第6章 - 白い死神
スロットルが全開にされると同時に、ステラの背中がシートに叩きつけられた。
ルーカスが極限まで軽量化した機体「フェンリル」は、轟音と共に矢のように射出される。眼前に迫る、静まり返ったコンクリートの森。その景色は、シミュレーターで見たものと同じはずなのに、ステラの五感が受け取る情報量は、天と地ほども違っていた。
肌を圧迫する強烈なG。耳を揺さぶるエンジンの咆哮。そして、操縦桿から伝わる、生き物のような機体の微細な振動。
(――これだ。これこそが、本物の空!)
彼女の心は、歓喜に打ち震えていた。鳥かごの中から解き放たれ、ついに本当の翼を得た鷹のように、彼女は解き放たれたのだ。
『さあ、始まりました1st STAGE!最初に飛ぶのは、予選6位のステラ・シルヴァーシュテーン!シミュレーターでは苦戦した彼女ですが、本番ではどのような飛びを見せるのか!』
レックス・マーベリックの興奮した実況が響く。
ステラは、最初のコーナー――巨大なオフィスビルを回り込む90度のターンに、減速もそこそこに突っ込んでいく。
『おっと、これは速すぎる!シミュレーターの最適ラインよりも、遥かに速い突入速度だ!曲がりきれるのか!?』
解説者が悲鳴を上げる。しかし、ステラは冷静だった。
彼女は知っている。あの夜の無断飛行で、その身体に刻み込んでいる。このビルの側面からは、海からの風が反射し、強力な横風が生まれることを。
彼女はその見えない風の壁に、機体の翼を当てるようにして、ありえない速度と角度でコーナーをクリアしていく。
「すごい…」
ハンガーでモニターを見つめるルーカスが、思わず呟いた。
シミュレーターでは、ただの「壁」でしかなかったビルが、彼女にとっては「味方」になっている。陽炎による僅かな上昇気流を捕まえて高度を稼ぎ、ビル風が生み出す予測不能な乱気流すら、機体の向きを変えるきっかけに利用する。
それは、もはや単なる操縦ではなかった。空と、都市と、対話しているかのようだった。
そして、最終セクション。
未来博物館の、中央に穴が空いたリング状の建物が迫る。シミュレーターでの最適ルートは、その「外側」を大きく回り込むのがセオリーだ。
しかし、ステラは、迷いなく機首をその「穴」へと向けた。
『なっ…!あそこを通り抜ける気か!無謀だ!』
レックスが絶叫する。
ステラは機体を鋭く横転させ、ナイフのように薄い姿勢で、リングの中央を駆け抜けていく。
ゴールラインを通過。
刹那の静寂の後、モニターに、信じられないタイムが叩き出された。
1st : Stella Silversten - LAP TIME 1:28.543
予選6位のダークホースが叩き出した、衝撃のトップタイム。
それは、他の5人の怪物たちに、そして全世界に、白い死神の本当の到来を告げる、宣戦布告の狼煙だった。
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【ドミトリー・ヴォルコフのハンガー】
ドミトリーのハンガーは、F1チームのピットのように、静かで、機能的だった。
彼は、巨大なタッチパネル式のモニターの前に立ち、ステラが飛んだ軌跡と、自らのシミュレーターでの軌跡を重ね合わせていた。その表情は、驚きではなく、愉悦に満ちている。
「チャンピオン…信じられません。セクター3の彼女のラインは、理論上、我々のデータより遅いはず。なのに、コンマ2秒もタイムを削っている…まるで魔法です」
「魔法ではない。…シミュレーターは、コースの『正解』を教えてくれた。だが、彼女は、コースそのものを『味方』につけている。風、熱、空気の流れ…データには映らない全てをだ。…面白い。実に、面白い。ようやく、この退屈な空で、狩りをする価値のある獲物を見つけたようだ」
彼は、ステラの軌跡を、愛おしむように指でなぞった。
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【風間 隼人のハンガー】
