恋を知らない私が地味だけど地味じゃない娘に恋をしました。─瞳と恋感情─
島田優花は、恋愛が分からない。
告白されたことはある、ものは試しと付き合ってはみたものの、しかしすぐに破局した。
「興味が無いのなら、最初から断ってほしかった」
一瞬でも恋人となったその人は、こう吐き捨てた。
──興味はあった、別に嫌いでもなかったしどちらか言えば好きだった。だが"恋愛"というのは、もっと特別なものなのか?
しばらくして、島田優花は考えるのをやめた。"自分には無縁だ"と悟ったからだ。そしていつしか、人間が抱く感情のうねりを疎んでいたのだ。
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大学生である優花は日々をそれなりに過ごしていた。人嫌いだからこそ付き合いのトラブルも上手く避けられている。
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今日の講義を終え、優花は早足でロッカーに向かう。優花は帰宅後、とあるサービスから退会する予定があった。ああいったものは大抵の場合工程が煩雑であり、なおかつ今日中に終わらせたいのである。可能であれば帰宅を急ぎたいところだ。
優花はロッカーの扉を少し乱暴に閉め、校舎の出口へ向かおうとする。
その瞬間──
───ぶつかる音─
柱の陰、走ってきた女性と思いきり衝突してしまった。
「ぎゃっ!!」
濁った発声とともに、彼女はぐらついて後ろに倒れそうになる。両手が塞がっていて受け身が取れる様子もない、万が一頭を床にぶつけては事だ。
優花は彼女の背後へ回り込み、なんとか受け止めた。
「……あっぶな…。大丈夫ですか、すみません避けれなく…て……、──え、嘘」
彼女からは返事はなかった、気を失っているらしい。床に頭は打たなかったし、外傷も特になさそうで……、つまりは原因不明だったのだ。
「……やばいやつかなこれ。──てか、何とかすんの私か……。仕方ない、さようなら来月のサブスク代っ」
優花は彼女が床に転がした荷物を拾い集め、その後、彼女自身を背負ってやる。
これが、2人にとって決定的な変化のきっかけとなった。
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それから数日経って、優花は彼女と再会することとなる。
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とある日、夕方。優花はいつもの様にロッカーへ荷物をしまいに来た。
──「あ、あああ、あのぉッ!!」
背後から呼び止められる声がした。……音量調整を明らかにミスっている、おそらく相当に口下手なのだろう。優花の交友関係にそういった人間は居らず、自分に向けた声ではないと判断して振り返らなかった。
「ぁ……うぁ…ぅ、えっ…っと……。ゅ、ゆぅ、あ、ぁしっ、島田っ優…花ッさん、ですよねっ!?」
(……私を呼んでたのか…)
優花は振り返って声の主を見る。長い前髪、小さな体に、震える手足……。
「……失礼、どちら様ですか」
「えっ、あ…ごっ、ごめっ……ぁ、や、す、すみませんっ……。ぇ、えぇ…と、私えっと……ちょっと前…いやえと、数日…前……に、ぁ、あの……。うぅ……」
(どんどん声が小さくなっていく…さっきの大声どうしたんだ……?)
