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異界の狗Ⅱ

作者: 大浦 怪法
掲載日:2025/12/15

「いったい、此処は、何処だ・・・」

桜井は、呆然として立ち尽くした。

「うっ、ひくっ・・どうしたって、いうんだ・・ひくっ・・・」

牟田は呆けた顔をして、頭を桜井の右肩に凭れ掛け、時々、膝をがくりとさせながら突っ立っている。

「な〜んだ、あるじゃないか、あそこに、美味そうな、飲み屋が・・・」

と牟田は続けて、煤けたどでかい赤提灯を指差して前に出ようとする。

「ちょっと、待て。」

桜井は、咄嗟に牟田のコートの袖をグイッと掴んだ。

牟田は仰け反りながら、振り払おうとする。

「ちょっと待てと、言っているんだ!」

桜井は語気を強めて言いながら、素早くコートの肩口に持ち替えて強く引いた。

「何だよ、あそこに美味そうな飲み屋が、あるのに、ひくっ・・・」

そう言って、牟田はうな垂れた。

いつもなら一笑に付す桜井だが、今日はそうもしていられない。


此処は、辺り一面、ブラックライトで照らされているように茫漠としている。

狭いトンネルのような小路が五十メートルほど続き、その先は靄のようなものが立ち込め、見通せない。

振り返れば、後方も同じ様子だった。

自転車が三台ばかり並んで走れるくらいの幅の小路の両側には、大正後期か昭和初期の造りと思える数十件の飲み屋らしきが、犇き合って軒を連ねている。

そのうち、看板灯が点いている店が三軒あり、中でも、店先にどでかい煤けた赤提灯が下がる店が際立っている。

人間のあばら骨のような骨組みの赤提灯は、今にも消え入りそうな薄暗い灯りをゆらゆらとさせ、上張りには、蛇が這ったような墨字で『じごくの一丁目』と書かれている。

その赤提灯は、桜井と牟田が此処に入り込んでから、此処だよ、と誘うようにぶるぶると震えているのである。

天上を見上げれば、濃い紫がかった空には、星一つ、雲一欠けらも見えない。

飛び上がれば手が届くようだった。

空気の流れが感じられず、臭いもしない。

海辺の町ならば潮の匂い、飲み屋街ならば酒臭や路端を流れる汚水の臭い、戦場ならば火薬と血の臭いなど、その地特有の臭いがある。

だが、此処は何の臭いもしない。

地面はスポンジの上にでもいるかのような、ふわふわとした奇妙な感触がする。

桜井は、片膝をつき地面を触った。

苔むした土壌のような感触なのだが土気がなく、作り物のようだった。

・・と、背後に妙な気配を感じ振り返ると、さっきまで立ち込めていた靄が中心部を吸い込むように、ゆっくりと左に回転している。

後方の靄も、同じように回転している。

桜井は、ただならぬ予感がした。

戦場という修羅場を何度も潜り抜け、研ぎ澄まされてきた桜井の直感だった。

『落ち着け。どこかに出口があるはずだ。』


二軒目の居酒屋を出て、千鳥足の牟田を抱え、三軒目を探しながら人通りが途絶えた新宿のビル間の路地を、外壁に肩をぶつけながら歩いていた事は憶えている。

・・とすると、あの路地のどこかに此処に通じる入口があることは間違いない。 

