第5章 - 開幕
レース当日。
軍によって完全封鎖されたドバイの市街地は、奇妙な静寂に包まれていた。しかし、その静寂は、全世界から注がれる億単位の視線によって、張り詰めた弦のように震えている。市外のパブリックビューイング会場では、地鳴りのような歓声が上がっていた。
レース開始1時間前。主催者レックス・マーベリックによって召集された6人のパイロットは、高層ビルの一室に設けられたブリーフィングルームに、初めて一堂に会した。
部屋の中央に立つレックスは、まるで世界最高のDJのように、両腕を広げて言った。
「ようこそ、諸君。歴史を変える覚悟はできたかな?」
その言葉に、反応は様々だった。
現役チャンピオン、ドミトリー・ヴォルコフは、ただ一点、部屋の隅に座る男だけを見つめていた。ビョルン・リンドベリ。伝説の男は、ドミトリーの刺すような視線に気づかぬふりをして、静かに目を閉じている。その心は、ここにいない息子、ルーカスの元にあった。
風間隼人は、椅子にふんぞり返り、つまらなそうに爪を眺めている。彼にとって、この茶番が終われば、いよいよ世界最高のショーの開演だ。
元英雄、ジャック・"コヨーテ"・ストーンは、誰とも視線を合わせず、部屋の隅で気配を消している。獣が狩りの前に息を潜めるように、ただ冷静に、他の5人の「敵」を観察していた。
そして、クラウス・リヒターは、パイロットチェアに設置されたスクリーンに、自らのAI「ユグドラシル」のロゴを映し出すだけ。無機質なパルス光が、彼の存在証明だった。
その中で、ステラ・シルヴァーシュテーンは、静かに呼吸を整えていた。
伝説、王者、獣、芸術家、そしてAI。集まったのは、まさしく怪物たち。シミュレーター6位の新人。それが、世間の評価。だが、それでいい。彼女だけが知っている。あの夜、この街の空を支配した、本物の風の感触を。
「ルールは昨日までに伝えた通り。G制限はない。ペナルティもない。あるのは、諸君の腕と、マシンの限界だけだ」
レックスは、満足げに全員の顔を見回した。
「俺が退屈しないような、最高のショーを見せてくれ。では、各自、持ち場へ」
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ハンガーへ戻る長い廊下を、パイロットたちは無言で歩く。
やがてそれぞれのゲートに分かれ、ステラは、最終チェックを終えたルーカスが待つ、自らのハンガーへと足を踏み入れた。
「…すごい顔ぶれだったな」
車椅子からモニターを見上げていたルーカスが、静かに言った。
「ええ。でも、もう気後れはないわ」
ステラは、白と黒のツートンカラーに塗装された愛機、「フェンリル」の機体に、そっと触れた。
「彼らはまだ、本当の私を知らない。そして、この子の本当の力も」
ステラはコクピットに乗り込み、ハーネスを締める。キャノピーが、ゆっくりと閉じていく。外界の音が遮断され、聞こえるのは、計器類のハミングと、自分の心臓の音だけ。
『全機、準備はいいか。これより、STRIX 1st STAGE、スプリント・タイムアタックを開始する』
レックス・マーベリックの、興奮を隠せない声が、全世界に響き渡る。
『最初のフライヤーは…シミュレーター予選6位!スウェーデンからやってきた、未知数のダークホース!ステラ・シルヴァーシュテーン!』
ステラのヘルメットに、管制塔からのカウントダウンが響く。
「ルーカス。聞こえる?」
『ああ。いつでも。君の目となり、耳となる』
「ありがとう。…じゃあ、行ってくるわ。私たちの本当の翼で」
『スリー、ツー、ワン… GO!!』
その合図と共に、ステラはスロットルを全開にした。
白い死神が、ついに解き放たれる。コンクリートの森を支配するために。
世界が、固唾をのんで、その最初の飛翔を見守っていた。