第1話
蛍光灯の無機質な光が冷たく照らす部屋の中で、中村誠の指先だけが生きているようだった。
中村誠、三十七歳――。
痩せた体格に常に同じダークグレーのスーツを着込み、黒縁の眼鏡の奥に鋭い目を持つ男。
鼻筋は通っているが、頬は少し窪み、常に無表情に近い顔つきをしていた。
髪は短く整えられ、一本の乱れもない。
そして何より特徴的なのは、その手だった。
長く白い指。
爪は完璧に短く切り揃えられ、一切の余分な部分が存在しない。
その指先が今、精密機器メーカー「テクノフィリア」の開発部門で、ミクロン単位の微細構造設計に没頭していた。
神の手――。
社内でそう呼ばれるのを誠は知っていた。
褒め言葉だとわかっていても、その言葉が心地よいとは思えなかった。
神などいない。あるのは精度だけだ。
誠の周りでは、他の社員たちがとうに帰宅した後だった。
オフィスはすっかり暗く、誠のデスクを照らすモニターの青白い光だけが、闇の中で浮かび上がっている。
時計は午後十一時を指していた。
「0.002ミリ...」
誠は呟き、視線をモニターから離さずに椅子に深く沈み込んだ。
表示された三次元モデルの一部分、ほとんど肉眼では確認できないほどの微小な箇所にズームインしている。
レンズアッセンブリーの接合部。
その設計に微細な修正を加えながら、誠は自分の呼吸まで制御していた。
深呼吸。息を止める。マウスを0.01ミリ動かす。微調整。息を吐く。
心臓の鼓動すら、この作業の邪魔になる。
キーボードのカタカタという音だけが静寂を破る。
その音は誠にとって、心地よいリズムを刻んでいた。
精密さという音楽。
完璧さの鼓動。
「おや、神の手が残業か?」
突然の声に、誠の手が僅かに震えた。
モニター上の設計がわずかにずれる。
0.0015ミリの誤差。
取り返しのつかない失態だ。
怒りが脊髄を駆け上がった。
振り向かずに声の主を認識する。
中林、営業部長。
いつも大声で笑い、人の肩を無遠慮に叩く男。
精密さとは無縁の存在。
「細かい調整が必要なんです」
誠は声を平坦に保ち、振り向かずに答えた。
指先に力を込め、ずれた設計を元に戻す。
ミクロン単位の戦いが始まる。
もう一度。深呼吸。息を止める。微調整。息を吐く。
中林が近づいてくる。
床を踏む音。
革靴のきしみ。
体臭と安っぽい香水の混ざった匂い。
それらすべてが誠の集中力を削り取っていく。
「明日の朝までに終わらせる必要が……」
中林の大きな手が、誠の肩に降りかかった瞬間、視界に赤い霧がかかった。
怒りの衝動が体を貫く。
喉が締め付けられる感覚。
今、この男の首を絞めたら、どれだけの圧力が必要か、計算式が自然と頭に浮かぶ。
しかし、誠の顔は何も表さない。
感情は精密さの敵だ。
誠はゆっくりと呼吸を整え、モニターに集中する。
「わかったよ。でも体壊すなよ。お前は会社の宝だからな」
中林は肩を叩き、遠ざかっていった。
その足音が完全に聞こえなくなるまで、誠は動かなかった。
再び静寂。
三時間後、誠は仕事を終えた。
すべての数値が完璧だった。
ミクロン単位の誤差、存在しない。
誠はゆっくりと立ち上がり、カバンを手に取った。
頭がズキズキと痛む。
過度の集中による緊張の副作用だ。
夜の東京は、誠にとって別世界のようだった。
輝く看板、往来する人々、雑多な音、入り交じる匂い。
すべてがコントロールを欠いている。
混沌だ。
誠はそこから逃れるように、無表情のまま地下鉄に乗り込んだ。
◇
マンションに帰宅し、扉を開ける。
鍵を差し込む角度、回す力加減、すべて計算され尽くしている。
部屋の中は極限までミニマルに整えられていた。
余分な家具は一切なく、すべてが機能的に配置されている。
白い壁。黒い家具。
グレーのカーペット。
色の対比も計算され尽くしている。
「ただいま」
無人の部屋に呟く習慣は、元妻・佳代子との生活の名残だった。
五年前、彼女は出ていった。
『あなたと話していると、自分が壊れそうで怖い』と言い残して。
その言葉の意味を、誠は今でも理解できなかった。
誠の世界に欠陥はない。
すべては精密に計算され、制御されている。
リビングの壁には、たった一つの装飾がある。
額に入った写真。
結婚式の日の佳代子。
白いドレスを着て笑っている。
しかし誠の目は、いつもその笑顔の非対称性、ドレスのレースの不規則なパターン、背景の人物の配置の乱雑さに引っかかる。
完璧ではないイメージ。
しかし、誠の心の奥底では、その不完全さを「修正」したいという衝動と戦っていた。
写真に手を加え、佳代子の笑顔をより対称に、ドレスのパターンをより規則的に、背景をより整列させたいという欲望。
誠は視線を写真から引き離し、部屋の隅に設置された作業台に向かった。
そこには、父の遺品である未完成のプラモデル「ネオ・メタル・ファイター」が置かれている。
亡き父は、このモデルを完成させることなく事故で世を去った。
誠が大学生だった頃。
父親の工房で見つけたそのプラモデル。
膝の上に乗せた箱。
開けた瞬間の、プラスチックと接着剤の混ざった匂い。
そして「これを完成させてくれ」という父の言葉。
約束を果たす前に、父は工場事故で命を落とした。
誠はゆっくりと箱を開け、中の部品に触れた。
微細な造形の質感が指先に伝わる。
このプラモデルは、誠の人生の転機となった。
精密な工作の世界に没頭する原点。
しかし同時に、誠の精神の歪みの始まりでもあった。
誠は最後の一つのパーツ、中央の「コアユニット」と呼ばれる部分を手に取った。
あと少しで完成する。
しかし、誠は何年もそれを先延ばしにしてきた。
完璧に仕上げるための技術がまだ足りないと感じていたからだ。
「もう少しだ……」
誠は呟き、パーツを元に戻した。
冷蔵庫に向かい、水を一杯飲む。
喉の乾きが癒されていく感覚。
誠の精神は、水のように透明でありたいと願った。
ベッドに横たわる。
天井に向けて開かれた目。
睡眠は誠にとって、ただの生理的必要性に過ぎない。
眠りに落ちる前、誠の脳裏には無数の数字、図面、設計構造が浮かんでは消えた。
そして最後に、誠が完成させようとしていたレンズの完璧な接合面のイメージが、まるで誠を永遠に見つめる眼のように、意識の淵で開いたまま残ったのだった。