今この位置に立っているという事は、後方の靄が入口なのか、そして前方の靄が出口なのか。それとも、別の出入り口があるのか・・・。

「早く、行こうよ、もう一軒・・・あの店で、いいじゃないか、あの店でさぁ。」

牟田はおねだりするように言った。

「まぁ、待て!」

桜井は、声を押し殺すように言った。

「何だよ、入らないのかよ、じゃぁ、何で此処に、来たんだよぅ~。」

牟田は、聞き分けのない駄々っ子のように管を巻く。

 ・・と、桜井は、ただならぬ気配に前後の靄に目を向けた。さっきより、回転の速度が増している。

桜井は前方の靄に向かって歩き出した。赤提灯はとうに過ぎている。

「おい、どこへ行くんだ。そっちじゃぁ、ないぞ・・・ちき、しょう・・・」

牟田は、半べそをかいてその場に坐り込んでしまった。

桜井は、前方の霞の渦の五メートルくらい手前で足を止めた。

これ以上近づくと、靄の渦の中に呑み込まれそうな気がしたのである。

渦は、丁度、桜井の目線あたりでゆっくりと左に回転している。

桜井は渦の中心に眼を凝らした。

これは、ただの渦巻く靄じゃない、桜井の直感は理屈抜きにそう訴えている。

一筋の靄が、生き物のように、渦の中から地を這い、桜井の脚に纏わり付こうとする。

「はっ!」

桜井は反射的に、一、二歩、飛ぶように後じさりした。

靄は、桜井の動きに呼応するように後を追い、また纏わり付こうとする。

桜井が、さらに一、二歩後じさりすると、靄はスーッと渦の中心に引き込まれた。

「何なんだこいつは、まるで生きてるようだ。」 

桜井は、怯えたような表情で呟いた。

桜井は、もう二、三歩退き、ジーンズのポケットからハンカチを取り出した。

ハンカチを投げやすいように固結びにすると、靄の渦の中心に向かって放り投げた。

すると、ハンカチは、まるで水が排水溝に吸い込まれるように、渦の中へ消えていく。

ボールペンを胸ポケットから抜き取り、渦の中心に向かってすくい投げの要領で放り投げた。結果はハンカチと同じであった。

桜井は身を翻し、後方の靄に向かった。

「お~い、何処に行くんだよ。だからさぁ、そっちじゃないってばぁ・・・」

牟田は、目の前を通り過ぎる桜井に言った。

だが、桜井は、全く気に留めない。

後方で渦巻く靄も、意思ある生き物のように、桜井が放り投げた百円ライター、ポケットティッシュといった『おやつ』を、スーッと、呑み込んでしまった。

その時、だった。

「そんちもこんちも出口じゃ無きゃよ~。無駄んことはやめて、こんちへ寄んなされ。」

桜井の背後から、珍妙な訛りのある、年齢も性別も分からない声が聞こえたのである。


 桜井が声の方に振り返ると、いつの間にか、とば口のどでかい赤提灯の脇に奇妙な風体の人物が立っていた。

店内には明かりが灯され、入口の引き戸が半開きになっている。どうやら二人を店に引き込むつもりらしい。

その人物の風体ときたら、髪は頭の天辺で玉ねぎ状にぞんざいに結い、顔は目から下は白い手拭で覆われギョロっとした目だけが異様に光り、暗色の絣の着物に灰色の前掛け、足元のつっかけ姿は、これも大正後期か昭和初期のすれた老婆のようであった。

