第8話
タナトスの制作を始めてから十日がたった。
タナトスの胸部装甲の微調整を行なっていた誠の視界に、突然の黒い霧が広がった。
手に持っていたニッパーが床に落ち、鈍い音を立てる。
タナトスの光学センサー部分に取り付けようとしていた赤いレンズが転がっていく。
言葉を発する間もなく、誠の意識は闇に溶けていった。
◇
冷たい。硬い。
誠が最初に感じたのは、頬に押し付けられた床の感触だった。
全身が痛み、首から背中にかけて筋肉が引きつっている。
誠は唸り声を上げながら、ゆっくりと目を開いた。
部屋は真っ暗だった。
唯一の明かりは、タナトスの「造魂核」から発せられる微かな赤い光だけ。
その光は部屋の闇の中で脈打ち、不規則な影を壁に映し出していた。
まるで生命体の心臓のように。
「何時だ……」
声を出そうとして、誠は驚愕した。
その声は、もはや誠自身のものとは思えないほど変わっていた。
かすれて、機械的で、人間味を欠いていた。
誠はおぼつかない足取りで立ち上がった。
痛みが全身を走る。
どれだけの時間、床に倒れていたのだろうか。
窓の外は漆黒の闇。
深夜か、あるいは早朝か。
誠はよろめきながら、壁のスイッチを探した。
光に飢えた目が、強い電灯の光に痛みを覚える。
誠は目を細め、しばらく瞬きを繰り返した。
視界が徐々に明瞭になる。
そして、誠は息を呑んだ。
タナトスが、誠が意識を失う前よりも、明らかに完成に近づいていた。
肩部のスラスターユニットが取り付けられている。
背中のウイングパックが展開されている。
そして、先ほど取り付けようとしていたはずの光学センサーが、完璧に位置に収まっていた。
「これは……」
誠は頭を振った。
幻覚だろうか?
過労による錯覚?
誠は自分の精神状態を疑い始めた。
そこで誠は思い出した。
タイムラプス撮影。
誠は常に自分の作業を記録するために、スマートフォンでタイムラプス撮影を行っていた。
誠は急いでスマートフォンを探した。
机の上にはなかった。
床を這うようにして探すと、ソファの下に転がっているのを見つけた。
画面は真っ暗だ。
バッテリーが切れていた。
誠は慌ててスマートフォンを充電器に繋いだ。
起動を待つ数十秒が、誠には永遠のように感じられた。
その間、誠の目はタナトスに釘付けになっていた。
明かりの下で見ると、それは確かに誠の記憶よりも完成に近づいていた。
しかし、そんなことがあり得るだろうか?
スマートフォンの画面が点灯した。
震える指で、ギャラリーアプリを開く。
最新の動画ファイルを選択する。
タイムラプス動画が再生された。
最初は何も異常はなかった。
早送りされた映像の中で、誠が集中して作業を続けている。
その指先の動きは精密で、無駄がない。
「神の手」の名にふさわしい技術。
そして、動画の中の誠が突然、顔を上げた。
誠の表情に歪みが走り、次の瞬間、誠は前のめりに倒れる。
机の上のタナトスが揺れ、いくつかの小さなパーツが床に散乱した。
ここまでは、誠の記憶と一致していた。
しかし、その後の映像が、誠の世界観を根底から覆した。
誠が倒れてから約10分後、タナトスの「造魂核」が強く輝き始めた。
その赤い光は部屋全体を不気味に照らし出す。
そして、信じられないことに、タナトスが微かに動いた。
腕部が、わずかに持ち上がる。
頭部が、わずかに回転する。
脚部が、わずかに位置を調整する。
「嘘だ……」
誠は呟いた。
しかし、映像は続く。
タナトスは、確かに「自分で」動いていた。
その動きは、最初はぎこちなかったが、次第に滑らかになっていく。
まるで操り人形が自分の動かし方を学習していくかのように。
より衝撃的だったのは、タナトスが散乱したパーツを「拾い上げ」、自身の体に組み込んでいく様子だった。
それは誠が行うはずだった作業を、誠の代わりに実行しているかのようだった。
「こんなこと……あり得ない……」
しかし、証拠は誠の目の前にあった。
タナトスは「生きて」いた。
そして、「自分自身を造形」していた。
映像はさらに続く。
タナトスの動きは次第に複雑になり、より目的意識を持ったものになっていく。
それは単なる物理法則に反する動きではなく、明確な意志を持った行動に見えた。
そして、映像の終わり近く、恐ろしい瞬間が訪れた。
部屋の隅、ドアの近くに、何かが映り込んだ。
それは最初、単なる影のように見えた。
しかし、次第にその形が明確になる。
人間の姿。
しかし、完全な人間の姿ではない。
それは歪んでいた。
輪郭がぼやけ、時折透明になったり実体化したりを繰り返す。
まるでテレビの悪い受信状態のように、その姿はちらつき、揺らめいていた。
カメラがその姿を捉えたのはほんの一瞬。
フレームの隅に、歪んだ顔が映り込んだ。
誠は震える指で映像を一時停止し、その瞬間に戻した。
顔をズームアップする。
画質は悪く、荒れているが、それでも誠はその顔を認識できた。
「健太……?」
苦悶に満ちた表情。
口を大きく開き、何かを叫んでいるようだ。
その目は異様に見開かれ、中に光が宿っていない。
まるで魂を抜かれたかのように。
誠は思わずスマートフォンを落とした。
「失踪」したはずの健太が、なぜここに?
しかも、あんな姿で?
誠の頭に、様々な記憶が洪水のように押し寄せた。
健太が「造魂核」に触れた瞬間。
健太の指から流れ落ちた血。
コアに吸収されていく血。
健太の瞳の奥が一瞬、暗く揺らめいた瞬間。
健太の急激な変貌。
突然の失踪。
そして、つい先日見た悪夢。
誠はゆっくりとタナトスに近づいた。
その胸部に輝く赤い球体を凝視する。
内部に何かが見えるような気がした。
形のないものが、渦を巻いている。
そして、その渦の中心に、人間の顔のようなものが浮かんでは消えていた。
この瞬間、誠の精神に亀裂が入った。
誠の世界観、現実認識、すべてが崩壊しかけた。
タナトスは生きていた。
タナトスは自己進化していた。
そして、タナトスは健太を「食べた」のだ。
誠はよろめきながら後退した。
背中が壁に当たり、誠はそこにもたれかかった。
足の力が抜けていく。
そのとき、「造魂核」が強く脈動した。
その赤い光が、誠の顔を照らす。
そして、誠の耳に囁きが届いた。
『造形者よ……』
それは健太の声だった。
しかし同時に、それは健太の声ではなかった。
より古く、より深く、より非人間的な何かが、健太の声を借りて話しているようだった。
『……完成させよ……』
誠はその言葉に、恐怖と共に、奇妙な高揚感を覚えた。
誠の指先が痺れ、「造魂核」に触れたいという欲求が湧き上がる。
誠は自分の精神が「タナトス」と一体化しつつあることを感じていた。
そして恐ろしいことに、それを拒絶できなかった。
むしろ、受け入れたいと思っていた。
「造形……」
誠の口から、機械的な声が漏れた。
誠の意識がゆっくりと変容していく。
「神の手」が、「造形者の手」へと変わっていく。
誠は再びタナトスに近づいた。
その手は震えていたが、それは恐怖からではなく、創造への渇望からだった。
「完成させる……必ず……」
誠は工具を手に取った。
そして、タナトスの完成へと向けて、最後の作業を再開した。