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第1章 - 約束の空

スウェーデンの夏は、短く、そして儚い。だからこそ、人々は太陽の光を慈しむ。

草熱れの匂いが満ちる飛行場の滑走路に、二人乗りのグライダーが白い翼を休めていた。コクピットの後席で、銀色の髪を三つ編みにした少女が、そわそわと落ち着きなく空を見上げている。


「ねえ、ルーカス。今日は、昨日より高く飛べるかな?」


前席に座る、少し年上の少年が、計器に目を落としたまま答える。

「風は安定してる。上昇気流をうまく捕まえられれば、もっと長く飛べるはずだ。父さんが言ってた」


ステラ・シルヴァー・シュテーンと、ルーカス・リンドベリ。

二人の父親は、空で競い合う最高のライバルであり、地上では家族ぐるみの付き合いをする最高の友人だった。ステラの父が持つ小さな飛行場で、二人は物心ついた時から、空を見上げて育った。


やがて、曳航機に引かれたグライダーが、ふわりと緑のカーペットから離陸する。命綱であるワイヤーが外されると、世界から一切の音が消えた。聞こえるのは、翼が風を切る「シュー」という澄んだ音だけ。エンジンもプロペラもない、鳥と同じ自由な飛行。


「見て!街があんなに小さい!」


ステラの弾んだ声に、ルーカスが静かに応える。

「この翼の揚力は…空気の密度は…。全てが完璧に噛み合った時だけ、グライダーは空を舞える。奇跡みたいだろ?」


ステラは、ルーカスの少し理屈っぽいところが、昔から好きだった。自分には分からない世界の仕組みを、彼はいつも教えてくれる。

「私は、もっと速く飛びたいな。ジェットエンジンで、誰よりも速く!」

「じゃあ、その時は僕が最高のエンジンを組んでやる。誰にも真似できない、君だけの翼を」

「ほんと? 約束だよ!」


眼下には、故郷の赤い屋根の家々が、まるでミニチュアのように広がっている。空には二人だけ。どこまでも続く青と、綿菓子のような雲。この穏やかで、美しい時間が永遠に続くと、ステラは信じて疑わなかった。


太陽の光を浴びて輝く銀髪。その隣で、未来の設計図を描く真剣な眼差し。

二人の夢を乗せた白い翼は、夏の空に高く、高く舞い上がっていった。


---


同日、夕刻


その日、テレビから流れてきたアナウンサーの絶叫が、ステラの永遠を、いとも容易く粉々に打ち砕いた。


『――最終ラップ、最終コーナー!トップはゼノ・シルヴァー・シュテーン!その後ろ、ビョルン・リンドベリがインから並びかける!接触する!ああ、接触した!2機が絡み合いながら、コース外へ…!』


画面に映し出されたのは、煙を吹きながら錐もみ状に落下していく、見慣れた二機のレース機。一つは、毎朝「行ってきます」のキスをしてくれる、優しい父の翼。もう一つは、親友であり、ルーカスの父である、ビョルンの翼。


ステラは、その光景を、ただ瞬きもせず見つめていた。

テレビの音も、背後で泣き崩れる母の声も、何も聞こえない。


ただ、あの夏の空で交わした、ルーカスとの約束だけが、耳の奥で何度も、何度も響いていた。



病院の長い廊下は、消毒液の匂いと、押し殺したような静寂に満たしていた。

手術室のランプが消えるのを、ルーカスは母親の隣で、固く手を握りしめながら待っていた。何時間そうしていたのか、もう分からなかった。


やがて扉が開き、疲れた顔の医師が出てくる。

「…ビョルン・リンドベリさんの手術は、成功です。命に別状はありません」

母親が崩れ落ちるように泣き始めた。ルーカスの体からも、張り詰めていた糸が切れるように力が抜けていく。よかった、父さんは、生きてる。


しかし、医師は厳しい顔で続けた。

「ですが、右腕の損傷が激しく、神経と筋肉の大部分を…再建するのがやっとでした。今後、パイロットとして操縦桿を握るのは、極めて…」


その言葉は、ルーカスの心を再び凍りつかせた。

そして、追い打ちをかけるように、医師はもう一つの事実を告げた。ステラの父親、ゼノ・シルヴァーシュテーンが、搬送先で死亡したことを。


親友の父親が死に、自分の父親は、もう二度と空を飛べないかもしれない。

あの最終コーナーで、一体何が起きたのか。ルーカスの頭の中は、答えの出ない問いで真っ白になった。


---


数日後、墓地には冷たい雨が降っていた。

黒い服を着た大人たちに囲まれ、ステラは、父の名が刻まれた真新しい墓石を、ただじっと見つめていた。涙は出なかった。あまりにも現実味がなくて、まるで悪い夢の中にいるようだった。


そっと、隣に誰かが立つ気配がした。ルーカスだった。

彼の顔は、雨のせいか、涙のせいか、ぐしゃぐしゃに濡れていた。


「ステラ…ごめん。父さんが…僕の父さんが…」

絞り出すような謝罪の言葉。それを、ステラは静かに遮った。

「謝らないで」

彼女は、墓石から目を離さずに言った。

「パパも、ビョルンおじさんも、悪くない。誰も悪くない。ただ、空が、パパを連れて行っちゃっただけ」


その声は、子供とは思えないほど、強く、澄んでいた。

ルーカスは、何も言えなくなった。自分よりも辛いはずの彼女が、なぜ。


ステラは、初めてルーカスの方に向き直った。その青い瞳は、雨の中でも、強い光を失ってはいなかった。

「私、飛ぶよ。パパよりも、ビョルンおじさんよりも、誰よりも速く飛ぶパイロットになる」

それは、悲しみを乗り越えるための、悲痛な決意表明だった。


その決意に応えるように、ルーカスも顔を上げた。瞳には、迷いを振り払ったような、固い光が宿っていた。

「…僕は、もうパイロットにはなれないかもしれない。父さんの側にいてあげなきゃ」

彼は一度言葉を切り、そして、震える手でステラの手を握った。

「でも、僕が君の翼になる。世界で一番速くて、誰にも負けない翼を、僕が作る。だから…」


「だから、君は飛んでくれ、ステラ」


雨が降りしきる墓地で、小さな二つの手が、固く、固く握られた。

一人は空へ、もう一人は地上へ。

それぞれの道は分かれても、目指す場所は同じ。


あの夏、グライダーの中で交わした約束が、この日、悲しみと決意の中で、永遠の誓いへと変わった。

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