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第5話

 三日目の夜、中村誠はついに身体の限界を迎えた。


 机の上で頭を垂れ、額が「タナトス」の肩部分に触れた瞬間、意識が遮断された。

 完璧な姿勢で眠ることにこだわる誠が、作業台で崩れるように眠りに落ちる――それは誠の全存在における異常事態だった。


 顔は青白く、眼窩は深く窪み、頬はこけて、かつての整然とした外見は見る影もなかった。

 汚れたTシャツは体に張り付き、髪は油で固まり、皮膚には塗料のしみが染み込んでいた。

 指先は血で染まり、爪は剥がれかかっていた。

 もはや「神の手」と呼ばれた頃の美しさはなかった。


 しかし、その不健康な外見に反して、誠の顔には奇妙な満足感が浮かんでいた。

 まるで悦楽の中で眠りについたかのように。


 意識は急速に闇へと落ちていった。


 通常の夢であれば、断片的なイメージが浮かび、消え、変形していくものだ。

 しかし、誠が沈んでいったのは「夢」と呼べるようなものではなかった。

 それはあまりにも鮮明で、あまりにも一貫性があり、あまりにも……現実だった。


 ◇


 最初に誠を襲ったのは、匂いだった。


 硝煙の刺激的な臭気。

 金属の焦げた臭い。

 機械油の重い香り。

 そして、それらの下に潜む、生肉が腐敗していくような甘ったるい匂い。

 誠の肺が収縮し、本能的に息を止めようとした。

 しかし、その空気は容赦なく鼻腔に侵入し、気管を通り、肺胞を満たしていった。


(ここは……どこだ?)


 声を出そうとして、誠は驚愕した。

 声が出ない。

 誠の喉は機能していなかった。

 いや、誠の肉体そのものが、ここには存在していないのかもしれない。


 誠の意識は、巨大な平原の上に漂っていた。

 空は灰色に濁り、時折赤い稲妻が走る。

 地表は金属と岩と何か有機的なものが融合したような物質で覆われていた。

 それは呼吸をするように、わずかに膨張と収縮を繰り返していた。


 遠くに、山脈が見える。

 いや、それは山ではなかった。

 

 巨大な機械の残骸だった。


 かつては人型だったのだろうか、その輪郭はわずかに人間の形を思わせた。

 しかし、それらは歪み、溶け、他の物質と融合していた。

 まるで時間という概念が溶けてしまったかのようだった。


 地平線の誠方から、規則的な振動が伝わってきた。


 ドン、ドン、ドン。


 大地が揺れた。

 誠の意識も、その振動に共鳴するように揺らめいた。

 振動は次第に強くなり、やがて地平線上に巨大な影が現れた。


 それは「タナトス」だった。

 いや、正確には誠が組み立てていたモデルの実体だった。


 高さは少なくとも五十メートルはあろうか。

 黒く輝く外装に覆われた巨体は、大地を踏みしめるたびに衝撃波を発生させていた。

 その装甲は硬質な金属でありながら、同時に生体組織のように脈動していた。

 表面の幾何学模様は、血管のように赤い光を放ち、リズミカルに明滅していた。


(タナトス……)


 誠の意識が震えた。

 恐怖と畏怖と……そして、奇妙な愛着。

 まるで親が子を見るような、創造主が被造物を見るような感情。

 しかし同時に、被造物が創造主を見るような崇拝の念も感じていた。

 この矛盾した感情は、誠の精神に亀裂を走らせた。


 タナトスの周囲には、より小型の機械生命体が群れをなしていた。

 それらは明らかに統一されたデザインを持たず、金属と肉が歪に融合した姿をしていた。

 あるものは多足の昆虫のようであり、またあるものは翼を持ち、空を舞っていた。

 それらは時折互いに襲いかかり、金属の肉体を引き裂き、その部品を自らの体に同化させていた。


 それは恐ろしい光景だった。

 しかし、誠はそこに奇妙な美しさを感じた。

 混沌の中の秩序。

 無秩序な進化の中の、冷たい論理。

 それは誠の精神の深層に強く共鳴した。


 タナトスがさらに近づいてきた。

 その胸部中央には「造魂核」があった。

 直径五メートルはあろうかという巨大な球体は、内部から赤い光を放ち、脈動していた。

 まるで巨大な心臓のように。


 突然、空から降り注ぐ音が聞こえ始めた。


 それは言語のようでいて、言語ではなかった。

 断片的な単語と、幾何学的なノイズが混在したそれは、誠の脳を直接刺激するように思えた。

 記号であり、音であり、意味そのものでもあるそのノイズは、少しずつ誠の意識に侵食していった。


『造形……計画……タナトス……次元……融合……』


 断片的な単語が、誠の意識に浮かび上がった。

 しかし、その前後の文脈は理解できなかった。

 まるで途方もなく複雑な方程式の一部だけを見せられているような感覚だった。


 タナトスが立ち止まり、ゆっくりとその巨頭を上げた。

 赤く輝く光学センサーが、誠の意識を捉えた。


 見つかった。


 誠は逃げようとした。

 しかし、肉体を持たない意識に、逃げ場はなかった。


 タナトスの胸部の「造魂核」が強く脈動し、赤い光線を放った。

 それは誠の意識を貫き、誠の精神そのものを探るように、内側から誠を照らし出した。


 その瞬間、誠の中に奇妙な感覚が湧き上がった。


 懐かしさ。


 これは、誠がかつて見たことがある光景だった。

 いや、「見た」のではない。

 誠がかつて「知っていた」世界だった。

 それは誠自身の記憶ではなく、しかし確かに誠に属する何かだった。

 それは「タナトス」の記憶であり、同時に誠自身の記憶でもあるような、不思議な二重性を持っていた。


(自分はここにいたことがある……)


