第2話
金曜の夜、中村誠は「テクノフィリア」社を出た。
誠は、他の社員たちが飲み会へと流れていく中、いつもと同じようにひとり帰路についた。
常に正確に整えられた短髪、無機質な黒縁眼鏡の奥に潜む鋭い瞳、真っすぐに伸びた鼻筋と引き締まった唇。
表情筋はほとんど動かない。
誠はダークグレーのスーツの襟を正し、両腕をわずかに振りながら歩いた。
すべての動作が計算され尽くしている。
誠は交差点に差し掛かり、一瞬立ち止まった。
(右に曲がれば家だが……)
いつもなら迷わず右折する道。
しかし今日は、なぜか左の路地が気になった。
誠自身にも理由はわからない。
この路地に導かれている気がしたのだ。
誠は左に曲がった。
狭い路地は、高層ビル群を抜け、古い商店街へと続いていた。
アスファルトからは雨上がりの湿気が立ち昇り、街灯の光が水たまりに揺らめいている。
不思議な静けさがあった。あるべき場所にないような静けさ。
「ここは……」
地図アプリを確認しようとポケットに手を伸ばしたその時、視界の隅に何かが映った。
古びた木の看板。
朱色に塗られた『造形堂』という文字が、街灯の光に照らされてかすかに輝いている。
看板の下の窓には「閉店セール 最終日」と書かれた紙が貼られていた。
インクのにじんだ不規則な文字。
ショーウィンドウには埃がうっすらと積もり、奥は暗く、何が置かれているのかはっきりとは見えない。
通常なら、誠はこのような店には足を踏み入れない。
誠の世界では、すべてが整然としていなければならない。
角度、距離、配置。
すべてが正確でなければ気が済まない男だ。
しかし今夜は違った。
誠の足は、まるで磁石に引き寄せられるように、その店へと向かっていた。
◇
ドアを開けると、古い鈴の音が静寂を破った。
店内に入ると、まず匂いが誠を包んだ。
埃と古い紙の匂い。
長い間、日光に当たらなかった木材の匂い。
そして、それらの下に潜む、微かに甘い樹脂の香り。
それは誠の記憶の奥底を刺激した。
「この匂いは……」
誠の鼻孔が開き、その香りを深く吸い込んだ。
子供の頃、父親と一緒にプラモデルを作っていた日々の記憶。
指先に残るプラスチックの感触。
接着剤の匂い。
正確に組み上げていく満足感。
店内は予想以上に広かった。
壁際には床から天井まで届く棚が並び、そこには無数の箱が積まれていた。
色褪せた赤、青、緑、黄色のパッケージ。
埃をかぶりながらも、どこか期待に満ちたように並んでいる。
誠はゆっくりと棚に近づいた。
その指先は、無意識のうちにかすかに震えていた。
「神の手」と呼ばれる精密なその指が、興奮を抑えられないかのように。
子供の頃に熱中したロボットの模型。戦車。航空機。
そのどれもが、時間の流れから取り残されたように、この棚に眠っていた。
「バラクーダMk.II……」
誠は思わず声に出した。
製造中止になったはずの、伝説的な模型キットだ。
箱の端はわずかに破れ、ビニールの包装が時間の経過と共に収縮し、黄ばんでいた。
誠の心に微かな動揺が走った。
論理的思考を至上とする誠の中で、何かが揺らいだ。
子供の頃の純粋な情熱。
完璧な造形への飢え。
それは、誠の精密機器エンジニアとしての現在の姿の原点だった。
長く白い指が、箱に触れようとした。
その時だった。
店の奥、薄暗い棚の影から、かすかな音が聞こえた。
最初は単なる建物の軋みかと思った。
しかし、その音は次第に規則的になり、何かが動く摩擦音へと変わっていった。
誠は息を止めた。
薄暗い棚の上段から、一つの箱がゆっくりと動き始めた。
まるで生き物のように、あるいは意志を持ったかのように、それは少しずつ前に滑り出してきた。
(これは、気のせいだ……)
誠は目を閉じ、開いた。
しかし、箱は確かに動いていた。
それは棚の端まで来ると、一瞬宙に浮いたように見え、そして落下した。
しかし、床に激突する音はしなかった。
それはまるで着地するかのように、静かに床に降り立ち、そして、誠の足元へとゆっくりと滑ってきた。
誠の額に冷や汗が浮かんだ。
誠の精密な頭脳は、この現象を論理的に説明できなかった。
傾斜? いや、床は水平だ。
足元に止まった箱は、通常のプラモデルの箱よりも一回り小さく、色はなく、ただ金色の幾何学模様だけが表面を覆っていた。
それは誠が今まで見たことのないデザインだった。
誠はゆっくりとかがみ、その箱を手に取った。
触れた瞬間、指先に奇妙な感覚が走った。
箱は冷たかったが、同時に、その冷たさの内側から微かな温もりが伝わってくるようだった。
そして、それは確かに、誠の手の中で、かすかに脈打っていた。
◇
誠の指先から伝わってくる箱の鼓動は、幻ではなかった。
冷たい表面の下に潜む微かな震えは、誠の感覚が捉えられないほど小さなものではなかった。
誠はミクロン単位の狂いも見逃さない「神の手」の持ち主。
その指先が感じ取った脈動は、確かに実在するものだった。
「おや、お客さんかい」
突然の声に、誠は素早く顔を上げた。
カウンターの奥から一人の老人が現れた。
誠は無意識のうちに箱を胸に抱き寄せた。
店主らしき老人は、七十代半ばに見えた。
痩せこけた体に、サイズの合わない古い紺色の作業着を着込んでいる。