「なんだと? 誰だ、あんたは。」

桜井は臆せずに言った。

「まぁ、そん尖がるこたぁなきゃよ。わしゃ、こん店の女将じゃがな。」

人物はじろりと桜井を睨んだ。

「女将・・・」

桜井はそう呟くと、その女将を睨み返した。

「そんちは、一度入りよったら、抜けられん無間地獄さな。行きたけりゃ行かせるんも一興じゃが、そんが分かっていて行かせるんも、可哀想だでな。うふふ・・・」

手拭の口元あたりが吐息でかすかに動くと、女将の目が哂った。

「無間、地獄?」

桜井の目が吊上がった。

いつの間にか、牟田が桜井の袖にしがみ付きながら、にやけた顔をして、女将の様子を窺っている。

「冗談もいい加減にしろ。此処の出口は、何処なんだ。」

「見てんとおり、此処んには、出口は無きゃよ。」

「出口が、無いだと?」

「そんじゃ、無い。」

「じゃ、なにか、ここは出口のない地獄の一丁目ってわけか?」

「まぁ、そういうこんだのぅ。」

女将の目が嗤った。

「ちっ、ふざけやがって。」

桜井は吐きすてるように言った。

ふと、靄に眼を向けると、渦の回転はさらに早まっている。

「そうさよ、時間も、ちょっとんしか残っとらんし。」

女将は、こっくりと頷いて腕を組んだ。

「連れん人も飲み足りんようじゃし、悪いこたぁ言わん、さぁ、寄んなされ。今日やっとるんはこん店だけじゃ。向こうさ店は、閉めよったしのぅ。」

そう言うと、女将は音も無く店の中に姿を消した。


いつの間にか、黒っぽい暖簾の店の軒燈とくすんだ黄色の看板灯は消えている。

靄の渦の回転は、時間の経過とともに確実に早まっている。

『一刻も早く此処から脱出しなければ・・・だが、どうやって・・・そうか・・・』

桜井にある思惑が浮かんだ。

「牟田、お望み通り飲ませてやる。但し、お前と酒を飲むのはこれが最後だ。いいな。」

桜井は、自分の腕にしがみついている牟田に言った。

「あぁ、何でも、お前のいいように、してくれていいから、とにかく飲ませてくれよ。あの店でさぁ・・・。」

桜井は牟田の腕を抱えながら、赤提灯の飲み屋の戸口に立った。

桜井は唖然とした。

店の中は特殊効果のように極度にくすんだセピア色をしている。

フィルターを掛けられたように、全てがぼやけて見えるのである。しかも、光源らしきはどこにも見当たらない。

店は思いの外狭く、奥行きはせいぜい一間強、間口は一間にも満たないだろう。

カウンターテーブルと壁面間のスペースが極端に狭く、『お客』が坐ると壁面は丁度良い背凭れになる。

カウンターの中も狭い。

新米の大工がついで仕事で取り付けたような棚には、何枚かの中小皿、コップ数個が置いてあるのだが、他の器は見当たらない、品書きの一枚もない。

女将は狭いカウンターの中に立ち、一升瓶をテーブルの上に置いて、その口に両の掌を重ね乗せて待ち構えていた。

女将の前のテーブルには、コップが二個と棒切れのような箸が二膳、そして小皿が二つ用意してある。

「いらっしゃいなぁ。まぁ、お座り。」

と言って女将は、二脚の枯れ木で作られたような椅子を指差した。

先ず動いたのは、牟田だった。

牟田は、カウンターテーブルの間をすり抜け、奥の椅子にちょこなんと坐り、すかさずコップを手に取った。

女将は、一升瓶の栓を開けて牟田のコップにこくこくと注いでいく。

牟田は、注がれているうちから口を付けている。

「ふぅ~、あぁ〜あ、ようやく、落ち着いた。」

桜井は、牟田の落ち着き払った様子を目の当たりにし、驚くばかりだった。

牟田は、慎重といえば聞こえは良いが、元来怖がりで臆病な人間である。

何をするにも、人に先んじて行動するタイプではない。

少なくとも、桜井と二人の時は、どんな些細なことでも桜井より先に行動することは無かったのである。

「そっちん人も、はよう、お座り。」

意表をつかれキョトンとした桜井を、女将は誘う。桜井は用心して、手前の椅子に坐った。

「女将、今日のおすすめは何だい?」

牟田はおどけて言った。

「今日のおすすめはなぁ、イモリの干物と炒りシラミじゃぁよ。」

なにっ! イモリの干物、炒ったシラミだと! 

