたびに舐め、煙の向こうから応接テーブル越しの俺を見る。
俺が南米人のことを好きなのは金のために平気でなんでもするのに信仰心やプライドを持っているからだ、そしてこれは全く矛盾しない。徹底的な個体の意識がDNAに植え付けられていて、優越感も罪悪感もないから、行いの瞬間善悪をいちいち気にしない、自らのためにすることはすべからく善となるんだ、面白いだろ?金がない、アソコに金持ちがいる、ですぐに行動に移せるわけだ。
全員そうなんですか?
『全て』という言葉の意味は便宜的すぎて良くない。何事にも全てが、全員がそうだなんてありえないことなんだよ。
マリファナを揉み消して唇を舐める。Tの歳は知らないが肌の質感から35から42の間のはずなのにチェルッティのスーツを揃えていて、今日は木曜日だからダークブラウンのシングルを着ている。外資系ファンドに勤務しているような見た目だ。
Tはブランド品の鑑定士のように、俺の頭から爪先まで視線を向ける。1ヶ月に一回俺はこの部屋で30分ほど裸にされて、Tに身体を点検される。ゲイではないが男とヤッたことがあるらしく
「深い泥沼の中にダイヤモンドが埋まっていて、あと少しで取れそうなんだけれど、一生取れないという感じの、無為の徒労だったよ」
そう話したのは街の角にある汚いハブで飲んだ時だったと思う。
俺の上腕を掴むとTは思い切り握る。筋肉がスライムみたいに指の間を蠢く。
もういい服を着ろと俺の肩を叩いてTはメリーフェアーのチェアに腰掛けた。
「死にたくはないよな、お前も」
「もちろんです」
普段全く無駄話をしたがらない目の前の男が訳の分からないペルー人について喋り始めた時点で薄々気づいていたが、これは死体が転がる種類の、つまり管轄外の領域だから、俺がそんなところまで首を突っ込むこともないし、死にたくはないし、ただ断ればいいだけだった。
俺はお前に対してなんの拘束力も持たない代わりに、ヘタをこけばいつでも切れた、別にこんなことお前に言ったことはないけれど、それは暗黙の了解のはずだ、そうだろ?
頷く。
別にこの男に恩も義理もないが、Tを介して必要以上に金を稼いだ。Tは強請りも運びも強要してこなかったし、俺は色んな女を抱いて、間接的に女やその向こうにいる人間を大いに苦しめたことがあるのかもしれないが、そんなことをいちいち考えていたら誰もが一歩も家から出られない。それ以前に女たちは色んな汁を零しながら俺が萎えてしまうほど恥ずかしい声や言葉やポーズを惜しみなく披露したのだった。その後のことなど知ったことではない。
「今回はそうはいかないんだ。お前にも協力してもらう」
「内容次第です」
「お前に全容を話す必要はない」
「それならいつものようにタスクのみ伝えればよかったと思うのですが」
「フェアな交渉が俺のポリシーだ。まあいい、心配するな、お前が死ぬことはない。少々いつもより複雑なだけだ。とにかく聞け」
Tはタバコに火をつけた。
ある男を社会的に抹殺してもらいたい。
歓楽街の外れにあるスパニッシュバルでピルピルを2杯目のビールで流し込むのと同時に、マキノがデニムショートパンツにプラダのTシャツという格好で入ってきた。シャツは俺が昨年プレゼントしたものだ。
マキノは席につくなりクラフトビールを頼み、一度もこちらを向かずにため息をついて頬杖をつき、またため息をついた。
「怒ってるのか?」
彼女は自分の手の甲を見つめた。浜辺に落ちている小さな貝殻のようなマニキュアが天井からぶら下がっているペンダントライトの光を反射していた。
「なんでそう思うの?」
マキノは俺と会った時に交わされる最初の会話ですぐにイニシアチブを握ろうとする癖がある、つまり質問を質問で返したりこちらの問いにしばらく返事をしないといった、幼稚かつ卑屈で自信のないマゾヒストには絶大な効果を発揮する手法を取るのだが、俺はもう何度も見せられて最初こそ微笑ましかったが、流石にうんざりしていた。
「なんとなくね」
「最近忙しいの。最近モデルの仕事が週に3回は入るし、オーディションも受けろって社長に言われて、もういくつか最終メンバーに残ってるから、今後は本格的にそっちにシフトしなきゃいけないって田原さんが言ってたわ。だから大学も休職しなきゃならないかもしれないし、恋愛なんてしてる時間はないのよ」
だからあなたとこういうふうに会えるのも、もう最後かもしれないと言って、視線を落とし、グラスを傾けた。縁に口紅がべっとりとついた。レンアイ、というのが遠い国の料理みたいな響きだった。
「そうか。じゃあ今日はもうマキノと会える最後の時間だと思って楽しむよ」
膝の上あたりに手を置くとマキノは身震いして身を捩ったが、嫌悪感からではなくこの前のセックスで執拗に今手を置いている箇所から陰部の間を何時間も様々なやり方で嬲られたのを思い出したからだ。マキノの瞳は濡れている。
マキノの変容は早送りで見る昆虫の羽化のように鮮やかで脆かった。強情で気持ちと真逆の言葉を吐くのに勝てない相手にはすぐに腹を見せる。依存性が高く、雑に扱われるほどエクスタシーを感じる。マキノは絵に描いたような見た目の良い馬鹿な女だ。
あなた他の人にもこういうことしてるんでしょ、
私にあんなことさせておいて、ほったらかしにした
なんでそんな酷いこと言うのよ、さっきは悪かったわ、久しぶりだからどう話して良いか分からなかっただけ
ねえ、その「最後」って言うのはやめて
前よりもっと上手にするから、今日はずっと一緒にいて。
吹き抜けのマリオットホテルのロビーラウンジですれ違う人たちに気づかれるほどマキノが欲情していたのは、個室のバーで俺のペニスを延々しゃぶったからではなく、チェックインする前に寄り道して庭園を歩いている際に起こった緊張と緩和によるものだった。言葉は情報、その情報とは心や精神そのものだと思う。人間は情報に弱過ぎる。
マキノは情報に興奮していたのだった、俺のことが憎くて、本人が自覚していないほど肥大化した自尊心を踏みにじる男を何度忘れようとしても、忘れようとするたびに自分がこれまでどれほど俺に快感を植え付けられたか、それもそのご立派な自尊心を砕かれるようなセックスによって何度オーガズムを迎えたのかを、拙い文章力で、しかしヒステリックを起こすことなく淡々と伝えようと努めていた。語り終えたあと俺に肩を寄せて、その時に不自然なくらい体が熱くなっていた。近くにあったベンチに座らせて自販機で水を買ってくるから待ってろと言う俺を引き留めて、どんな方法でもいいからここでイかせてほしい、そんなに時間はかからないはずだからと、その声が割と大きく夜のしんとした庭園に響いた。
女と寝たあとに必ずする話をマキノにも話した、マキノはまたその話なのねと言って冷蔵庫から水を取り、ベッドに潜る。マキノは苛めてやると絶対服従の姿勢を取る、彼女にとってその表現は男がやめろと言うまでフェラチオを続けることだった。




