第1話:授業開始のチャイムは「爆発音」で
「――おい、入ってきた瞬間、黒焦げにしてやろうぜ」
王立魔法学園、本校舎最上階。
選ばれし者しか足を踏み入れることを許されない『Sクラス』の教室で、一人の少年が嗜虐的な笑みを浮かべていた。
この国の第一王子、アルフレッド・フォン・グランツ。
燃えるような赤髪に、自信に満ち溢れた瞳。
その指先には、すでに赤黒い炎の塊が不気味に渦巻いている。
「またやるんですか、殿下? 先週の魔法史の教師なんて、泣きながら国へ帰ってしまいましたわよ」 クスクスと優雅に笑うのは、公爵令嬢のエリスだ。
彼女は扇子で口元を隠しているが、その目は明らかに面白がっている。
彼女の周囲には、すでに水球がいくつも浮遊していた。
「ふん、雑魚がいけないんだ。僕たちの高貴な魔力を前にして、震えて授業もできないような無能は、この学園には必要ない」
アルフレッドは椅子にふんぞり返り、扉を睨みつけた。
このSクラスに集められた生徒は、全員が「魔導の天才」だ。 呼吸をするように魔法を行使し、初等部の頃には宮廷魔導師レベルの出力を叩き出した化け物たち。
彼らにとって、教科書通りの理論を説く教師など、邪魔なノイズでしかなかった。
「噂によると、今度の新しい担任は『魔力ゼロ』らしいぜ」
「はあ? 正気かよ。実験動物の間違いじゃないのか?」
「平民どころか、魔法すら使えないなんて……空気が汚れるわ」
教室中から嘲笑が漏れる。 彼らは準備万端だった。
教師が入ってきた瞬間、全員で最大級の攻撃魔法を放つ。殺しはしないが、一生消えないトラウマを植え付けて、初日で辞職に追い込む。それが彼らの「恒例行事」だった。
キーンコーンカーンコーン……。
学園の予鈴が鳴り響く。 同時に、重厚な教室の扉が、ガチャリと音を立てた。
「今だ! やれぇッ!!」 アルフレッドの号令と共に、三十人の天才たちが一斉に魔力を解放した。「消し炭になれ! 『爆炎焦熱地獄』ォォッ!!」
アルフレッドが放った特大の火球が、先陣を切って入り口へと殺到する。
続いて、真空の刃、岩の弾丸、雷撃の槍――。
城壁をも粉砕するほどの、致死量の魔法の嵐。 扉が開かれた瞬間、そこは光と爆音、そして暴力的な熱量に飲み込まれた。
ドォォォォォォォォォォォンッ!!
教室が揺れる。窓ガラスがビリビリと悲鳴を上げ、シャンデリアが激しく揺れた。 入り口付近は濛々たる黒煙に包まれ、何も見えない。
「はははッ! やりすぎたか!?」
「あーあ、黒焦げになっちゃったかしら」
生徒たちが勝ち誇ったように笑う。 防御結界? そんなものを張る暇などなかったはずだ。魔力ゼロの一般人が、この直撃を受けて無事でいられるはずがない。 だが。
「――酸素濃度21%、気圧1013ヘクトパスカル。燃焼条件としては平凡ですね」
煙の中から、あまりにも場違いな、冷ややかな声が響いた。「なっ……!?」
アルフレッドの笑みが凍りつく。 煙が、不自然な風に煽られて晴れていく。
そこに立っていたのは、無傷の――いや、服の裾すら焦げていない一人の女性だった。
黒髪をきっちりと束ね、銀縁の眼鏡をかけ、清潔な白衣を纏っている。
そして何より異様なのは、彼女が両手で抱えている、銀色に輝く巨大な金属タンクだった。
「な、なんだ貴様!? 僕の炎はどうした!」「炎? ああ、あの程度の熱運動のことですか?」
彼女――絶対零子は、眼鏡をクイッと押し上げると、つまらなそうに言った。
「分子の振動が少し激しかったので、鎮静化しておきました」
彼女がタンクのノズルを向ける。
プシュウウウウウウウッ!!