桜井は、心中穏やかざるを堪える。

「うぉっ、そいつはおもしれえ。じゃ、そのイモリの干物と、炒りシラミをもらおっかなぁ。」

桜井とは対照的に、牟田は道化師のようにはしゃいでいる。

「あいよ~。」

女将は言うと、棚から中皿一枚を取って、カウンターの内側で、何やらごそごそとやり出した。

ぷ~んと、焼き焦げるような臭いがする。

「あんたんのは、こんじゃ。」

女将は言って、カウンターの下から別の一升瓶を取り出した。栓を開けると、桜井のコップに並々と注ぐ。

「この酒は?」

桜井は、溢れんばかりに注がれたコップを前に言った。

「命の水じゃぁて。」

女将は酒瓶のラベルを桜井に見せた。

ラベルには確かに、これもミミズの這ったような墨字で命の水と書かれている。

「命の水? 取って付けたような名前だな。」

桜井は、注がれた水をしげしげ見ながら言った。かなり疑心暗鬼になっている。

「旨い酒、なんだろうな。」

と言いながら、桜井はコップを手に取った。

「そんじゃ、うんめぇ~酒じゃぁよ。」

女将はひくひくと嗤いながら、一升瓶をカウンターテーブルに置いた。

「そんにじゃ、そんを飲めば、出口が分かるかも知れんよ。」

女将は言って、ひくひくと嗤う。

「なんだと?」

桜井は、女将の邪心に満ちた目を睨みつけた。

だが、女将は異様な目をギロギロさせながら、ひくひく嗤うだけだった。

「女将、本当に、出口を知らないのか?」

「知らんも何も、こんには出口は無いと、言うとろうて。」

と言って、女将は目を吊り上げた。

「じゃ、聞くが、どうやって、我々は此処に入って来たんだ? 何処かにある入口から入ってきたんだろう?」

「いいや、入口はあってん、出口は無いんじゃよ。」

女将は言うと、にたりとした。

「ふんっ! 馬鹿にしやがって!」

桜井は、腹立ち紛れにコップを勢いよくカウンターテーブルに置いた。

その弾みで、水がコップからこぼれ落ちた。

「ふふふ、そう、とんがらんでものぅ。とんかく、水を飲むこんじゃ、こん人のようにのぅ

・・・・はい、おまっち~。」

と言って、女将は、『美味つまみ』を牟田の前に置いた。

早速、牟田は、棒切れのような箸でつまみを取り、口に入れはじめる。

「ほぅ、こりゃぁ、うっめぇ、いっけるぅ~。」

牟田は、イモリの干物をむしゃむしゃと頬張りながら言った。

「ちっ! お前、よくそんなものを・・・。」

桜井は、吐き気を抑えて言った。

女将はそれを見て、ひくひくと嗤った。続けて、牟田はシラミを口に運んだ。

よく見れば、それは、透き通った蜘蛛のような巨大なシラミだった。

「お前、よく悠長にそんなものを食ってられるな!」 

桜井は、無性に腹が立った。

だが、牟田は桜井を無視して飲み食いを続けている。

「分からないのか、そんな物、悠長に食ってる暇は・・・」

と言いかけ、桜井が牟田の肩を掴もうとした時だった。桜井の手が、牟田の肩をスッと突き抜けたのである。

「なっ、なに!」

桜井は、驚愕して手を引っ込めた。

そして、自分の手の感触を確かめながら、恐る恐る、もう一度試してみた。

結果は同じだった。

桜井の手は牟田の身体を通過してしまう。まるで、実体のないホロスコープ映像に手を掛けた時のように・・・。

「牟田、お前・・・い、一体、どういうことなんだ。」

桜井は狼狽えた。

だが、牟田は桜井の存在など気に留める風も無く、相変わらず一人で黙々と飲っている。


深い地の底から響き渡るように、おどろおどろしい呻き声が聞こえてきたのは、その時だった。


「今の声は、なんだ・・・」

声の主は、いまだ遠くにあるように思えたが、こうしている僅かな間にも、呻き声は大きくなっていく。

「うっ、ふふふ、いよいよじゃのぅ。はようせなぁ、手遅れになんさなぁ。」

呻き声はさらに大きくなり、未知なるものへの恐怖は際限なく増大していく。

桜井の身体は、小刻みに震えはじめていた。


「女将・・あ、あんた、本当は、出口を知ってるんだろう?