優花は心のなかで溜息を吐き、彼女の言葉を遮る。
「あの、お話中済みません」
「は、はいッ!!」
(うっ、返事はでかいのか……)
「失礼ながら、今は都合によりお話が出来ない状況です。連絡先をお渡しするので、また改めてご連絡いただけますか?」
優花は乱雑に描いたメモを押し付け、足早にその場を去った。つまり「用件をまとめてから話せ」だ。
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そして、その夜。
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23時頃のこと、優花が自宅で寝ようとした時。
───通知音─
携帯へ1件、メッセージが届いた。
「ん…?」
差出人は、陽川 輝星。
(…誰だこの人……なんて読むのこれ)
欠伸しながら内容を確認すると、それが夕方の彼女だと分かった。
『島田優花様、芸術学部の陽川 輝星 (ひかわ すたあ)と申します。夕方は言葉を出せず、無為な時間を取らせてしまったこと、その無礼を深くお詫び申し上げます。もう覚えて頂けていないとは存じますが、数日前、06/07の夕方、私は意識不明のところを島田優花様に助けて頂きました。つきましては深い感謝とともにお詫びとして』
……文章は此所で途切れている。
「……ん?」
疑問に思っていると、すぐに追加のメッセージが届いた。
『誠に申し訳ありません、誤って送信してしまいました。忘れてください』
『いえ違います』
『文章の途中で送信しただけです感謝の気持はありますごめんなさい』
『後で改めて送ります』
『本当にすみません』
追加のメッセージは連続して送られ、混乱が見て取れる。
(ふぅ…不器用だな……。仕方ない、少し待ってみるか)
優花は一息ついて携帯を置き、時間を潰し始めた。
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それから、およそ2時間後。
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───通知音─
もう深夜真っ只中であるが、通知音は響いた。
「……やっとか」
優花は眠い目をこすりながら届いたメッセージを確認する。
相も変わらず長文で、内容といえば"助けてくれてありがとう、お礼がしたいから直接話したい"とのことだ。
「──別にさっきと内容一緒…! これを2時間考えてたの? どんな感情だったらこうなるんだ…!?」
優花は一通り呆れた後、沈むように眠った。
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翌日、2人は示し合わせた通りに対面する。
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夕刻、ラウンジにて。講義終わりに2人は集まった。
「……えっ…ええっ…と……。来てくださってありがとうございます……」
輝星はしぼむように座り、ぼそぼそと話す。
(…気まずい……)
「こちらこそご丁寧にどうも…陽川さん。そうだ、あの時何があったか伺っても?」
「えっ、あぁっ…えと……それは…わたっ、私が悪いんです……転んだショックで…えと、気を……失っ…ただけで…本当にすみません……」
「あぁ…」
輝星の姿をよく見ると、確かに強い体には見えない。小さなそれは、吹けば飛びそうだ。
…しかし彼女の様子からして、嘘をついているだろう。だが親しくもなし、優花は問い詰めずに流した。
「だ、ぁ、…だからっ! ……えとあの、助けてくれてありがとうございましたッ!! …ぁ、あの時助けて…頂けなかったら、あー…今以上に醜態を晒していたと言いますか…えっと……」
一瞬、沈黙。
「ああッ!! お、お礼ッ!」
それを切り裂くように、輝星は再び大音声を繰り出す。己の作り出した沈黙を突き破る轟声、彼女は騒音の天才と言えよう。
「す…すみません! お、お礼…ですよね! ちょ、ちょっと待っ…えと、お、お待ちいただけますか……」
彼女は鞄の中を探り、小綺麗な紙袋を取り出す。
「で、では…! ほんの、気持ちですけど…ッ!! え、えと、ど、どうぞッ!!」
優花はそれを受け取り、中身を確認する。
入っていたのは駅前にあるスイーツ店の綺麗なギフトセットだった。
「……あっ、そ、その……っ、大好きなんです! あのお店!! っ……で、ですので……えっと…! ぉお受け取りくださいッ!」
輝星は顔を伏せてそのまま、体を強張らせている。
「ありがとうございます、陽川さん」
(失礼を承知に正直言って、…意外だ。駅前のスイーツ店なら知っている、あそこはどうも"きらきら"している所なのだ。彼女が通うには相当な勇気が──いや、待てよ……?)
優花は、俯いている輝星の姿を改めて見る。
