表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/9

第2章 - caged bird

10年後


その配信は、いつものように何の予告もなく始まった。

世界有数の不動産王でありながら、気まぐれにDJやゲーム実況を行う謎のインフルエンサー、レックス・マーベリック。彼のチャンネルは、その莫大な財力と奇抜な企画で、常に数百万人の同時接続者を集める人気コンテンツだった。

画面に映るのは、ドバイの摩天楼の最上階にある彼のプライベートスタジオ。背後のガラス窓には、星々と競うように輝く都市の光が広がっている。アップテンポなエレクトロミュージックが止むと、レックスはヘッドホンを外し、画面の向こうの視聴者に直接語りかけるように、不敵な笑みを浮かべた。

「やあ、諸君。退屈してるか? 俺はしてる。最高に退屈してるんだ」


彼は手元のタブレットをスワイプし、ありふれたエアレースの映像を画面に映し出す。パイロンが並んだコースを、行儀よく飛ぶレース機。


「これだ。今の空のレースは、あまりにも安全で、あまりにもクリーンで、あまりにも退屈だ。まるで、決められたレールの上を走るだけのデジタルゲームさ。俺たちが見たいのは、本当に魂が震えるような、ギリギリの戦いじゃないのか?」


コメント欄が、同意と煽りの言葉で爆発的な速さで流れていく。レックスは満足げに頷くと、映像を消した。


「だから、俺が創ることにした。本物のレースを。ルールはたった三つ」


彼は指を一本ずつ立てていく。


「一つ。コースは、都市そのもの。ビルがパイロンで、ストリートが滑走路だ」

「二つ。武器の搭載と、意図的な接触以外、機体の改造は完全に自由。G制限も撤廃する。限界を決めるのは、パイロットの腕と、マシンの耐久性だけだ」

「そして三つ。参加できるのは、全世界に配布するフライトプログラムで、トップ6の成績を収めた者のみ」


レックスはそこで言葉を切り、悪戯っぽく笑った。


「ああ、言い忘れてたな。優勝賞金は、俺のポケットマネーから出す。10億だ」


瞬間、インターネットは沸騰した。

10億円。その数字は、あらゆる言語の壁を越えて、衝撃と共に世界中を駆け巡った。レックスの配信は数分で切り取られ、翻訳され、SNSのトレンドを埋め尽くし、やがて大手ニュースネットワークが、アナウンサーの興奮した声でその狂気の計画を報じ始めた。


レースの名は「STRIX」。

その日、世界中のパイロット、メカニック、そして野心家たちの運命が、静かに動き始めた。


同時刻、モスクワ


豪華なスイートルームのソファに、一人の男が深く身を沈めていた。磨き上げられたテーブルの上には、つい先ほど獲得した欧州エアレースグランプリの優勝トロフィーが、空虚な輝きを放っている。


ドミトリー・ヴォルコフ。

現行レースの世界において、彼に敵う者は誰もいない。「完璧なる王者」と称される彼の瞳にはしかし、満足の色は一切浮かんでいなかった。並べられただけのパイロン、安全マージンを取った退屈なコース。あまりにも、手応えがなさすぎる。


彼が求めているのは、ただ一人。かつて空を支配した伝説、ビョルン・リンドベリだけだ。だが、その伝説は、もはや空にはいない。


「…なんだ、この騒ぎは」


ドミトリーがうんざりしたようにタブレットに目をやると、トップニュースの欄に、レックス・マーベリックの顔写真が映し出されていた。「賞金10億」「市街地レース」「G制限撤廃」。ありふれた見出しが並ぶ中、彼の指が止まった。


『――参加資格は、シミュレーターの成績のみ。人種、性別、年齢、過去の実績、一切不問』


ドミトリーの口元に、久しぶりに笑みが浮かんだ。それは、獲物を見つけた肉食獣のような、獰猛で、愉悦に満ちた笑みだった。


実績不問。それはつまり、引退したあの男が、気まぐれに戻ってくる可能性がゼロではないということだ。そして、G制限のない、本物の危険だけが存在する舞台。それこそが、あの伝説を引きずり出すのに、最もふさわしい。


「STRIX、か…」


彼はトロフィーには一瞥もくれず、立ち上がった。

ようやく、退屈が終わりそうだ。


---


「――優勝は、ステラ・シルヴァーシュテーン!これで今シーズン、無傷の5連勝!『ヴィーナス・ウィング』の女王は、もはや敵なしです!」


サーキットに響き渡る高揚した実況アナウンスも、ステラの心には届いていなかった。観客の歓声に応え、手を振りながら愛機のキャノピーを開ける。その表情は、勝者のそれとは程遠い、どこか冷めたものだった。


