王子様、推しを聴く。それ私でした。
「おめでとうございます、イレーネ様! 王子殿下とのご婚約、国中が祝福しておりますわ!」
貴族令嬢たちの集まる午後のお茶会。
私は作り笑いで応えながら、そっとカップを口に運ぶ。
「まぁ。それは光栄ですけれど、なんだかまだ、実感が湧かなくて……」
紅茶のカップが手の中で小さく震えた。
だって、結婚ですよ? しかも、お相手はまだお顔も知らない王子様。
絵画で見たことはあるけれど、それって……肖像画って……理想が上乗せされてるって噂じゃない!
(王子様が実はすごく怖い人だったらどうしよう……! あと食の好みとか……辛い物ばっかり好きだったら……私、一口で泣いちゃう)
もちろん、政略結婚というものは理解している。私は侯爵令嬢、国の安定のために選ばれたことは名誉なこと。
でも私の心の中には……
ほんの少しだけ、人には言えない秘密がある。
夜な夜なこっそり続けている、魔道具を使った匿名配信──箱庭名は《月語りの小箱》。
そこで〝ルナ・リシタ〟と名乗って、物語を読んだり、リスナーの手紙に答えたり。
それが私の小さな幸せで、誰にも明かせない趣味。
なかでも。
〝蒼月さん〟──
そのお名前を見るだけで、胸の奥があたたかくなる。
優しい文章、ちょっとくすっと笑える言葉選び。
言葉だけなのに、不思議と、すぐそばにいてくれてるような気がする人。
「蒼月さん、今日も聞いてくださってありがとうございますっ!」
って、つい、声に力が入っちゃうの。
他のリスナー様にも、もちろん大切にお返事しているのに……!
(えっ、もしかして、わたし……蒼月さんのこと……?)
そんな風にドキッとした翌日には、「違います違いますっ! 蒼月さんに失礼ですからっ!」って机に向かってひとり全力否定してる。
傍から見たら完全に怪しい人だけど、ちゃんと理性はあるのです。
──でも。
婚礼の支度をしながら、胸がきゅうっとなると、思い浮かべるのは、あの人だった。
知らないはずの声を、知ってるような気がする。
会ったことのない人を、恋しく思ってしまう。
(ああ……これってやっぱり、恋なのかしら……?)
だけど私はもうすぐ、王子様のもとへ嫁ぐ。
国のため。家のため。イレーネ・ヴェルシュタインとして。立派な令嬢として。
(ねぇ、蒼月さん。もし、私が……王子様より、あなたに会いたいって思ってしまったら)
それは、いけないことでしょうか。
***
一年前——。
深夜の執務室。
俺は、机に積まれた書類を横目に、軽く肩を回した。
長い一日だった。外交文書、軍の報告、王都の治安問題。
次期国王として、仕事は山のようにある。
王家の人間に、安らぎの時間なんて贅沢な望みなのかもしれない。
けれど。
「……これくらい、許されてもいいだろう?」
俺は引き出しから、ひとつの魔道具を取り出した。
四角い形をした、手のひらサイズの小箱、〝魔道受信機〟だ。
〝魔導送信機〟を使って配信する者の声を、受信する魔道具。
元々は軍事目的に作られたものだが、最近は市井の間でも広まり、声を配信するのが流行っている。
寝る前の十五分だけ配信を聴くのが、王子である俺の、密かな楽しみだ。
(今日は誰の配信を……)
迷った末に、指先で魔道具のつまみをくるりと回す。
すると小さな箱の中から、初々しい、けれどまっすぐな声が流れてきた。
『こ、こんばんは、皆さん……! えっと、えっと、はじめまして。今日が初配信の……ルナ・リシタですっ!』
少し震えている。言葉が詰まりがちで、原稿をめくる音もばっちり入っている。
でも、その声には。
不思議な澄んだ響きと、たまらなく真剣な一生懸命さがあった。
(……可愛い声だな)
思わず口元がほころぶ。
つい先ほどまで国の命運を思案していたとは思えないような、静かな笑いが喉から漏れた。
『きょ、今日は、えっと……昔話を読もうと思いますっ。わたしの声、ちょっと震えてるかもしれませんけど、あたたかく聞いてくださると嬉しいです……!』
ふっ、とまた笑ってしまう。
