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第3話:『セイレーン』の誘惑? いえ、それはヘリウムガスを吸ったアヒルです

Sクラスの生徒たちが、次々と物理教師・絶対零子ぜったい れいこの軍門に降っている。

 その事実は、クラス内に波紋を呼んでいた。

 第一王子のアルフレッドは、未だに零子の顔を見るとガタガタ震え、前回壁に埋まった神速のゲイルは、全身包帯姿で大人しく教科書を読んでいる。

 だが、まだ牙を折られていない「女王」が一人いた。

「……ふん。男共が情けないわね」

 教室の中央で、優雅に髪をかき上げたのは、ソフィア・フォン・セイレーン。

 音楽の名門貴族の令嬢であり、その歌声で相手の精神を支配する『歌姫』だ。彼女の「歌」は魔法そのものであり、聴く者を魅了し、時には絶望の淵へと叩き落とす。


「物理? 科学? 笑わせるわ。私の『歌』という芸術の前に、そんな無粋な理屈が通用すると思って?」

 ソフィアは教壇に立つ零子を見下すように鼻を鳴らした。


 彼女は自分の声に絶対の自信を持っている。物理的な攻撃ではない、精神干渉系の音響魔法。これを防ぐ手段などないと考えていた。


「先生、あなたの授業は耳障りよ。私が素敵な歌で、永遠の眠りにつかせてあげる」

「……授業中に睡眠導入ですか。学習効率が下がりますね」

 零子は無表情で返すが、ソフィアは聞く耳を持たない。

 彼女がスゥッ……と息を吸い込むと、教室の空気が張り詰めた。

「来ぞ! ソフィアの『絶望の鎮魂歌レクイエム』だ!」

「耳を塞げ! 洗脳されるぞ!」

 クラスメイトたちが悲鳴を上げて耳を塞ぎ、机の下に潜り込む。


 ソフィアが口を開く。その喉から、魔力を帯びた可憐で、かつ恐ろしい旋律が紡がれようとしていた。

「♪あぁ~~~……闇の眷属よぉ~~……」

 美しいソプラノボイスが教室に響く。

 だが、その歌詞は呪詛に満ちており、聴く者の三半規管を直接揺さぶるような不快な波動を伴っていた。

「♪我の声にひれ伏しぃ~~……永遠の闇へ堕ちよぉ~~……」

 零子の眼鏡が微かに振動する。

 音波攻撃。物理的な防御壁バリケードでは防げない攻撃だ。


 ソフィアは勝利を確信し、歌のクライマックスである高音サビに向けて、さらに魔力を高めていく。

「♪さあ、嘆きの海に沈みたま――」

「――周波数が不快ですね。媒質ばいしつを変えましょう」


 零子は懐から、酸素ボンベのような銀色のスプレー缶を取り出した。

 そして、自分とソフィアの間に向かって、無色透明のガスを勢いよく噴射した。


 シューーーーーッ!


(毒ガス!?)

 ソフィアは一瞬警戒したが、そのガスには色も匂いもない。

 風魔法の使い手なら吹き飛ばせただろうが、彼女は歌い続けているため、呼吸を止めることができない。

 何より、歌のクライマックスを中断するわけにはいかない。


 ソフィアはスプレーを無視し、大きく息を吸い込んだ。

 そして、最大出力の魔力を込め、必殺の高音パートを歌い上げた。

「♪絶望に抱かれてェ、死ぬがいいィィィ~~~~ッ!!」

 ――はずだった。

「♪絶望に抱かれてェ、キュルルルッ、グワッ、グワァァァ~~~~ッ!!??」

 !?

 教室の時間が止まった。

 今、何と言った?


 「死ぬがいい」という恐ろしい歌詞が、まるで**「アヒルが首を絞められたような」**甲高い奇声に変換されて響き渡ったのだ。

 荘厳なメロディが一瞬で崩壊し、コメディ映画のような間抜けな音が残響する。

「……え? あ、あれ?」

 ソフィアが動揺して口を開く。

 しかし、彼女の口から出る言葉もまた、変だった。

「な、なによこれぇ!? キュルルッ、ピョエェ~?」

 シリアスな表情で叫んでいるのに、声だけが遊園地のマスコットキャラクターのように愛くるしい。


「ぶッ……!」

 机の下で震えていたアルフレッド王子が、耐えきれずに吹き出した。

「く、くくく……なんだ今の声……アヒルかよ……!」

「や、やめて! 笑わないでェ〜!」

 怒れば怒るほど、声が高くなり、面白さが増していく。

 ソフィアは顔を真っ赤にして喉を押さえた。プライドの高い『歌姫』にとって、これ以上ない屈辱だ。

「ど、どうなってるのよぉ! 呪い!? これ呪いなのォ〜!?」

「呪いではありません。**ヘリウム**です」

 零子はスプレー缶を片手に、淡々と解説を始めた。

「音速 V は、気体の密度に反比例します。今、この空間に充満させたヘリウムガスは、空気よりもはるかに密度が低い」

 彼女は黒板に公式を書く。


        V=√γRT/M


「空気中での音速は約340m/sですが、ヘリウム中では約970m/sまで速くなります。音速が上がれば、共鳴周波数フォルマントも高くなる。……結果、あなたのその自慢の重低音ボイスは、物理的に**『ドナルドダック声』**になる運命だったのです」

「ど、どなるど……? 何言ってるか分かんないわよぉ!」

「まあ、俗に言う『ヘリウムボイス』ですね。パーティグッズとして愛用されています」


 零子は眼鏡を直しながら、トドメの一言を放った。

「あなたの歌声、恐怖というより……お笑いの才能を感じますね。サーカスに入団してはいかがですか?」

「う、うわぁぁぁぁぁん!! もうお嫁にいけないぃぃぃ!!」

 ソフィアは奇声を上げながら、涙目で教室から走り去っていった。

 廊下の向こうまで「ピョエェェ~!」というマヌケな泣き声が響き渡り、Sクラスは爆笑の渦に包まれた。

 零子は満足げに頷くと、スプレー缶を片付け、チョークを手にした。

「さて、静かになりましたね。今日は『波動』と『音速の公式』について。テストに出しますから、今の現象アヒルを思い出しながら計算しなさい」

 生徒たちは笑い涙を拭いながら、必死にノートを取り始めた。

 この物理教師の前では、どんなシリアスな魔法も「ただの笑い話」に変えられてしまう。

 その恐怖が、彼らの脳裏に深く刻まれた瞬間だった。

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