風間のハンガーには、アップテンポなロックミュージックが流れている。彼は、マネージャーが差し出すスポーツドリンクには目もくれず、モニターに映るリプレイを、忌々しげに睨みつけていた。
「落ち着け、隼人!ただのまぐれだ!君のフライトの方が、遥かに美しい!」
「美しさだと?世間が騒いでいるのは、俺の芸術性ではなく、あの小娘のタイムだ!ガラスを割り、ただ猪突猛進に飛ぶだけ…あれはアートではなく、ただの破壊行為だ!……だが」
彼は、ステラが未来博物館のリングを潜り抜けるシーンで、映像を止めた。
「…あの度胸だけは、悪くない。良いだろう。俺のショーの、最高の引き立て役として、少しだけ認めてやる」
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【ジャック・"コヨーテ"・ストーンのハンガー】
ジャックのハンガーは、オイルと汗の匂いがした。彼は、メカニックに任せず、自らの手で愛機「リーパー」の最終調整を行っている。小さなモニターに映し出されたステラのタイムを、彼は一瞥しただけだった。
「ボス…マジかよ。あの6位の嬢ちゃんが、AIの次に速いってのか…?」
ジャックは何も答えず、巨大なレンチを手に取り、機体のボルトを、カツン!と乾いた音を立てて締め付けた。
「…あれは、新人の目じゃない。縄張りを主張する、飢えた獣の目だ。…作戦を変更する。2nd STAGEの燃料を増やせ。奴を抑え込むには、予定よりパワーがいる」
彼は、ステラを「倒すべき敵」として、即座に認識を更新した。
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【クラウス・リヒターのハンガー】
クラウスのハンガーは、ガレージというより、サーバーファームだった。無数のケーブルと、静かに唸りを上げる冷却ファン。彼は、中央のコンソールで、ステラの飛行データを解析していた。
「…興味深い。彼女の飛行には、シミュレーションでは想定外だった『カオス変数』が17%も含まれている。予測不能な乱気流を、意図的に利用しているのか…」
彼は、キーボードを数回叩いた。
「ユグドラシル。今の飛行データを元に、『カオス係数』を新たに定義しろ。そして、2nd STAGEの最適戦略を再計算。…これで、彼女の『予測不能性』も、計算可能な『データ』の一つとなった」
クラウスにとって、ステラの天才的な飛行は、自らのAIを進化させるための、最高の教材でしかなかった。
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【ビョルン・リンドベリのハンガー】
ビョルンのハンガーは、他のどのチームよりも静かだった。余計なモニターも、派手な音楽もない。ただ、長年使い込まれた工具が、壁に整然と並んでいる。
彼は、椅子に深く腰掛け、モニターに映し出されたステラの飛翔を、ただ黙って見つめていた。その瞳には、他のパイロットのような驚きや闘志とは違う、もっと深く、そして痛みを伴う感情が渦巻いていた。
(…ゼノ。君の娘は、君とそっくりだ。あまりにも、空に愛されすぎている…)
ステラの、常識外れの危険なライン取り。それは、かつてビョルンが誰よりも愛し、そして競い合った、亡き親友ゼノ・シルヴァーシュテーンの飛び方、そのものだった。
歓喜に沸く解説者の声も、画面に表示された驚異的なタイムも、彼の心には届かない。彼に見えるのは、栄光の光と、そのすぐ隣で手招きをする、破滅の影だけだった。
(だから、俺は止めなければならなかったんだ…)
彼のインカムに、興奮した声が飛び込んでくる。息子のルーカスからだった。
『父さん!見たかい!?ステラの飛びを!僕たちが作った「フェンリル」の、本当の力を!』
その声は、純粋な喜びに満ちていた。ビョルンは、胸が締め付けられるのを感じながら、ゆっくりと口を開いた。
「…ああ、見たよ、ルーカス」
その声は、自分でも驚くほど、穏やかだった。
「お前は、素晴らしい翼を作った。…誇りに思う」
『え…?ああ、ありがとう、父さん!』
電話の向こうで、ルーカスが少し戸惑ったような声を出す。父からの、素直すぎる賛辞。