かつては真っ直ぐだったろう背中は今や前かがみになり、ひどく皺の刻まれた顔は、まるで何十年もの風雨に晒された古木のようだった。
しかし、その顔の中心に輝く一対の目は、驚くほど鋭く澄んでいた。
黒曜石のような瞳には、若者にも負けない光が宿っていた。
「ワシは千葉と言う。この小さな店の主人だ」
老人――千葉は、ゆっくりとカウンターから出てきた。
その歩み方には奇妙な特徴があった。足を引きずるでもなく、よろめくでもないのに、何かが決定的に「違う」のだ。
まるで重力や空間の法則が、老人の周囲だけわずかに異なるかのように。
「こんな時間に珍しいお客さんだ。今の時代、もうこういう古い模型なんて見向きもしないからね」
「いえ、私は……」
誠は言葉に詰まった。
なぜ自分がここにいるのか、合理的な説明ができなかった。
千葉の目が、誠の腕の中の箱に移った。
その瞳孔がわずかに拡がり、微かな緊張が老人の体を走った。
次の瞬間、その表情は意味深な満足の色に変わった。
「そいつを手に取ったか」
千葉の声が低くなり、店内の空気がわずかに変化した。
蛍光灯の光が揺らぎ、棚の上の影がより濃くなったように思えた。
「この箱は……動いていました。棚から……自分で」
誠は普段、非合理的な発言をすることを極端に嫌う男だった。
しかし、無意識に先ほどの奇妙な現象のことを言っていた。
「そいつは、長いこと待っていたんだよ。あんたのような人をな」
千葉の言葉に、誠の背筋に冷たいものが走った。
「どういう意味ですか?」
老人は答えずに、誠の方へゆっくりと歩み寄った。
その目は値踏みするように誠の全身を見渡し、特に誠の手――「神の手」と呼ばれる繊細な指に注目した。
「あんた、完璧主義者かい?」
千葉が突然尋ねた。
誠は驚いた。
「どうして……」
「手を見れば分かる。その指先は、ミクロン単位の違いも見逃さないだろう。創り上げることへの執着が骨の髄まで染み込んでいる」
老人の洞察力に、誠は言葉を失った。
自分の内面をこれほど正確に言い当てられたことはなかった。
「それで、これはいくらですか?」
誠は話題を変えるように尋ねた。
誠は理由もなく、この箱を手放したくないという強い衝動を感じていた。
千葉は箱をじっと見つめた。
その目には、奇妙な感情が浮かんでいた。
評価と同情が入り混じったような、複雑な色だった。
「あんたには、三千円でいい」
あまりにも安い。
誠は戸惑った。
この箱の存在感、重量感、そして精巧な金色の幾何学模様からして、これは決して安価なものではないはずだった。
「本当にそれでいいんですか? これは希少なモデルのように見えますが……」
「価値というものは、持ち主によって変わるものさ。あんたの手に渡れば、それは本来の価値を発揮する。だから、三千円で十分だ」
誠は財布から紙幣を取り出した。
誠の論理的な思考は、この状況の不自然さに警鐘を鳴らしていた。
しかし、箱から伝わる微かな鼓動は、その警告を簡単に打ち消してしまった。
千葉は紙幣を受け取ると、レジに入れることなく、作業着のポケットに滑り込ませた。
そして老人は、誠の耳元に身を寄せた。
老人からは、古い木と何か薬草のような独特の匂いが漂っていた。
「完璧に仕上げたいだろう。だが、覚えておくといい。完璧さには代償がある。特にそのキットはな」
誠は混乱した。
「どういう意味ですか?」
千葉は答えず、代わりに箱の表面にある金色の模様を指でなぞった。
「このキットは特別なものだ。説明書をよく読むといい。特に、小さな文字で書かれた注意事項をな」
誠は箱を見つめた。
表面に説明書への言及や注意事項は見当たらなかった。
誠が顔を上げると、千葉はすでにカウンターの方へ戻りかけていた。
「一つだけ教えてください。この箱には何が入っているんですか?」
千葉は振り返り、不思議な笑みを浮かべた。
「開けてみれば分かる」
店を出ようとした時、千葉の声が再び聞こえた。
「せいぜい、楽しむことだ。完成させられるといいな」
その言葉には、奇妙な重みがあった。
まるで、それが単なる励ましでなく、何か別の意味を持つかのように。
「完成させます、必ず」
誠は自信を持って言った。
完璧な仕上がりへの執着は、誠の生き方そのものだった。
外に出ると、空気が一気に変わった。
店内の静寂と時間の淀みが嘘のように、街の喧騒が誠を包み込んだ。
しかし、誠の腕の中の箱は、依然としてずしりと重く、その重さは物理的な質量だけでは説明できないものだった。
そして、誠の手の中で、箱は確かに微かに脈打っていた。
それは生命の鼓動のようであり、同時に機械的な律動のようでもあった。
家に帰る途中、誠は一度だけ振り返った。
しかし、造形堂のあったはずの場所には、古い壁があるだけで、店の入口を示すものは何もなかった。
誠は混乱した。確かにそこにあったはずの店が消えている。
しかし、腕の中の箱は、誠の体験が幻ではなかったことを証明していた。
「意味がわからない」
誠はつぶやいた。
誠の精密な頭脳は、この非合理的な出来事を処理できずにいた。
しかし、手の中の箱の存在は否定できない。
そして、その鼓動は次第に誠自身の心拍と同期していくようだった。