誰かに笑いかけたくなる声だった。
そして、読み始めた物語の中で、彼女は少しずつ、声を安定させていった。
緊張がとけるにつれて、彼女の朗読は、やわらかく、あたたかく、言葉に魔法をかけていく。
(……この子の声、いいな)
気づけば俺は、目を閉じて、その声に耳を傾け──
夜風のような静けさのなかで、心が、すうっとほどけていった。
それから俺は、夜になると〝ルナ〟の声を聞くために受信機を取り出す。
今宵で三日目だ。
『こんばんは、《月語りの小箱》ルナ・リシタです』
少し慣れた口調に、安心して目を瞑る。
彼女の朗読は心が癒される。
ルナがその朗読が終えると、彼女はぽつりと呟くように言った。
『誰も聞いてないかもって、思ってしまうんですけど……でも、声に出すって、とても好きなんです』
その時、俺の胸の奥に、小さく波紋が広がった。
思いつきだった。けれど、止められなかった。
手を伸ばし、魔道手紙の便箋を一枚引き抜く。
(〝蒼月〟……でいいか)
宛先は、〝《月語りの小箱》ルナ・リシタ〟。
配信者が居場所を設定していれば、転送できる魔道具だ。
相手が配信中にしか送ることができないので、急いでペンを走らせる。
(届くかどうかはわからないが……)
そう思いながら、俺は初配信から聞いていること、朗読に癒されていることを綴り、転送する。
次の瞬間、彼女の声は、唐突に止まり──
『ああああ蒼月さんって、誰ですかっ!? めちゃくちゃ嬉しいです……! ほんとに、ほんとに……!』
彼女は魔道具の向こうで叫んだ。涙ぐんだ声を抑えて、俺の手紙を読み始める。
『〝初めまして、蒼月と申します〟初めまして、蒼月さん! 〝初配信から聞いていました〟初配信からですか!? わぁ、ありがとうございます!』
その喜ぶ声を聞きながら、蒼月である俺の顔は、熱くなった。
「一行一行読んで反応してくれるのか……これは……ちょっと嬉しいな」
自分の手紙を読まれるのは恥ずかしくもあったが、それ以上の喜びが体を巡る。
『私、蒼月さんのために、もっと上手くなりますね!』
その言葉がいじらしくて可愛すぎて。
俺は、一気にルナの虜になってしまった。
毎晩の配信を、特別な用がない限り聞き、そして手紙を書き続けた。
ピンクの花が好きだとか、辛いものは苦手だとか、彼女の情報が俺の中でたくさん増えていく。
けれど二人だけの箱庭は終わりを告げ、いつのまにか他のリスナーが増えていた。たくさんの手紙が読み上げられていて、ルナも嬉しそうだ。
「もう俺が手紙を書く必要もないか……」
そう思って一週間書かずにいたら、ルナの声は日に日に元気がなくなり……
ある日ついに、配信中に泣き出してしまった。
『もう、蒼月さん……私の配信を聞いてないんでしょうね……』
その言葉を聞いて、慌てて手紙を書く。
すると次の瞬間、ルナの声にハリが戻った。
『なんだ、聞いてくれていたんですね! お手紙が来ないから、てっきり……これからも書いてください! 蒼月さんのお手紙は、絶対に読み上げますから!』
「いや、特別扱いされても困るんだが……」
そう呟きながらも、〝特別扱い〟されていることが嬉しくて。
俺は笑みを隠しきれなかった。
「君は、どんな顔をしているんだろうな……」
魔道受信機では、声しかわからない。だからこそ、いいとも言えるのだが。
俺は毎晩、ルナの声に耳を傾け、その優しい響きに癒されながら眠りについた。
***
「婚約──……ですか?」
両親の口からその言葉が出たとき、私は一瞬、自分の耳を疑った。
豪奢な応接間。壁には先祖の肖像画、紅茶の香り。いつもの風景なのに、空気がまるで変わった気がして。
「そう。お相手はあのシルヴァート王子殿下だ」
お父様の口調は穏やかだけど、有無を言わせないもの。
「殿下は、誠実で思慮深い方。きっとあなたを大切にしてくださるわ」
お母様もそっと微笑んで、私の手を優しく包んでくれる。
(でも私、王子様とお会いしたことなんて、一度もないのよ!? そんな人よりも、私は──!)