ビョルンは、それ以上何も言わず、静かに通信を切った。
そして、ゆっくりと立ち上がり、自らの愛機「ドラケン」に向き直る。
息子の、あの嬉しそうな声が、彼の決意を、岩のように固くした。
(許せ、ステラ。そして、許せ、ゼノ)
このレースで、あの子を勝たせるわけにはいかない。
息子の未来を、この手で掴み取るために。
そして、親友の娘を、二度と空の悲劇に近づけないために。
伝説の瞳から、感傷が消えた。
そこにあるのは、全てを背負う覚悟を決めた、一人の父親の顔だった。
ステラの衝撃的な飛行の後、コースの静寂を破り、次に現れたのはジャック・"コヨーテ"・ストーンだった。
彼の駆る「リーパー」は、他の機体と比べ、重く、そして獰猛な気配を放っていた。彼の飛行に、華やかさはない。ただ、軍事作戦を遂行するような、無駄のない最短ルートを、圧倒的なパワーで突き進んでいく。
ビルの谷間を抜ける時も、彼は危険な最短距離ではなく、常に安全な脱出ルートを確保できる、生存率が最も高いラインを選択した。
それは、速さを競うレースというより、「いかに生き残るか」を突き詰めた、生存のための飛行だった。 タイムは、ステラには及ばないものの、堅実な3位に食い込んだ。
次に現れたのは、伝説、ビョルン・リンドベリ。
10年ぶりに公式の空に戻ってきた彼の「ドラケン」は、まるでベテランのフィギュアスケーターのように、滑らかで、円熟の極みにあった。無駄な力みが一切なく、機体にかかる負荷を最小限に抑えながら、水が流れるようにコーナーをクリアしていく。
『これが伝説の飛びか!なんとスムーズなんだ!』
レックスが唸る。しかし、ビョルンのタイムはジャックを上回ったものの、ステラの記録には届かなかった。解説者は「10年のブランクか」と囁いたが、一部の人間は気づいていた。彼が、何か大きな目的のために、あえて機体を温存しながら飛んでいることに。
そして、空の雰囲気が一変する。
風間隼人の「カラス」が、ステージに登場したのだ。
彼の飛行は、もはやレースではなかった。都市全体を舞台にした、独演会だった。彼は、タイムを削るためではなく、観客を魅了するためだけに、わざわざ錐もみ回転しながらコーナーに進入し、背面飛行でゴールラインを駆け抜けていく。そのあまりにも美しく、そして危険な舞に、全世界が息をのんだ。
タイムは、ステラにわずかコンマ1秒及ばずの2位。ハンガーに戻った彼は、満足げな表情で「俺のアートが、一番だっただろう?」とだけ言った。
静まり返った空に、地を揺るがすような轟音が響き渡る。
現役チャンピオン、ドミトリー・ヴォルコフの「ツァーリ」が、その姿を現した。
彼の飛行は、完璧だった。ステラのような「閃き」も、風間のような「遊び」もない。ただ、シミュレーターで自らが叩き出した理論上の最短ルートを、寸分の狂いもなく、圧倒的なパワーと技術でなぞっていく。推力偏向ノズルを駆使した異次元の旋回は、もはや航空力学の法則すらねじ曲げているかのようだった。
モニターに表示されたタイムは、ステラの記録を0.5秒上回る、新たなトップタイムだった。
王者の貫禄を見せつけた瞬間だった。
そして、最後に現れたのは、パイロットではない。
AI「ユグドラシル」が操る、クラウス・リヒターの無人機「ジャガーノート」。
その飛行には、意志も、感情も、美しさもなかった。ただ、冷徹な計算結果だけが存在した。他の誰よりもビル壁に接近し、他の誰よりもGをかけ、機体の限界ギリギリを、一切の躊躇なくトレースしていく。その光景は、観客に感動ではなく、一種の畏怖を与えた。
タイムは、ドミトリーの記録を、さらに1秒も更新。
シミュレーター予選と同じく、AIが、人間の天才たちを、再びその足元にひれ伏させた。
【1st STAGE:スプリント・タイムアタック 最終結果】
クラウス・リヒター(AI)
ドミトリー・ヴォルコフ
ステラ・シルヴァーシュテーン
風間 隼人
ビョルン・リンドベリ
ジャック・"コヨーテ"・ストーン
これで、次のステージのスタートグリッドが確定した。
AIを先頭に、6機の怪物が、初めて同じ空で、直接その牙を剥き出し合う。