彼女は確かに目立たない格好だ、前髪は目を覆い隠しているし、服の色合いも地味なもの。しかしよく見てみれば、髪はしっかり手入れされていて、肌も同じく。化粧も、それは爪の先にまでしっかりと及んでおり手が込んでいる。特に髪の隙間から見える目元は、まるで煌めいているようだ。服装も地味なのは色合いくらいで、着こなしは流行をベースにしつつ、確かに自分の色を散りばめていた。
(この人は卑屈で暗く、確かに口下手だ。けれどこのファッションは…私みたいに社会に溶け込むためじゃなく、頑なで心の通った信念と嗜好でやっているものに見える。それに──)
ふと、輝星の前髪が揺れ、その瞳が露わになる。
(──ッ)
一瞬だったが、輝星の瞳は妖しく揺らめいていた。まるで、昏い宇宙が漂っているかのように。
(……すごく、きれいな瞳だ)
そして優花の中に、彼女への"興味"が生まれた。
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後日、優花は輝星ともう一度話すため、少し自分のスケジュールを調整した。
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昼時、優花は学食で輝星を探し、そして見つける。
(居た、…丁度いい、彼女も席につくところだな)
優花は少し早足で輝星の近くにより、そして彼女が座るとほぼ同時に話しかける。
「こんにちは、陽川さん。向かい失礼しますね」
「ぅえ゛えッ!? ゎ、わたっ…!? ──ぇと、ぁ、ど、どどどどど、どうぞッ!!」
彼女は相変わらず声が大きい。学食の喧騒もあり人目は集めなかったが、やはり驚くべき声量だった。
「──って、あ……ぁ、ぇ、あ…し、っ、島田……さん…?」
「はい、島田です、島田優花。覚えていてくださったんですね、ありがとうございます」
「ひえっ…うぁ、ど、どういたしま──あっいや、えと、ぁあ、た、助けて頂い…たので、だから…、は、はい……」
輝星は俯いて、黙々と昼食を食べ始めた。優花はここぞと、再び彼女を観察する。
(……前のファッションとは全然違う…方向性は大体一緒だけど、同じアイテムが一つもない。全体的なテーマも…少しシックに寄せているかな。何にせよ統一感があって手が込んでる)
優花は会話の切り口を探し、それを発する。
「……その指輪、素敵ですね」
「…え……」
輝星は驚いて辺りを見回す。「まさか自分に向けた言葉ではないだろう」と言いたげに。
「ああごめんなさい。陽川さん、あなたに言ってます」
「へっ…? あ、や…わ、わた、わっ…!?」
「はい。素敵な指輪ですね」
「えっ! ──あっ……えと、ぅ……あ、りがとう…ございま…す……」
「それ、どこのブランドかお聞きしても?」
「ぅあ…!? あぅ……それ…は……、ええと、その…わた──いや、その…あぁ……」
輝星は声をしぼませて沈黙を作る。
(…彼女、何かを言いかけた。……隠し事と言うより、表現に困っただけかな?)
優花は助け舟を出そうと口を開く、…が、その時。
「……ぇ…と」
微かに、輝星が息を吐いた。彼女は何とか言葉を見つけたらしい、優花は思いとどまり、開きかけた口をつぐんだ。
「これ、…は、その……わ、ぁ、私…が……、…あの…うぅ……」
輝星は迷ったように口ごもる。優花は真剣に、しかし圧をかけないようにそれを見守る。
「…と……こ、これ…は……っ、つ、作ったん…です。わ、私…が」
「──えっ!?」
「ひっ…!! ぁ、ご、ごめんなさいッ!! ち、違うんです、なんでもないですッ!!」
輝星は音を立てて立ち上がり、すごい速度で別の場所へ移動した。
「あっ、ちょ、陽川さん!? 待って──あぁ、しまったなぁ…」
(「違う」と言ったって、嘘を付く訳が無い。……あんなレベルの指輪を"作った"のなら、まるでプロの業だ。…面白いな、陽川 輝星……)
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それから数日、優花は興味のままに輝星へ絡んでいった。しかし関係の進展は見られず、輝星は話しかけられれば逃げ、その繰り返しだ。
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「──ご、ごめんなさい! じ、時間…が、あるのでッ!!」
「えっ、待ってください陽川さんこのあと講義ないでしょ──…また逃げられた……」
優花はその辺の椅子に座り、溜息をつく。
──「あんなグイグイ行っちゃそりゃそうよ」
そんな優花の隣へ、誰かが座った。
「葉澄さん…」
「そう葉澄さん、最近あなたに放ったらかされてるあなたの友人。──ま それは良いけどね、…どしたの最近、"あの人"にご執心じゃない」
「あれ…傍から見たらそう見えます?」
「まあね、他人に興味なさげな優花さんが他人口説いてんだもの」
「口説くって…」
「何があったの、優花さんが一目置く理由があるんでしょ?」