「いい縁談を結べて、これで我が家も安泰だ!」
喜ぶお父様を見ては、何も言えるわけがなかった。
王子様との婚約は、この国の未来を左右するほどの大事。私の立場では逆らえないことも、よくわかってる。
「……承知しましたわ」
唇が乾いていたけれど、なんとか返事をした。
それが貴族令嬢としての務めなら、受け入れるしかないもの。
でもその夜、部屋に戻ってひとりになると、どうしても誰かに話したくて、私は魔導送信機の前に座る。
『こんばんは、《月語りの小箱》ルナ・リシタです。今日は、少しだけ、大切なお話をさせてください』
配信機の向こう側にいる、大事なリスナーたちに向かって……その中でも大切なあの人に向かって、私は語り始めた。
「私……結婚することになりました」
その言葉と同時に、目の前に便箋が転送されて、宙に浮く。
〝おめでとう〟
〝よかったね〟
〝幸せにね〟
〝配信は続けて!〟
──リスナーの皆様のあたたかい言葉。
けれど、そこに蒼月さんの便箋は見当たらなかった。
「たくさんのお祝いの言葉、ありがとうございます。でも、まだ実感がなくて……。きっとこれから、少しずつ生活も変わっていくんだと思います」
言葉を選びながら、魔道受信機の向こう側にいる誰かを思う。
「配信を続けられるかどうかは……今のところ、わかりません。えっ? 〝相手は蒼月さん?〟って、そんなわけないじゃないですか!」
また便箋が届く。
〝続けてほしい〟
〝毎晩の楽しみである〟
〝寂しいなあ……〟
──嬉しい。とても嬉しい。
けれど、やっぱりそこに蒼月さんの言葉はなくて。
聞いて……ないのでしょうか。
蒼月さんって叫びたい衝動を、私は必死に抑える。
そこに届いたのは、一枚のリスナー様の便箋。
〝ルナちゃんは、蒼月のことが好きだったんだよね?〟
──その一文を読んだ瞬間、胸の奥が熱くなった。
けれど、認めるわけにはいかない。蒼月さんにも迷惑がかかってしまうもの。
「もう、〝蒼月のことが好きだったんだよね?〟ってまたこの質問ですか? もちろん、蒼月さんのことは大切なリスナー様ですけれど、やめてくださいね。蒼月さんにもご迷惑になってしまいますから!」
なるべく明るく言葉を返した私の元に──あの便箋が転送された。
見間違えるはずもない、蒼月さんが使う便箋。
(来た……来た……!)