「おめでとう、ステラ。また退屈なレースだったみたいだな」

インカムから聞こえてくるルーカスの声には、祝福と、ほんの少しの皮肉が混じっていた。

「ええ、本当に。まるで鳥かごの中を、決められた通りに飛ぶだけ」


ここは、女性限定のエアレース「Air Race Classic "Venus Wing"」。

安全性と公平性を名目に、機体の大幅な改造は禁止。全員が似たような性能の機体で、定められたレギュレーションの中、ミスの少なさを競うだけのレース。

ステラとルーカスがどんなに独創的なアイデアを機体に詰め込もうとしても、規則がそれを許さない。ステラはその卓越した操縦技術で勝ち続けてはいたが、彼女の心は満たされるどころか、日に日に渇いていくばかりだった。


彼女はレース後、スポンサーへの挨拶もそこそこに、チームのハンガーへと戻る。そこには、車椅子に座り、ノートパソコンの画面に映る機体のテレメトリーデータを睨むルーカスの姿があった。10年前の少年は、理知的な瞳を持つ、穏やかな青年に成長していた。しかし、その手足は、数年前から彼を蝕む病――進行性神経筋萎縮症(PNA)によって、少しずつ自由を奪われ始めていた。


「ルーカス、今日の機体も完璧だった。ありがとう」

「君の腕があってこそさ。…でも、悔しいだろ?僕たちの『フェンリル』なら、本当はもっと…」


ルーカスが言葉を詰まらせた。二人の夢の機体、「フェンリル」。その真の力を、この退屈な鳥かごで解放することは許されない。パイロットとしての夢を病で絶たれたルーカスにとって、ステラが勝つことは喜びであると同時に、自らの才能を発揮できないもどかしさの証明でもあった。


その時だった。ハンガーの隅にある大型モニターが、緊急ニュース速報に切り替わったのは。

映し出されたのは、奇抜なサングラスをかけた男――レックス・マーベリック。


『――優勝賞金は、10億。コースは、都市そのものだ。その名は――"STRIX"!』


ステラとルーカスは、その常軌を逸した宣言に、言葉を失った。

市街地レース。改造無制限。G制限撤撤廃。

それは、二人が夢見て、そして諦めていた、全てのルールからの解放だった。


ルーカスが、震える指でノートパソコンを操作し、STRIXの公式サイトにアクセスする。画面には、全世界の腕自慢が参加できる、シミュレータープログラムのダウンロードリンクが表示されていた。


「ステラ…」

ルーカスが、祈るような声で彼女の名を呼ぶ。

ステラは、モニターに映る「STRIX」のロゴを、食い入るように見つめていた。その瞳には、諦めと退屈の色が消え、10年ぶりに、あの夏の空と同じ、燃えるような闘志の光が宿っていた。


「やるわよ、ルーカス」

彼女の声は、静かだったが、鋼のような決意に満ちていた。

「私たちの翼が、どこまで飛べるのか。この鳥かごの外で、試してみましょう」


---

同時刻、スウェーデン郊外


森の奥深く、湖のほとりに、ビョルン・リンドベリは隠遁するように暮らしていた。

あの事故以来、彼は二度とレースの世界には戻らなかった。奇跡的に繋ぎ止められた右腕は、今も時折、鈍い痛みと共に過去の悪夢を呼び覚ます。


彼がテレビをつけるのは、息子のルーカスがメカニックとして参加する、ステラのレースがある時だけだった。画面の中で退屈そうに飛ぶステラの姿に、亡き親友の面影と、そして危険な才能の片鱗を見て、複雑な思いに駆られる。


その日も、彼はレース中継が終わった後のニュースを、ただぼんやりと眺めていた。そこに、レックス・マーベリックの顔が大写しになる。


『――参加資格は、シミュレーターの成績のみ。人種、性別、年齢、過去の実績、一切不問』


ビョルンの眉が、わずかに動いた。

市街地レース。G制限もない、狂気の沙汰だ。ステラのような娘が、絶対に関わっていい世界ではない。彼は、親友の娘を危険から遠ざけなければならない、という父親のような義務感に駆られた。


だが、その直後に彼の耳に飛び込んできた言葉が、全てを変えた。

レックスが、指を一本立てて宣言する。


『優勝賞金は、10億だ』


10億。

その数字を聞いた瞬間、ビョルンの時間が止まった。

それは、彼がここ数年、毎晩のように論文を読み漁り、何度も絶望してきた、息子のルーカスを救うための、日本の研究チームが提示した臨床試験の費用――1億円を、遥かに上回る金額だった。