 その確信は、誠の精神を揺るがした。

 これは単なる夢ではない。

 これは記憶だ。

 

 しかし、誰の記憶なのか?


 タナトスの光学センサーがさらに強く輝いた。

 巨大な口のように見える部分が開き、その内部から声が発せられた。

 機械的でありながら、どこか有機的な響きを持つ声。


『造形者よ、帰還せよ』

 

 その言葉が誠の意識を貫いた瞬間、世界が崩壊し始めた。

 空が裂け、大地が融解し、タナトスの姿も霧のように溶けていった。


 最後に見えたのは、「造魂核」の内部。

 そこには無数の顔が浮かんでいた。

 苦悶に満ちた、人間の顔。

 その中に、誠は一つの顔を認識した。


 自分自身の顔だ。


 ◇


 誠は悪夢から弾かれたように目を覚ました。


 首筋から背中にかけて冷たい汗が流れ、シャツが肌に張り付いている。

 口の中は乾き、舌は砂を噛んだように感じられた。

 髪はべたつき、額には皺が刻まれていた。

 かつての整然とした外見は日に日に崩れていった。


「何時だ……」


 窓の外は白々と明けていた。

 東京の空には既に朝日が昇り、高層ビル群の窓ガラスに反射して、無数の光の断片を作り出している。

 誠は時計を確認した。

 午前5時37分。

 誠が眠ったのは何時だったのか、もはや記憶にない。


 誠は震える手で髪をかき上げた。

 喉は渇き、空腹感もあるはずなのに、それらの生理的な欲求はどこか遠くに感じられた。

 心を支配しているのは、唯一つ。


「タナトス……」


 その名を呟くだけで、誠の神経は反応した。

 指先が痺れ、脊髄に電流が走る。

 誠は踏みしめるように立ち上がり、作業台に近づいた。


 そこには、誠の創造物――いや、誠が創造しつつあるものが置かれていた。

 黒く輝く外装に覆われた「タナトス」は、作業台の上でまるで生命体のように存在感を放っていた。

 その胸部に設置された「造魂核」は、かすかな赤い輝きを放っている。


 誠は目を細めた。


「何かが……違う」


 誠は自分の目を疑った。

 昨晩、誠が組み上げたはずのタナトスは、明らかに今目の前にあるものとは異なっていた。

 わずかな違い。

 しかし、ミクロン単位の狂いも見逃さない「神の手」の持ち主である誠の目には、それは明白だった。


 右肩の関節部分。

 昨晩は90度の角度で固定したはずだが、今は僅かに前傾している。

 左腕の装甲プレートの重なり。

 パーツとパーツの隙間から覗く内部機構。

 それらすべてが、誠の記憶とは違っていた。


「気のせいか……?」


 誠は自分を疑った。

 誠は完璧主義者だった。

 ミクロン単位の誤差も許さない精密さを誇りとしていた。

 自分の記憶、自分の作業が間違っているはずがない。

 しかし、目の前の現実は誠の記憶と一致しなかった。


 誠は自分の記憶を疑い始めた。

 過労と睡眠不足。

 それが現実認識を歪めているのかもしれない。

 だが、それにしてはあまりにも……。


 誠はタナトスを再び見つめた。

 その姿はより完成に近づいていた。

 誠の記憶よりも、明らかに進んでいた状態。

 

 そして何より奇妙だったのは、その形状の美しさだった。

 それは誠の技術を超えていた。

 より有機的で、より洗練され、より……生きているようだった。


「まさか……自分で進化している?」


 その考えは不条理だった。

 プラモデルが自己進化するなど、科学的にあり得ない。

 しかし、タナトスは明らかに通常のプラモデルとは異なっていた。

 謎の素材、謎の構造、そして「造魂核」の存在。


 疑念が黒い染みのように誠の心に広がった。

 常に論理的、合理的だった誠の精神に、初めて非合理への扉が開かれた。

 タナトスは生きているのか?

 それとも、誠自身の精神が崩壊し始めているのか?


 誠は震える手で「造魂核」に触れた。

 冷たく、しかし内側から温かい。

 その感触はあまりにも生々しく、あまりにも……親密だった。

 触れた瞬間、誠の指先から電流のような感覚が走り、脳内に直接信号が届いたかのように、一つの言葉が浮かんだ。


『完成させよ』


 それは誠自身の思考だったのか、それとも外部からの命令だったのか。

 もはや区別がつかなかった。


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