私は慌てて宙に浮く手紙を掴み取る。
「蒼月さんからお手紙が来ました! えーと……」
いつものように、彼の手紙ひとつで自然と気持ちは高揚する。けれど──
「〝僕も近々、結婚することになりました〟……」
一瞬で、文字が滲む。
声が出ない……でも、ちゃんと読まなきゃ。
私は、配信者なんだから。
「……〝これからはあなたの配信を聞けるかどうかわかりませんが、応援しています。どうかルナも幸せに〟……」
涙を堪えて、私は唇を噛む。
(これは……恋じゃない)
そう言い聞かせる。そうじゃないと、あまりにも苦しいから。
言葉と声だけの関係。
顔も名前も知らない相手。
なのに、こんなにも胸が痛いなんて。
たくさんのリスナー様から、また便箋が届いた。
〝大丈夫?〟
〝これはつらい〟
〝配信最後までがんばって〟
〝蒼月のばかやろー!〟
〝泣かないで〟
優しいリスナー様たちの言葉に励まされて。
私はなんとか、言葉を絞り出す。
「蒼月さん……あなたこそ、幸せでいてくださいね」
小さく呟いて、私は配信を終了した。
結婚式の朝。
鏡の前で微笑む私の顔は、まるで仮面のよう。
「よくお似合いです、イレーネ様」
侍女の言葉に、私は小さく頷いた。
まっすぐな背筋、整えられた髪。
すべてが、立派な花嫁として完璧に仕立てられていて。
それなのに、心だけが置き去りのまま。
蒼月さんは、誰かと結婚される。
私も同じように、王子様の元へとへ嫁ぐ。
──なにも知らないまま。
お互いの名も、姿も、すれ違ったまま。
「……蒼月さん……」
結婚式の日に、違う男の人の名前を呟くなんて、なんて不道徳なことでしょう。
目の前の扉が開き、王子様が現れる。
私は今日、結婚する。
蒼月さんでは、ない人と。
***
婚礼の日。
扉を開き、俺は花嫁を迎えにいく。金糸をあしらった礼服に身を包み、王子としての威厳と品格を湛えたまま。
目の前にいるのは侯爵令嬢イレーネ。今日から妻となる女性だ。
「初めまして、シルヴァート殿下。イレーネ・ヴェルシュタインと申します」
俺はその声を耳にした瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
透き通るようなその声。落ち着いて、丁寧で、それでいてどこか温かい。どこかで、何度も聞いたような──そんな気がして。
(まさか)
胸が波打つ。
記憶の中の声と、いま目の前の彼女の声が、まるで重なるようだった。
しかし俺は、あくまで静かに応じる。
「イレーネ嬢。いや、イレーネ。今日からは俺の妻として、よろしく頼む」
穏やかな笑みを返す彼女。
所作、話し方、礼の仕方──どれも完璧で、貴族の令嬢として申し分ない。
だが、配信機から聞こえてきた〝あの人〟の声の面影が、どうしても頭から離れない。
(ルナ、ではないのか?)
いや、そんなはずはない。
〝ルナ〟という配信者の素性は不明。王族に嫁ぐような立場の女性が、身分を隠して配信などするだろうか。
その疑念を振り払おうと、俺はそっと息を整えた。
***
夜になっても、そのざわめきは消えなかった。
初夜の寝所、二人きりの空間。イレーネは礼儀正しく、けれどどこか怯えるように目の前に立っていた。
「無理はしなくていい。今夜は、話をするだけにしよう」
言葉に嘘はない。本心から、俺は彼女に手を出す気にはなれなかった。
〝ルナ〟の声が重なるせいだけではない。
彼女が、まるで硝子細工のように繊細で、傷ついているように見えて。
しばらくの沈黙のあと、俺はなるべく優しい声で尋ねた。
「……怖い思いを、させてしまったか?」
イレーネは、はっとしたように顔を上げ、俺を見た。
そして少しだけ俯き、唇を震わせながら首を横に振る。
「いえ……殿下が優しくしてくださって、本当に……」
言いかけて奥歯を食いしばり、何かを耐えるイレーネ。
そんな姿を見ては、俺も胸を痛めてしまう。
「……なにか思うことがあるなら言ってくれ。これからは夫婦なんだ。俺は君のどんなことでも、受け止めようと思う」
俺の言葉に、イレーネはとうとう声にした。
「……殿下、わたくし……実は、好きな方がいたのです。もう叶わないこととは、わかっております。でも……心が追いつかなくて……どうか、しばらく、お待ちいただけませんか」
潤んだ瞳で、涙をこらえながら必死に言葉を紡ぐ姿は、痛ましいほどだった。
俺は少しだけ目を伏せ、そしてそっと頷いた。
「……そうか」
それだけを、ようやく絞り出した。
思いがけない言葉に、胸がざわめく。
(〝ルナ〟には、好きな人がいたのか──そんなこと、今まで一度も口にしなかったのに)
そしてもし、目の前の彼女がルナでないのなら……この痛みは何なのだろう。
その夜は、目を閉じても、彼女の声が俺の心の中で何度もこだました。
***
結婚生活が始まって、一ヶ月が経った。
公務でお忙しい中でも、シルヴァート殿下は毎晩ちゃんと時間を作ってくださる。食事をともにし、たわいもない話をして、夜は同じ部屋に──けれど、殿下は決して無理を強いることはなかった。
本当に、優しくて紳士的なお方。
その夜も、私たちは向かい合って夕食をとっていた。
不思議なことに、結婚してから一度も辛いものが食卓に並んでいない。私は辛いものが得意ではないけれど、それを殿下に伝えた覚えはなくて。
(まさか、誰かに聞いたのかしら。それとも偶然? でも、殿下は辛いものがお好きだと噂で聞いたような……もしかして私のこと、気遣ってくださってる?)