希望はある。しかし、その扉を開けるための鍵が、あまりにも高すぎる。そう絶望していた彼の目の前に、天から蜘蛛の糸が垂らされたのだ。


親友の娘を、危険な空から降ろさなければならない。しかし、そのためには、愛する息子の命を救うための、唯一の希望を、自らの手で掴み取らなければならない。

彼は、震える右手で、机の上に置かれていた古いゴーグルを、ゆっくりと持ち上げた。

埃をかぶったレンズの向こうに、10年間、目を背け続けてきた空が、歪んで映っていた。


ドイツ・ミュンヘン


ガラス張りの会議室に、重い沈黙が流れていた。

軍用兵器開発の科学者、クラウス・リヒターは、目の前に座る某国の軍服の男たちの、懐疑的な視線を一身に浴びていた。


「シミュレーション上のデータは素晴らしい、リヒター博士。しかし、我々が知りたいのは、あなたのAIが、予測不能な人間の天才を相手に、どこまで通用するのかだ」


手元のタブレットには、ライバル企業が開発した、より安価で堅実な兵器システムの資料がわざとらしく広げられている。クラウスが人生を捧げた自律戦闘AI「ユグドラシル」は、このままでは巨大な倉庫の肥やしになる。不利な状況だった。


休憩中、苛立ちを押し殺してコーヒーを飲んでいた彼の目に、壁掛けモニターのニュース映像が飛び込んできた。

『――G制限撤廃!改造無制限!必要なのは、シミュレーターでトップ6に入ることだけ!』


クラウスの動きが、止まった。

市街地レース。ルール無用。そして、参加者は、世界中から集まるであろう、個性も癖も違う「人間の天才」たち。


(……これだ)


これ以上のプレゼンテーションが、どこにある?

シミュレーションではない。本物の空で、世界最高の人間たちを相手に、自らのAIが完璧な勝利を収める。それこそが、ライバル企業を沈黙させ、目の前の軍人たちに「ユグドラシル」の価値を認めさせる、唯一無二のデモンストレーションになる。


クラウスの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。

哀れなパイロットたちよ。君たちの命懸けの飛行は、私のAIの優秀さを証明するための、最高の実験材料データとなるのだ。


---

アメリカ・ネバダ州


トレーラーハウスの薄暗い室内には、安物のバーボンの匂いが立ち込めていた。

ソファに横たわる男、ジャック・"コヨーテ"・ストーンの前に、マフィアの男たちが立ちはだかっている。


「ジャック、お前がネイビー・シールズの英雄だった頃の話は聞き飽きた。期限は一週間だ。それまでに借金を返せなければ、お前の命はない。分かったな?」


ドアが乱暴に閉められ、一人残されたジャックは、天井の染みを、ただ虚ろな目で見つめていた。英雄の成れの果て。仲間も、名誉も、金も、全てを失った。残っているのは、マフィアに付けられた、命の値段だけだ。


その時、つけっぱなしになっていた古いテレビが、レックス・マーベリックの顔を映し出した。

『優勝賞金は、10億だ』


ジャックの目が、初めて光を取り戻した。

10億円。

その金があれば、借金を返し、過去を捨て、どこか遠い国で、誰にも知られず静かに生きていける。

市街地レース?危険?そんなものはどうでもいい。どうせ、このままでは死ぬのだ。ならば、最後に、かつて戦場で培った技術の全てを、この狂ったレースに賭けてみるのも悪くない。

彼は、震える手で、床に転がっていたバーボンのボトルを掴んだ。

「…まだ、死んでたまるかよ」


---

フランス・パリ航空ショー


割れんばかりの拍手と歓声の中、一機の小型ジェットが、空に美しいスモークのアートを描き出す。

地上に降り立ったパイロット、風間隼人は、群がるファンに笑顔でサインをしながら、心の底では退屈していた。


「隼人!見たかい、このニュースを!」

マネージャーが興奮して、タブレットを突き出してくる。

「STRIX?…ああ、あの成金の道楽か」

「道楽なんてものじゃない!世界中が注目してるんだ!君も参加するべきだ!」


風間は、タブレットに映し出された「STRIX」の文字を、鼻で笑った。

参加者候補として、ドミトリーや、引退したビョルンの名前までが噂されている。


(くだらない。どいつもこいつも、ただ速く飛ぶだけの連中だ)


彼にとって、飛行とは「芸術」だ。いかに美しく、観客を魅了し、誰も真似できない軌跡を描くか。

彼は、マネージャーの言葉を無視して、空を見上げた。


(だが…軍が封鎖した都市を、何の制約もなく自由に飛べる、か)


それは、彼が追い求める究極の「舞台ステージ」かもしれない。誰にも邪魔されず、己の芸術の全てを、全世界に披露できる、たった一度の機会。

賞金にも、ライバルの名にも興味はない。

だが、あのコンクリートのジャングルで、世界で最も美しい飛行をするのが誰なのか。それを、教えてやる必要はあるだろう。


「…面白そうだ。出てやってもいい」

風間は、空に向かって、不敵に笑った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