猛烈な勢いで噴射された白煙が、床に残っていた残り火を一瞬で飲み込み、かき消した。
それだけではない。噴射された場所の床板が、一瞬にして真っ白に凍りつき、ピキピキと音を立てて霜に覆われていく。
「こ、氷魔法……!? いや、魔力を感じないぞ!?」
「魔法ではありません。**液体窒素**です」
零子はタンクを教壇にドン! と置くと、呆然とする生徒たちを見渡した。
「気体の体積は、温度が下がると収縮します。シャルルの法則をご存知ない? 君たちの放った魔法など、分子運動を停止させてしまえば、ただの冷たい空気です」「しゃるる……? ぶんし……?」
アルフレッドは口をパクパクさせた。
何を言っているのか全く分からない。だが、目の前で起きた現象は事実だ。 彼らの最強の魔法が、謎の「白い煙」によって無効化されたのだ。
零子は出席簿を開き、事務的な口調で告げた。「自己紹介をします。今日から君たちの担任になった、絶対零子です。担当科目は物理。……ああ、この世界ではまだ『未解明の理』と呼ぶのでしたか」
彼女は黒板に向き直り、チョークを走らせた。 カッカッカッ! と凄まじい速度で数式が刻まれていく。
ΔU = Q - W
「席につきなさい。授業を始めます」 Sクラスの生徒たちは、誰一人として動けなかった。
恐怖ではない。理解が追いつかないのだ。
魔力を一切感じさせないこの女が、なぜ平然と立っているのか。なぜ自分たちの魔法が消えたのか。そして、なぜ黒板に謎の呪文を書き殴っているのか。
「……ふ、ふざけるな」
沈黙を破ったのは、やはりアルフレッドだった。 プライドの塊である彼にとって、自分の魔法を「なかったこと」にされた屈辱は耐え難いものだった。
「貴様……何らかの魔道具を使ったな? 卑怯だぞ!」
「卑怯? 道具を使って自然現象を制御するのは、人類の知恵ですが」
「黙れ! 僕の『爆炎』は、宮廷魔導師ですら防げない最強の魔法だ! それを……あんなガスごときで!」
ドンッ! アルフレッドが机を蹴り飛ばして立ち上がる。
彼の全身から、先ほどとは比べ物にならないほどの魔力が噴き出した。怒りが魔力を増幅させているのだ。 彼の髪が逆立ち、周囲の空気が陽炎のように揺らぐ。
「本気を見せてやる……! 灰も残さんぞ、三流教師!」 アルフレッドが両手を掲げる。
その頭上に、太陽の如き巨大な火球が出現した。 教室の温度が一気に跳ね上がる。机の上の教科書が、熱でめくれ上がり、焦げ臭い匂いが充満する。
「出たわ! 殿下の『皇・竜王炎』!」
「まずい、この距離で撃ったら教室ごと吹き飛ぶぞ!」
「先生、逃げて! 死にますわよ!」
圧倒的な熱の奔流。 回避不可能。防御不可能。
だが、零子は一歩も動かず、足元の銀色のタンクを蹴り上げた。 そして、そのノズルを、迫り来る火球――そしてその奥にいるアルフレッドへと突きつけた。
「熱いのがお好きなら、頭を冷やしてあげましょう」
彼女はバルブを全開にした。
プシュゴオオオオオオオオオオッ!!
先ほどの比ではない、暴風のような白煙が噴射された。 それは火球を飲み込み、一瞬で熱を奪い去り、そのままアルフレッドを直撃した。
「な、なんだこの寒さ……あ、が……ッ!?」
断末魔を上げる暇もなかった。 マイナス196度の極低温世界。 紅蓮の炎は瞬時に消失し、アルフレッドの身体は、白煙の中でパリパリと音を立てて凍りついていく。
数秒後。 白煙が晴れると、そこにはシュールな光景が残されていた。
両手を振り上げ、必殺技を放とうとしたポーズのまま――全身が霜に覆われ、氷像のようにカチンコチンに固まった第一王子の姿が。
「……か、解説しよう!」
零子が眼鏡を光らせて、誰も求めていない解説を始めた。
「今の白煙は、ご存知液体窒素です。君の炎の熱エネルギーを利用して急速気化させ、その気化熱で君自身の体温ごと奪い去りました」
コツコツとヒールを鳴らして近づき、凍りついた王子の額を、コンコンと指で弾く。
「思考停止して魔法に頼るから、物理的に停止するのです。……解凍には時間がかかりますから、今日の授業はそこで涼んでいなさい」
王子は「ヒ……ブ……」と微かに唇を震わせるだけで、ピクリとも動けない。 完全なる氷漬け。完敗である。
「そ、そんな……ありえない……」 「ありえます。物理現象に『慈悲』はありません」
零子はくるりと背を向けると、教壇に戻り、再びチョークを手に取った。 教室は静まり返っている。
先ほどまでの嘲笑ムードは消え失せ、生徒たちの目は「得体の知れない怪物」を見るような恐怖の色に染まっていた。
「では、教科書の12ページを開いて。『万有引力』について講義します。君たちの飛行魔法が、いかに重力加速度に対して非効率な抵抗をしているか、ベクトル図を使って証明しましょう」
カッカッカッ!
黒板に描かれる、矢印と数式の山。「……あ、あの、先生」 震える声で手を挙げたのは、公爵令嬢のエリスだった。
「な、何者なのですか……? 今の、どう見ても上級の水魔法『霧散』の理を超えていましたわ。古代語魔法の使い手なのですか?」
生徒たちがゴクリと喉を鳴らす。 そうだ、そうに違いない。 無詠唱で火を消し、霧を操り、王子の心を折った。 これは、伝説の大魔導師か、あるいは魔神の類ではないか――。 零子は数式を書く手を止め、振り返った。 そして、本日一番の、絶対零度の冷たい微笑みを浮かべて答えた。
「ただの物理屋です。……さあ、手を動かしなさい。計算が終わるまで、今日の給食はおあずけですよ?」 ――こうして、Sクラスの「地獄」……いや、革命的な授業が幕を開けた。 彼らが、この狂気の物理教師から「卒業」できる確率は、現時点で限りなくゼロに近い。