婚約当初、「辛い物ばっかり好きな人だったらどうしよう……一口で泣いちゃう……!」なんて震えていた私だけれど──その心配は、今のところ杞憂だったみたい。
「今日は花の品評会に行ってくれたんだな。君が気に入った花はあったか?」
「はい。淡いピンクのラナンキュラスがとても綺麗でした。春の陽だまりのようで……見ているだけで、心がほぐれるようでしたわ」
「春の陽だまり……なるほど。君の声で聞くと、余計にそんな気がしてくるな」
優しい目で言われると、私の胸の奥はふわりと温かくなる。
けれど、そのぬくもりに身をゆだねるのが、なぜだか怖い。
部屋に戻ると、殿下はカップに香草茶を淹れてくださった。
「眠れないときには、これがいいと聞いた」
殿下は少し照れたように笑って。
「イレーネには、よく眠ってもらいたい」
微笑みを、私に向けてくれる。
こんな素敵な人が、夫だなんて──いまだに信じられない。
思えば、最初からそうだった。
婚礼の夜、何も強いられることなく、ただ静かに「話をしよう」と言ってくれて。
それは、あまりにも優しすぎて、痛みさえ感じるほどだった。
(政略結婚なのに、こんな風に大事にされるなんて……思っていなかったの……)
ルナとして配信していた私に、蒼月さんがそうしてくれていたように。
殿下も、私を大事にしてくれている。
だけど、蒼月さんを思い出すと、胸がぎゅっと痛んだ。
恋をしていた。
たぶん、あのとき、本気で。
ずっと封じ込めていたけど、今だからこそ気づいて──
同時に、隣にいる殿下の静かな思いやりに、心が少しずつ揺れていく。
どうしよう。殿下といると、楽しい。
心の奥底から、幸せな感情が湧いて出てきてしまう。
こんなの、知らなかった。誰かが隣にいることが、こんなにあたたかいなんて。
「今日の君は、よく笑っていたな。……それだけで、なんだか救われる」
その一言に、喉の奥がきゅっと締まった。
こんなにも、大事にされている。
(……どうして、もっと早く、殿下のことを知ろうとしなかったの)
私は、殿下の横顔を見つめた。
整った顔立ち。けれどその奥にある、真摯さと静かな孤独。
この方は、孤独の中で誰かを求めていたのではないのかしら。
そう思うと、心が揺れた。
それと同時に、私の胸の奥にひっそりと残る想いが……痛むのです。
蒼月さんへの未練。断ち切らなければいけないと思いながら、ずっと燻っているままの、この気持ちが。
(どちらも、本物の気持ちなのに)
けれど、確かに……私は殿下に惹かれている。
殿下に優しくされるたび、自分が変わっていくのがわかる。
それが嬉しくて、そして、少しだけ怖かった。
***
ある夜、私は思い切って、殿下にお願いをした。
「今晩だけは、寝所を別々にお願できないでしょうか」
静かな間があった。けれど、シルヴァート殿下は何も聞かず、ただ頷いてくださった。
「わかった。何かあったら、呼んでくれ」
その声に、胸が苦しくなる。
まるで、嘘をついているような気がして。──でも、今夜だけは、自分の気持ちと向き合いたかった。
私は、久しぶりに〝ルナ〟になった。
魔道送信機の前に座る指先が、かすかに震えている。
けれど、もう迷わない。──今日が、その最後。
「……お久しぶりです。ルナです。この配信が、最後となります」
言葉にすると、いろんな感情が胸を押し寄せた。けれど、もう抑えない。
「結婚をして、一ヶ月が経ちました。夫となった方が、とても優しくて……気がついたら、恋をしていました」
そう告げると、心の中にずっとあった迷いが、少しだけ溶けた気がした。