「あの人天才なんですよ」
「はい…?」
「身に付けてるアクセサリー見ましたか? あと…服、化粧。あれは──」
「……あれは?」
「──…あ、しまった。失礼、詳細はやっぱり言えません。そういえばあの人公言してなかった」
「ちょ、そんなあ! …もー、真面目だなあ」
「ともかく、私は興味があるんです。才能があって、それを自分自身で示してさえいるのに、それでも目立たないよう殻に閉じこもっている……不思議だと思いませんか」
「……んー? 不思議…かなあ」
「えっ?」
友人の葉澄はすぐに、優花が抱いた疑問に答えを出してしまう。
「"一人で楽しんでる"んでしょ多分、誰かに見せたいとかそういうんじゃなく、ただ"そうしていたい"だけとか。感情としてはありふれてるんじゃない?」
「な、なるほど、一人で…。一人で……か」
「優花さんは違うと思う?」
「いえ すごく納得できました、そういう人も多いでしょうし。ただそうなると……」
(一人で楽しんでいる趣味であれば、干渉されるのは嫌だろうな…。親しくもない私に粘着されるのは最悪か……仕方ない)
「──これ以上彼女に関わるのは…迷惑でしょうね。気にはなりますが、こればかりはどうしようもない……。…葉澄さん、講義終わったらご飯でもどうです? 相談乗ってくれたんで奢りますよ」
「えっまじ? じゃあお言葉に甘えちゃおうかな。お酒入れて良い?」
「良いですけど、送る羽目になったら貸しですよ」
「よっしゃー、貸しなら返せば良いよね」
「えぇ……」
優花は輝星への興味を奥底にしまい込み、日常を再開した。
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それから、また数日が経つ。
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休日の昼、最寄りの書店。優花は暇が出来ると此所に寄る。
優花の目当ては恋愛小説だ。人間が抱くそういった不合理な感情を嫌っているからこそ他人の書いた物語は良い刺激となったし、人間のことを知る勉強の一つでもある。それは人間として、まだ人間を好きでありたいという願いもあるのだろうか。
(……見つけた、叶太先生の新作)
探していた本は見付かった。優花はそれを持ってレジへと向かうが──
視線の端で、見知った姿が目に付いた。
(──陽川輝星…?、こんなところで会うとは)
優花は思わず彼女に近付こうとするが、数歩進んだところで思いとどまった。
(いいや駄目だ、関わらないって決めただろ。危ない危ない)
優花は踵を返して立ち去ろうとするが、視界の端で輝星が動く。
彼女は踏み台に乗って、棚の上へ手を伸ばしている。…しかし踏み台があってなお、届きそうにない。……店員を呼ぶ様子もない。
暫くすると、輝星は諦めてその場を──
「──待った、陽川さん」
「ぎゃえぁっ!!?」
声をかけた優花は反応を聞いて一瞬後悔したが、何とか用件を続ける。
「どれですか、今取ろうとした本。私が取ります」
「へっ……ぇ、あ…ぅ……」
輝星は混乱した様子で口ごもる。時間にしておよそ10秒、短いようでかなり長い。
(でもここは…待ちだ。人には個別のコミュニケーションが必要だってどこかで見た、そして経験上、今の陽川輝星は言葉を探しているだけ……それに合わせよう)
「…ぇ…と……い、一番上、の……」
優花は聞いて、そこに手を伸ばす。
「ひ……左にある…ぁ、赤い帯……で、分厚い……」
「これですね、どうぞ」
優花は本を取り、輝星に差し出した。彼女は震える手で、それを受け取る。
「あ、ぁ……ありがとう…ございます……」
「私が居合わせて幸運だった。それじゃ」
「えっ、あっ…あの、お礼……」
「いいですよそんな、大したことしてません」
「で、でもっ! ぁ、た、助けて頂いたので…何、か……!」
輝星は律儀に引き止めるが、実際それは口下手の発露だろうか。
(ふむ…、興味はしまい込んだつもりだったけど……。こうして餌がぶら下げられるとどうにも──)
「じゃあ、一緒にご飯でもどうです?」
「へ……?」
「もちろん、無理にとは言いません。ただ…お礼をしたいのであれば、お願いします。陽川さんとは結局、ろくに話も出来ていなかったし」
「え…ぁ……そ、それは、でも…。ぅ、わ、わ私なんかと過ごしたって…なにも……ないですよ…」
「もし仮に万が一そうだとしても、"何も得られない"という知識が得られます。だから、私にとって"最初の一回"はどう足掻いても得なんですよ。私はあなたという人間を知りたい……駄目ですか?」
「う…ぁ……その……えぇ…と……うぅ……」
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結果、輝星は折れた。優花はチャンスをものにしたと言えるだろう。
