一話
まるでうたた寝から起きるような心地良い感覚に、瑞希は目を開けた。
(あれ?)
ぼんやり見える視界の隅に、鮮やかな草原が目に入る。
(どこだろう)
古本屋で本を読んでいたら、車に突っ込まれて人生終了。
それならば、ここは死後の世界なのだろうか。三途の川という言葉を思い出して、その場所なのかと考える。
悲しい最期だと言えばそうだが、すごい確率だ。こんなレアな経験をするぐらいなら、死ぬ前に宝くじでも引いておけばよかったかもしれない、なんて間の抜けた考えが頭の中に浮かんでくる。
(そういえば、三途の川ってなにするんだっけ)
上半身を起こして遠くの方を眺めるが、川らしきものは見えない。
三途の川の向こうからおばあちゃんが手を降っている。みたいな表現を聞いたことがある。では、死んだ人間が行き着くのはその向こう側なのだろうか。
(なら、天国?)
立ち上がると、目眩がして思わずよろける。
少し肌寒い。死んだはずなのに、妙に人間らしさを感じる肉体を不思議に思いながら、どうしようかと悩んでいると、「おい」と背後から声を掛けられる。
「なんですか?」
思わず普通に返事をしてしまったが、この人も死んだ人間なのだろうか。
声を掛けてきたのはかなり大柄で、体格のある男だ。少し不思議な服装をしているのが気になるが、死後の世界ならそれもおかしくないのだろうか。
こんな人でも死ぬんだと、当たり前の事を思いながら、一つの疑問が出る。
(なんか、自分の声が低いような)
聞き間違いだろうか、男のような低い声が自分の口から出たような気がする。
確かめるために、目の前の男にもう一度話しかけようと男の方を見る。
「なんですか? じゃねえだろ」
男の突き刺すような恐ろしい目と合い、瑞希は思わず開きかけた口を閉じた。
見上げた瑞希の視界に、大きな男がいっぱいに映る。
男の目には蔑みと嘲笑の色が見えて、瑞希は恐怖で後ずさる。
「俺は残念だったんだよ。お前を追放するってアイツが言ったせいで、楽しみが一つ減ったんだから」
男はまるで自分を知っているような素振りを見せるが、瑞希は目の前の男に全く見覚えがない。
(追放……?)
どこかで聞いたような単語が出て、思い出そうと頭を働かせるが、この異様な状況では上手く考えられない。
目の前の男は、片方の口角をあげて不気味に微笑む。
「死んだかと思ったら生きてるみたいだし、もうちょっと遊んでやるよ」
男はそういった直後、瑞希の腹を殴り、瑞希は草原に倒れ込んだ。
その体格にふさわしい力で殴られ、ゲホッと咳き込むと、口から胃液と思われる液体が零れ出る。
(い、痛い……)
この場所は死後の世界ではないのかもしれない。痛む腹を抑えながら、瑞希は這いつくばって逃げようとするが、男に髪を引っ張られて、強制的に目を合わせられる。
「ほら、ミズキくん。最後に言いたいことはあるか?」
「た、たすけて……」
恐怖で全身が震え、目の前の男に命乞いをするが、男はそんな瑞希を一瞥すると、腹を抱えて笑い出した。
「ギャハハ、その顔、その顔だよ! 不細工で、惨めで、みっともない!」
男は下品に笑う。
今まで、人に殴られたことも、ここまでの敵意を向けられたこともない瑞希にとって、その言葉は絶望を感じさせるに相応しいものだった。
「お前は最初からこうなる運命だったんだよ。落ちこぼれクン」
男は歪んだ笑いを見せる。その顔は、人間とは呼べないほど邪悪で、醜悪で、瑞希の全身から血の気が引いていく。
◇
「――ですか……」
ゆらゆらと、まるで水の中に潜った時の景色を思い出させるような、ぼんやりとした感覚に揺られている。
瑞希を落ちこぼれだと言っていた大きな男は、瑞希をひたすら殴り、蹴り、「謝れば許してやっても良い」と言ってきた。だから、顔を踏まれながらも土下座をして命乞いをしたのに、あの男は大笑いした後に「俺に命令するつもりか? 舐めてんじゃねえよ!」と理不尽な怒りを露わにした。
車に突っ込まれた時の方が良かった。なぜ、死んだはずなのに、こんな目に合わなくちゃいけないんだろう。
あの男の見下ろす目を思い出して、自然とその後の暴力も思い出す。
(まだ、生きている?)
また、あの理不尽で、恐ろしい暴力を受け続けるのかと、頭が真っ白になる。
「あの……?」
ぼんやりとした視界の隅に、人の腕のようなものが見えて、息が止まる。
(嫌だ、嫌だ……!)
咄嗟に体を丸め、目を閉じる。いっそのこと気絶してしまえば楽なのに、どうして目が覚めてしまったのだろう。
来るであろう暴力に怯えてじっと待つが、しばらく待ってもそれがやって来ることはなかった。
「だ、大丈夫ですか?」
代わりに女性の声が聞こえて、瑞希は抱えた手の隙間から外を見る。
ピンク色の長い髪が見える。ゆっくり目を動かすと、こちらを心配そうに見つめる人と目が合った。
「わ、私は通りすがりのものです。倒れているあなたを見て、声を掛けたのですが……」
その人は、「大丈夫ですか?」と瑞希を心配そうに見つめる。
一瞬、助けが訪れたと安堵するが、すぐにこの人を信じても良いのだろうかと疑念を抱く。
だが、彼女は怯える瑞希を見ても、何も言わず、そっと距離を取ったまま心配そうにこちらを見続けるだけだ。
「あ、の……。あなたは……?」
瑞希はギョッとして自分を見下ろす。
(声が低い)
まるで、男のような。そっと自分の首を撫でると、いつもより盛り上がっている喉仏が手に当たる。
目の前の人は、そんな瑞希を不思議そうに見つめながらゆっくり口を開いた。