「でも……蒼月さんも、大好きでした。どれほど励まされ、救われてきたか……言葉では、とても伝えきれません」
自然と涙が、頬をつたう。
「蒼月さん……本当に、ありがとう。あなたのこと……ずっと、大切に思っていました」
彼が聞いているかどうかはわからない。けれど、言いたかった。この心を伝えたかった。
「蒼月さんがずっと笑顔でありますよう……心から願っています」
──そして、配信を終えた。
もう、戻れない。蒼月さんと過ごしたあの頃には。
私はこらえきれず、声を殺して泣いた。
──そのとき。
ノックの音がした。私は、はっとして顔を上げる。
扉の下から、便箋が差し入れられた。
(これは……蒼月さんが、いつも使っていた便箋!?)
震える手で拾い上げ、文字を追う。
〝もうあなたの声が聞けないのなら、せめて隣で、聞かせてください〟
手紙の文字が、滲んでいく。
頭が真っ白になった。
──え?
まさか。
まさか、そんな。
扉を開けると、そこにいたのは、シルヴァート殿下。
けれど、私にはもう、それだけじゃなかった。
ずっと応援してくれていた〝蒼月さん〟が、そこに重なる。
「……殿下が、蒼月さんだったんですね……! どうして……どうして言ってくださらなかったんですか……!」
涙声で問いかける私に、殿下は少し困ったように笑って、けれど優しく言った。
「……君にとって俺は、ただのリスナーに過ぎなかったからな。それに……君の中にある〝蒼月像〟を壊したくなかったんだ。でも、俺は──最初からずっと、君を大切に思っていたよ」
言葉の一つひとつが、胸に染みる。
全部、繋がった。
だからあんなに優しかったんですか? 私のことを知っていたんですか?
最初から、ずっと──私の声を聞いてくれていたなんて。
「……そんなの……ずるいです……」
泣きながら、私は殿下にすがる。
「ずっと……好きだったのに。どちらのあなたも、大好きだったのに……!」
シルヴァート殿下──蒼月さん──は、私を優しく抱きしめてくれた。
「……ありがとう。君が君でいてくれるだけで、俺は幸せだ」
その腕はあたたかくて、どこか懐かしくて。
そして、なにより──安心できる場所だった。
ようやく私は、自分が本当の意味で〝恋に落ちた〟のだと気づいた。
もう、迷わない。
私の隣にいる人は、最初からずっと、私の幸せを願ってくれていたのだから。
「これからも、君の声を聞かせてくれるか?」
その問いに、私は涙を拭いながら、こくんと頷いた。
「……はい、ずっと……あなたの隣で」
私がそう答えると、シルヴァート殿下はふっと笑って、私の頬にそっと触れた。
「君の声が、大好きだ」
その言葉は、心の奥深くまで染み込んで、熱を灯す。
私は俯いて、そっと彼の胸元に顔を埋める。
鼓動が聞こえる。確かにそこにある、彼の想い。
私だけのものになった、彼のぬくもり。
──そのまま、彼は私の手を取った。
「部屋へ、戻ろうか」
低く落ち着いた声。けれどその中に、どこか甘さが混じっていて──
私は、ゆっくり、頷いた。
扉の向こうに広がる夜は、驚くほど静かで優しくて。
ふたりで手をつなぎ、並んで歩いていく。
すべてを打ち明けた今、その隣はあたたかくて、どこまでも心地よかった。
そうして私たちは、もう一度、二人だけの箱庭に戻っていく。
──今度こそ、本当の意味で、ひとつになるために──
お読みくださりありがとうございました。
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