第7話
健太は水を一口飲んだ後、急に咳き込んだ。
水がこぼれ、シャツの前面を濡らしたが、彼は気にする様子もなかった。
「なあ、誠」
健太の声が変わっていた。
さっきまでの弱々しさは消え、異様な熱を帯びている。
「これ……どこで手に入れたんだ?」
彼が再びタナトスを見つめる。
その目は、まるで飢えた獣のように輝いていた。
瞳孔は異常に開き、黒目がほとんど虹彩を飲み込んでいた。指先は小刻みに震え、頬には不自然な紅潮が広がっていた。
「造形堂という……」
誠が答え始めたが、健太は聞いていないようだった。
彼は既にタナトスに近づき、その全身を貪るように観察していた。
「すげえ……すげえよ……。こんな精密な……いや、精密じゃない。これは生きてる……」
彼の言葉は断片的になり、呼吸は次第に荒くなった。
誠は友人の変化に当惑した。
常に屈託なく笑う健太がこんな姿を見せるのは初めてだった。
「これ、俺にも作れるか?」
健太が唐突に尋ねた。
「何?」
「俺にも作れるかって聞いてんだよ!」
健太の声が高くなった。
誠は戸惑いながら答えた。
「こいつは特殊なキットで……健太、お前には……」
「すげえ……俺も作りたい! こんなすげえの、俺も!」
健太の興奮は頂点に達していた。
彼は両手を激しく震わせながら、何度も同じフレーズを繰り返した。
目は焦点が合わず、額には脂汗が浮かんでいた。
その姿は、かつての健太とはかけ離れていた。
まるで別の存在に乗っ取られたかのように。
誠は本能的に身体を引いた。
「健太、落ち着け。お前、具合悪いんじゃないのか……」
「これ、どこで手に入れた?。教えろよ! 俺にも作らせろよ!」
彼は誠の腕を掴んだ。
その指の力が、異常に強かった。
誠は痛みに顔をしかめた。
「健太、離せ……」
「教えろよ!」
誠は友人の狂気じみた様子に、恐怖を覚え始めた。
「造形堂って店だ……」
その言葉を聞いた途端、健太は誠を放し、唐突に立ち上がった。
「わかった、行ってくる」
「待て、健太! まだ話が……」
誠は制止しようとしたが、健太は既に玄関へと向かっていた。
彼の動きには奇妙な機械的な正確さがあり、いつもの人間らしいぎこちなさが消えていた。
「また来るよ」
健太は振り返らずに言った。
その声は不気味なほど平板だった。
「俺も作るから……俺も作るから」
ドアが閉まる音。
急ぎ足で遠ざかる足音。
そして、健太は去った。
誠は、友人の突然の変貌と退出に、困惑しながらも肩をすくめた。
「まあ、いつもの気まぐれだろう」
健太はもともと衝動的な性格だった。
熱しやすく冷めやすい。
今回もそうに違いない。
誠はそう自分に言い聞かせた。
そうして、誠は再びタナトスの製作に戻ることにした。
◇
その日から、健太の様子は一変した。
最初は、LINEのメッセージの洪水だった。
「造形堂見つからない」
「場所教えて」
「詳細住所教えて」
「お前教える気ないのか?」
「タナトスが呼んでる」
「教えろ」
メッセージは夜中まで続き、内容はますます支離滅裂になっていった。
最後のメッセージは意味不明な記号の羅列だった。
まるで別の言語か、コンピュータコードのような。
翌朝、誠は気が進まないながらも、健太に造形堂の場所をより詳しく教えるメッセージを送った。
しかし、既読すらつかなかった。
誠は電話をかけたが、『お客様のお掛けになった電話番号は……』という機械的な女性の声が返ってくるだけだった。
不通になっていた。
最初の数日間、誠は健太のことを気にかけなかった。
タナトスの製作が彼の意識のほとんどを占めていたからだ。
完成は目前だった。
誠はほとんど食事も睡眠も取らず、ただひたすらに造形に没頭していた。
しかし、一週間が過ぎた頃、誠は次第に不安を感じ始めた。
「あいつ、どうしてるんだ……」
誠は珍しく、タナトスから意識を離し、スマートフォンを手に取った。
健太のSNSをチェックするが、一週間前を最後に更新が止まっていた。
「健太の住所、知ってたかな……」
誠は記憶を辿ったが、健太のアパートを訪れたのは数年前、しかも酔った状態だったため、正確な場所を思い出せなかった。
◇
その夜、誠は珍しく悪夢にうなされた。
夢の中で、健太がタナトスの「造魂核」に飲み込まれていくのを見た。
彼の体は溶け、液状化し、赤い球体の中に吸収されていった。
最後に残った健太の顔は、苦悶と恍惚の入り混じった表情を浮かべていた。
「うっ……」
誠は冷や汗と共に目を覚ました。
首筋を流れる汗が、異様に冷たかった。
タナトスの「造魂核」が、かつてないほど強く輝いているように見えた。
その赤い光は、部屋の暗闇の中で拍動しているように思えた。
誠はあの時のことを思い出した。
健太の指からこぼれ落ちた血。
それが「造魂核」に吸収されていく様子。
そして、健太の瞳の奥が一瞬、暗く揺らめいた瞬間。
「まさか……」
漠然とした不安が、具体的な恐怖へと変わり始めた。
誠はベッドから身を起こし、おぼつかない足取りでタナトスに近づいた。
「造魂核」の内部をじっと覗き込む。
赤い光の中に、なにか形があるように見えた。
人の顔のような……。
誠は思わず後ずさった。
「思い過ごしだ。疲れてるだけだ」
しかし、その言葉に彼自身が納得していないことは明らかだった。
◇
翌日、誠は数年ぶりに会社を休んだ。
誠は健太のアパートを探すために外出した。
友人の住所を確認するため、健太と共通の友人たちに連絡してみたが、誰も正確な場所を知らなかった。
「あいつ、プライベートに関しては妙に警戒心強かったよな」と、友人の一人が言った。
誠は健太が務めている会社まで行ってみることにした。
しかし、そこで誠を待っていたのは、さらなる不安だけだった。
健太の同僚の女性が訝しげにこう言ったのだ。
「先週、突然退職されましたよ。引っ越すとかで……」
誠の血の気が引いた。
「退職……?」
健太はその会社でクリエイティブディレクターとして10年以上働き、重要なプロジェクトを任されていた。
彼が突然辞めるとは考えられなかった。
誠は茫然自失のまま、帰路についた。
電車の窓から見える街の景色が、妙に非現実的に見えた。
「健太……お前、一体どうしたんだ……」
誠のポケットの中でスマートフォンが震えた。
見知らぬ番号からのメッセージだった。
『造形者になる』
たった一行のメッセージ。
送信者名はなかったが、誠は直感的にそれが健太からだと理解した。
帰宅すると、誠はタナトスの前に座り、「造魂核」をじっと見つめた。
「お前は……何なんだ……」
返事はなかった。
しかし、「造魂核」の赤い光は、まるで答えを知っているかのように、静かに脈打っていた。