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第2話:音速の貴公子? いえ、それはただの「ブレーキの壊れた暴走車」です

「液体窒素事件」から数日後。 Sクラスの教室には、奇妙な緊張感が漂っていた。

 いつもなら教師をいたぶって遊ぶ生徒たちが、今日はおとなしい。

 特に、クラスの支配者である第一王子アルフレッドの様子は、哀れを誘うものだった。


 彼は教室の一番後ろの席で、真冬でもないのに分厚い毛布にくるまり、ガタガタと震えながら温かい紅茶をすすっている。「さ、寒い……芯まで冷えた……」

 無理もない。彼は前回、絶対零子ぜったい れいこによって液体窒素の直撃を受け、文字通り氷像にされたのだ。

 丸一日かけて解凍されたものの、その身に刻まれた「物理的敗北」のトラウマは深かった。 だが、喉元過ぎれば熱さを忘れるのが、若さというものだ。 このクラスには、まだ懲りていない馬鹿が一人いた。


「――遅い遅い! あくびが出るぜ、先生!」


 授業中だというのに、教室の中をビュンビュンと飛び回る影があった。 疾風しっぷうのゲイル。 騎士団長の息子であり、風魔法と身体強化を組み合わせた『神速』の移動術を得意とする生徒だ。


 彼は残像が見えるほどの速度で机の間を駆け抜け、絶対零子の手元からチョークを奪い取った。「ほらほら、返してほしければ捕まえてみなよ! あんたのその眼鏡も奪っちゃうぞ?」


 ゲイルは教室の隅で立ち止まり、ニカッと笑ってチョークを指で回す。 彼の自慢はこのスピードだ。音速に近い速度で移動する彼を、魔力ゼロの人間が捕まえることなど不可能。そう高をくくっていた。


 クラスメイトたちが呆れたように囁き合う。


 「ゲイルのやつ、またやってるよ」

 「あいつの『アクセル・ブースト』は目視すら不可能だからな」

 「あの物理女も、これには手が出まい」


 生徒たちの期待の視線が、教壇の零子に集まる。 だが、彼女は奪われたチョークの代わりに、新しいチョークを箱から取り出しながら、深い深いため息をついただけだった。


「……ハァ。運動エネルギーの無駄遣いですね」「強がるなよ! 僕の動きが見えないからって!」 ゲイルは挑発に乗って、再び加速した。


 シュバッ! シュバッ!


 風切り音と共に、零子の周りをグルグルと高速周回する。「僕に指一本でも触れられたら、大人しく席についてやるよ。ま、無理だろうけどな!」「……いいえ。触る必要すらありません」


 零子はチョークを置いて、冷徹な瞳で動き回るゲイルを目で追った。 いや、追っていない。彼女はただ、床の一点を見つめている。


「君は先ほどから、同じルートを周回していますね。机の配置上、カーブを描くにはそこを通るしかない」「だ、だから何だ! どこを通るか分かったところで、僕の速度には追いつけない!」「追いつく? 物理屋の発想ではありませんね」 彼女は白衣のポケットに手を入れた。


 取り出したのは、業務用のシャンプーボトルのような容器に入った、ドロリとした半透明の液体。「速い物体を無力化するのに、力は要りません。**『摩擦』**を消せばいいのです」


 零子は無造作に、その液体を床の一点――教壇のすぐ横のカーブ地点に、ドボドボとぶち撒けた。 ただの嫌がらせ? 水たまりを作って滑らせようというのか?


 ゲイルは鼻で笑った。「はっ! そんな子供騙しの罠、見てから避けられるわ!」 彼は速度を緩めない。 超人的な反射神経を持つ彼にとって、床の異物などひらりと飛び越えれば済む話だ。


 彼はさらに加速し、零子の背後を取ろうと、そのカーブ地点へ突っ込んだ。「もらったァ!」 ゲイルが地面を強く踏み込む。 その足が、零子が撒いた液体の上に着地した、その瞬間だった。


 ――ツルッ。


「え?」 世界が反転した。

 踏ん張りが効かない。いや、地面が存在しないかのように、足が空転したのだ。


 通常、人間が走れるのは、靴底と地面の間に「摩擦力」があるからだ。地面を蹴る力を、摩擦が受け止めて前進力に変える。

 だが今、ゲイルの足元で、その摩擦係数は限りなくゼロになっていた。


「う、うわあああああっ!?」 体勢が崩れる。 しかし、恐ろしいのはここからだった。


 彼はすでに、時速100キロ近いスピードを出してしまっている。 摩擦がないということは、**「曲がれない」し、「止まれない」**ということだ。


 制御を失った彼は、カーリングのストーンのように、あるいは氷上の暴走車のように、直進した。 その先にあるのは――石造りの頑丈な壁。


「ちょ、ま、とま、止まれぇぇぇぇッ!!」「無理ですね」 零子は無慈悲に宣告する。


「**『慣性の法則』**です。動いている物体は、外から力を受けない限り、等速直線運動を続けます。今の君にはブレーキがない」


「ぎゃああああああああああッ!!」


 ドッッカァァァァァァァァン!!!


 凄まじい轟音が教室を揺らした。 壁に激突したゲイル。 あまりの衝撃に教室全体が振動し、天井からパラパラと粉が落ちてくる。


「ヒッ……!」 クラスメイトたちが悲鳴を上げて顔を覆う。 恐る恐る目を開けると、そこには芸術的な光景が広がっていた。


 壁に、人型のヒビが入っている。 その中央に、ゲイルが見事にめり込んでいた。 顔面から突っ込み、ピクリとも動かない。まるでハエ叩きで潰された虫のようだ。


「……位置エネルギーと運動エネルギーの変換効率、悪くありませんね」 零子はゆっくりと歩み寄ると、壁にめり込んだゲイルの様子を観察し、うんうんと頷いた。

「し、死んでる……?」「生きてますよ。頑丈さが取り柄のようですから」 零子は、床に残ったヌルヌルの液体を指差して解説を始めた。


「これ、私が独自に調合した**『超高分子ポリマー配合・潤滑ローション』**です。氷の上よりも滑りますよ」


「摩擦力 F = μ N 。垂直抗力 N がいくら大きくても、摩擦係数 μ がゼロに近ければ、力は伝わりません。……つまり、君がいくら地面を踏ん張っても、前に進むことも止まることもできない」


 彼女は、壁からずり落ちてきたゲイル(気絶中)の襟首を掴み、引きずって席に戻した。

「速いことは結構ですが、君は『止まるための計算』を怠りました。車だって、エンジンよりブレーキの開発の方が難しいのです」


 零子は黒板の前に立ち、チョークを構える。「いいですか。速さとは力ではありません。**『制御コントロール』**できて初めて力になるのです。


……さあ、教科書24ページ。『慣性の法則』と『運動量保存則』について、身を持って理解したところで計算式を解いてもらいます」


 シーン……。


 教室は静寂に包まれていた。 毛布にくるまっていたアルフレッド王子が、ガタガタと震えながら隣の公爵令嬢に囁く。「……見ろ。あいつ、やっぱり悪魔だ」「ええ……それも、とびきり性格の悪い……」 自分たちの魔法が、謎の液体と理屈によって、またしても無残に敗北したのだ。 壁のヒビと、白目を剥いて泡を吹いているゲイルを見れば、逆らう気など起きるはずもなかった。


「どうしました? 筆が止まっていますよ」 零子の冷たい声が響く。 Sクラスの天才たちは、涙目で一斉にペンを走らせ始めた。 彼らが物理学から解放される日は、まだまだ遠い。

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