第3章 - 仮想の戦場
レックス・マーベリックの宣言から一週間後、STRIXの公式サイトがオープンし、予選プログラムの配信が開始された。期間は、一ヶ月。この間に、全世界の誰でも、何度でも、STRIXの仮想コースに挑戦することができる。そして、期間終了時点で記録された、上位6名だけが本戦への切符を手にできる。
そのニュースは、世界中の空を愛する者たちを熱狂の渦に巻き込んだ。
元軍人、現役のレースチャンピオン、無名のアマチュア、果てはゲームの世界で名を馳せたeスポーツプレイヤーまで。誰もが賞金と名誉を夢見て、STRIXのシミュレーターに挑んだ。
しかし、彼らの大半は、すぐに絶望を味わうことになる。
レックスが開発したこのプログラムは、ただのゲームではなかった。ドバイの地形、刻一刻と変化する気流、ビル風の乱れ、太陽光の反射までを完璧に再現した、あまりにもリアルすぎる「戦場」だった。多くの挑戦者が、最初のコーナーすら曲がりきれずに、コンクリートの壁に激突するリアルな衝撃音を聞くことになった。
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予選期間中盤
公式サイトのランキングボードは、二人の「王」によって完全に支配されていた。
1位は、クラウス・リヒターが送り込んだAI「ユグドラシル」。それは、もはや飛行ではなかった。物理法則の限界ギリギリを、寸分の狂いもなく計算し、最適解をトレースし続けるだけの、冷徹な「作業」。そのタイムは、人間が叩き出せる領域を遥かに超越していた。
そして2位につけるのは、現役チャンピオン、ドミトリー・ヴォルコフ。
彼は予選開始から数日後、たった数回のフライトでこのタイムを記録すると、それ以降、一度もシミュレーターにログインしていなかった。それは、他の挑戦者たちに対する、絶対的な自信と、無言の挑発だった。「俺のタイムを超えられるものなら、超えてみろ」と。
この二人の牙城を、誰も崩せずにいた。
風間隼人は、アクロバットショーの合間に、まるで遊びのようにシミュレーターをプレイし、誰も思いつかないような芸術的なライン取りで3位に食い込んでいる。
ジャック・"コヨーテ"・ストーンは、派手さはないが、睡眠時間を削って千回以上もフライトを繰り返し、その執念で5位の座を死守していた。
そして、世界が最も注目したのは、4位に刻まれた名前だった。
ビョルン・リンドベリ。
10年の沈黙を破り、伝説が、本当にこの狂った戦場に戻ってきたのだ。
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「――ダメだ!これじゃ、話にならない!」
ステラのタイムは、7位。6位との差は、わずか0.2秒。
しかし、そのコンマ2秒の壁が、彼女の前には絶望的に高くそびえていた。彼女は早い段階で予選通過圏内に入ったものの、そこから一向にタイムを縮められずにいたのだ。
シミュレーターが作り出す、無菌室のような完璧な世界。Gも、風も、恐怖も、そこにはない。彼女の五感が、悲鳴を上げていた。
「ステラ、落ち着け。君は、シミュレーターを『実機』として感じようとしすぎている」
ルーカスは、無数のデータが流れるモニターを見ながら、静かに言った。
「これは偽物だ。偽物を本物のように飛ばそうとするから、ズレが生まれる。考え方を変えるんだ」
「変えるって、どうやって!」
「シミュレーターを信じるな。そして、君自身の五感も、今は信じるな」
ルーカスの言葉に、ステラはハッとした。
「君の本当の才能は、Gを感じることや、風を読むことだけじゃないはずだ。それ以前に、誰にも見えない『完璧なライン』を空間に描き出す、純粋な幾何学的なセンスだ。…シミュレーターを飛ばすな、ステラ。コースそのものを、その頭脳で直接、支配しろ」
ステラは、ゆっくりと目を開けた。
ルーカスの言葉が、彼女を縛っていた呪いを解いていく。そうだ、私は、風やGがないと飛べない、ただの感覚頼りのパイロットではない。
彼女は、VRゴーグルが作り出すリアルな景色を、もはや景色として見ていなかった。
ビルは、ただのポリゴンの塊。空は、計算された色のグラデーション。その全てを頭の中から消し去り、コースを構成する、純粋な「線」と「角度」だけを、心眼で見つめた。
タイムアウトまで、残り10分。
ステラは、最後のアタックを開始した。
彼女の操縦は、それまでとは全く異質のものに変わっていた。機体の挙動に反応するのではなく、コースが求める完璧なラインを、彼女が先に描き、機体がそれに吸い付くように追従していく。それは、まるで機械のようでありながら、AIの計算にもない、人間の閃きに満ちた、美しい舞だった。
締め切りまで、残り1秒。
世界中が見守るランキングボードの6位の名前が、入れ替わった。
6th : Stella Silversten
こうして、運命の6人のパイロットが、ついに決定した。
伝説、王者、AI、獣、芸術家、そして、滑り込みでその席を掴んだ、謎の新人。
ハンガーに、安堵のため息が漏れる。しかし、ステラの表情は晴れなかった。
彼女は、自らが叩き出した6位という数字を、悔しそうに睨みつけていた。
(これが、私の実力…?五感を殺し、機械になることで、やっと掴んだ6番目の席…)
違う。絶対に違う。
シミュレーターという偽物の空が下したこの評価が、真実であるはずがない。
確かめなければならない。本物の空で。本物の機体で。
彼女の瞳の奥に、プロローグのあの夜へと繋がる、危険な光が宿った。