なぁ、頼む・・教えてくれないか。」

桜井は、声の震えを抑えきれない。

「しつこい、お人じゃ。出口は無い、そん言ったはずじゃがのぅ。とんかくも、はよう飲むこんじゃ。

あんたんには、そんしかないんじゃからな。」

「そ、そんな・・・」

突然、桜井の身の回りが、ぶるぶる、がたがたと揺れ始めた。

「こ、今度は、何だ!」

桜井の声は悲鳴に近かった。

眼を落ち着きなくきょろきょろさせ、カウンターテーブルに両手を載せて身を支える桜井。「まぁ、外を見んなされ。」

女将は桜井をじろっと睨み、長く節くれ立った枯れ枝のような指を外に向けた。

桜井は、押し出されるようにふらふらと外に出た。

「こ、これは・・・な、何だ・・・」


天上はメラメラと燃えるように真っ赤に染まり、前後の靄の渦はどす黒く変色し勢いよく回転しながら、この店の軒先に向かってどんどん近づいている。

間もなく、この店の丁度真前辺りで、前後の靄の渦は衝突するだろう。

その時に何が起こるのか、想像するだけで恐ろしく、桜井は芯から脅えていた。

「うっ、ふふふ・・・・・」

女将は、桜井を横目で睨み薄笑いしている。

「さぁ、どんするのんじゃのぅ。」

呻き声は、すぐ耳元で聞こえている。

天上は真っ赤に燃え、靄の渦は強風をまともに受け、破壊しかける寸前の風車の如く狂ったように回転し、この空間全体がゆらゆらと陽炎のように揺れ出している。

「あぁぁぁ・・・・・・」 

桜井は、くず折れるように店の中に戻った。

すると、目の前にいるはずの牟田が消えている。

「あっ! 牟田が・・・・」

いったい、牟田はどこへ消えたのか・・・。

「さぁ、どんするんねぇ~。」

女将は、カウンターテーブルの上にあるコップを指さしながら、不気味に嗤っている。

「く、くそっ!」

桜井はカウンターに置かれたコップを手に取り、口元に持っていった。

その拍子に、水がコップからこぼれ落ちた。

桜井は、一瞬躊躇いながらも、一気に水を喉に流し込んだ。

水を飲み干した直後だった。桜井の目の前の空間が歪みはじめた。

桜井の身体が、空間ごと渦に呑み込まれようとしていたのである。

「う、ふふふ・・・はっ、ははは・・・」

女将が、断末魔を締め括るように哄笑した。

「あぁぁぁぁ!・・・」

突如、桜井は、目の前が真っ暗になり、その身が、奈落の闇の底に突き落とされたような衝撃を受けた。

桜井の身体は、渦の中に完全に呑み込まれたのである。


桜井の身体は、自宅のベッドにあった。

目覚めると、全身に妙な違和感が・・・。

「痛っ!・・・」

少しでも四肢を動かすと、全身に電気ショックのような痛みが走る。

『どうなっちまったんだ、俺の身体は。』

昨夜の事は、牟田と一緒に、居酒屋を梯子したことしか記憶にない。

桜井は、ベッドから抜け出て、よたよたと洗面所に向かった。

水道の栓を押し上げ、勢いよく流れ落ちる水を右手で掬い、何度か顔面に当て鏡を覗き込んだ。

鏡に映った自分の面相は、一気に一回り以上も老け込んだように見える。


『いったい、昨夜、何があったんだ・・・』

桜井は、Tシャツの袖で顔面の水を拭いベッドに戻り仰向けになった。

天井のいびつな形をした黒い染みをじっと見つめながら、次第に意識が朦朧としていく中で、地獄で刷り込まれた記憶が徐々に呼び覚まされていく。

薄暗いトンネルのような空間、背後に渦巻く灰色の靄、

あばら骨のような骨組みで出来たどでかい赤提灯、黒っぽい暖簾の店の軒燈とくすんだ黄色い電燈を灯した看板、薄気味悪い女将の姿、ゲテモノを食う牟田の姿、水を手に取る自分の姿、めらめらと燃える天上、次から次へと脳裏に映し出されていく。

そして、地の底から轟く正体不明の恐ろしい呻き声とともに、どす黒い靄の渦に呑み込まれた衝撃・・・・。

「はっ!」

桜井の眼前で閃光が走った。

息は荒く、額と背中にびっしょりと汗をかいている。

「地獄・・・」

桜井は、全てを悟った。


この世と地獄界は、強固な結界によって隔てられている。結界は、たとえ、地獄の主とても、破る事は出来ない。

何故、魔物は、人間を喰らうことができたのか・・・。


昔々の日の、子の刻のことであった。

嘗てなき大地震が起こり、強固な結界に亀裂が生じてしまう。

其れは僅かな時であったが、その亀裂から地獄界に人間が迷い込み、その人間を魔物は喰らったのである。

人間の旨さに味を占めた魔物が、地獄の下獣を喰らうだけでは満足しなくなるのは、自明の理であった。

 人間を欲するあまり凶暴を極めた七体の魔物が結界を破る挙に出れば、この世と地獄界の秩序は崩壊し、不全融合へといざなわれ、さらなる地獄へと堕ちていく。

地獄の主は、秩序を維持しつつ、人間を思いのままに地獄に誘い込み魔物の餌とするために、一計を案じるのである。

それは、永遠の命と引き換えに、人間の術者に地獄に通じる入口を開けさせる事であった。

こうして、野望に燃えた一人の修験者の術によって、入口は開けられたのである。

その入口は、十三を数えた。

 入口に迷い込んだ人間は、先ず、この世と地獄界双方の特性を有った亜空間に入り込む。亜空間は、この世と地獄界の秩序均衡を維持するための臨界であり、地獄への門であった。


地獄の主は、亜空間にある仕掛けを施し、門番を就け差配させるのである。

だが、それは、人間の本性を巧みに利用した罠であり、どちらの選択をしても、いずれ地獄に堕ちるという不条理の極みであった。


亜空間に入り込んだが最後、生き延びる道は一つ。

自らが水を飲み、身代わりも水を飲むことだった。

そうすれば、自らの現世での寿命は戻り、身代わりには現世で一年のみ命が与えられる。

身代わりは、生き延びたければ、その一年の間に、自分の身代わりを入口に誘い込み水を飲ませるしかない。

但し、自らが水を飲んだとしても、身代わりが水を飲まなければ、二人とも地獄に堕ちることになる。

地獄に堕ちた者は、肉体は地獄の魔物の餌となり喰いちぎられ、その魂は、現世で悪逆非道を成し、その身が滅びたのち邪鬼となった魂とともに、苦しみもがきながら、永遠に地獄を彷徨い続けるという恐ろしい運命が待っている。

やがて、堕ち行く先は無間地獄、

肉片、骨片が灼熱の埋火に烟る地を覆い尽くし、永遠に血が雨が降り注ぎ、腐臭が風となる忌まわしくもおぞましい暗黒の空間、それが無間地獄であった。

亜空間で水を飲み、一年の命が与えられた者は、命惜しさに形振り構わず、身代わりを地獄の入口に誘い込もうとする、

まさしく、人間の凄まじいまでの生への執着、あさましい本性を巧みに利用した邪悪な罠であった。

牟田は、命の恩人である桜井を、身代わりにしなければならない事を知り苦悩する。

だが、自分の命ほど大事なものではない。

所詮、どのような人間関係も砂上楼閣、海上の蜃気楼に過ぎぬ。

牟田も、自分を人生の師と崇める元教え子に、まんまと地獄の入口に誘い込まれ、水を飲まざるを得なかったのである。

牟田は、事前に刷り込まれた地獄の入口に、まんまと桜井を誘い込み水を飲ませ、自分も水を飲んだ。

牟田は寿命を取り戻し、桜井に与えられた命は一年。

自家の寝室で、怯えるように喜悦する牟田の姿があった。

桜井は、この一年の内に身代わりを入口に誘い込み、水を飲ませなければならない。


「俺は、一体、どうなるんだ・・・」


過去から現在までの人生の一コマ一コマが、スクリーンに映し出されるように脳裏に浮かんでくる。

遠い故郷にある父母の優しい笑顔、若くしてこの世を去った姉のデスマスク、愛おしい恋人の微笑、盟友が散った激戦地の惨状、九死に一生を得た航空機事故・・・場面が、一瞬のうちに浮かんでは消え、消えてはまだ浮かぶ。

桜井は、わなわなと震えながら、絶望と無力感に打ちひしがれた。


「身代わり・・俺の、身代わりは誰なんだ・・・」


捨て身の人生のはずが、魔物に喰いちぎられ、己の魂はもがき苦しみながら、永遠に地獄を彷徨うことが無性に恐ろしい。

桜井は、徐にベッドから起き上がった。

真空の中にいるような静寂が、桜井の身を包み込む。

突如、桜井の拳が小刻みに震え出し、その表情が見る見る険しくなっていく。

それは、戦場ですら見せたことのない、狂気に満ちた表情であった。

自分を騙し陥れた牟田への怨念なのか、

罠に堕ちた愚かな自分への怒りなのか、

地獄に堕ちることへの恐怖の表れなのか・・・・

「まさか!」

突然、桜井は拳を握りしめ目の前の壁を突き始めた。

「くそっ! くそっ! ・・・・」

ドスッ、ドスッという鈍い音とともに、クロス張りの壁があっという間に陥没し、石膏片がぼろぼろと落ちていく。

桜井はそのまま床に坐り込み項垂れた。

心は、べっとりとした墨を流し込んだように、暗く、重く沈んだ。


三日後、桜井は中東の戦地に赴いた。二十七回目の赴任であった。

戦地での小刻みの仮眠の中、暗黒の記憶がより鮮明に蘇ってくる。

恐ろしい記憶。恐ろしい運命。

戦地で一週間が過ぎた頃であった。体調が優れず気分が塞ぎこんでいた。

桜井は、白昼夢を見た。

夢の中で、恋人の久住絵里が優しい微笑を浮かべていた。

その微笑は、戦地に赴く前に見せる、彼女の愛おしい微笑そのものだった。

 

                         

  了



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