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洒落たカフェの中、2人は向き合って座る。輝星はあまりに落ち着かない様子だが。
(……さてどうやって攻めるか)
「──あの書店にはよく行くんですか?」
「へっ…? ぁ……は、はい…、その…ぁ……家が…ち、近いので……あ、あと! 品揃えも……良いし……」
「ああ、一緒だ。私もそう思います。私は恋愛小説を買ったんですが…陽川さんはどんな本を?」
「え…、あぁ……わ、私は……えと…っ、裁縫に…関する本、を……」
「裁縫…、へえ、どんなものを作るんですか?」
「あっ、ぅ…わ……ぇ。…その……こっ、小物とか、ふ、服とか…を……」
「服まで? …もしかして、コスプレとか好きですか?」
「えっ、ぁ、いえっ、…そ、それは、あまり……。その…ぇと……」
(ふむ…じゃあやっぱり──)
「──それなら、今着てるのが…もしかして?」
優花は確信を持って問うた。優花はこれまで輝星が着ている服を幾度となく調べていたのだが、類似品こそあれ同じ服は見付からなかった。であれば前からの疑問と合わせて結論は一つだ。
「えっ!? あっ……ぇと、ぁ……ぅ……」
輝星はわかりやすく狼狽え、口ごもる。返答ならば「はい」か「いいえ」で済むだろうに。しかしそれでも、輝星の頭は葛藤で満たされるのだろう。
(…この間は正直言ってキツい、単純に"待たされている"訳だし。これは人間が抱く、普遍的な不快なんだろうか……)
優花は持て余し、改めて輝星の顔を見る。そして再び、あの瞳が目に入った。
まるで宇宙が閉じ込められたような昏い瞳。それは言葉を探して泳いでいた。彼女自身の焦りから不規則に揺れ、少しずつ見え方も変わる。
(──やっぱり綺麗だ、この瞳。……そうか、これを眺めていられるなら、待つのも苦じゃないかもな)
輝星は煮えきらない態度で、沈黙を作っている。そして優花は、彼女の瞳を眺めてただ待っていた。それは傍から見れば、時が止まったように異質な光景だった。
「…っ……」
暫くして輝星が息を吐く。それは言葉を発する前兆でもあった。
「…そ、…そう…です……。ゎ、わたし…が…はい……」
輝星は俯いたまま、消え入りそうな声でそう告げた。まるで怯えるように、体を震わせて。
(自分の服を全て自分で作っている…か。ほんと、態度と行動が一致してないんだよな。言ってること規格外だと思うんだけど、何に怯えてるのか……)
「凄い…、どこで活動してらっしゃるんです?」
優花はもう一つ質問した。かまをかけたのだ。進んだ前提を基に質問することで、いくらか情報を引き出しやすいこともある。
「──えっ…あぁ、い、いえっ…活動なんてそんな……な、何も……はい……自己満足…で、やってる…だけ……で……」
「自己満足…? それでそこまでの服を作っているなんて凄いじゃないですか誰にでもできることはありません」
「いっ、いえ…ッ! ぇと、ぁ…も、もっと凄い人……も、居ます…から……。私、なんて…そんな……」
「だからって、陽川さんの技術が霞むわけじゃないです」
「ぇう……あ…でも、わたし…は……」
輝星は俯いて、小さく震える。
「もう少し胸を張っても良いと思いますよ、陽川さん」
「…胸を……張る……?」
「はい。その技術は"立派"な──」
───椅子を鳴らす音─
その瞬間。輝星の身体がびくりと跳ねた。
「──ぇ……あ…ッ…ぅ……」
輝星の呼吸が荒くなり、まるで窒息しているような声を漏らす。それは、強い恐怖の表れだった。
「…陽川さん?」
「──ッ、ごめんなさいッ!!」
輝星は音を立てて立ち上がり、叫んだ。
「…ッ、し、島田さんは悪く…ないんですッ…! 悪いのは、私…で……。…うぅ……ッ」
輝星は震える脚を掴み、口元を手で覆った。何かを、思い出したように。
「か、…会計は、済ませておきます。そ…それで……も、もう私には近付かない方が良い…です。…これ以上は、迷惑をかける…だけ、ですからッ……!!」
「待って、陽川さん! 私、迷惑だなんて──」
輝星はそのまま、走り去った。
(…違う、かけるべきはこんな言葉じゃない! 陽川輝星の感情に何があった…? 私は…どうすれば良かったんだ?)
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謎を残したまま、陽川輝星は去った。
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「──情報が足りない……」
日は巡り、昼時、大学のラウンジにて。優花はうなだれて呟いた。
──「よっすー、優花さん。探偵でも始めた?」
そして、友人の葉澄がその隣へ座る。
「…違います」
「だよね。──またあの人のこと? ごめん名前忘れちゃったけど…」
「陽川さんです、陽川輝星。また話す機会があったんですが、…どうも地雷を踏んでしまったみたいで。彼女について知る方法を考えてるんです」
「ふーん…──あれ、もうあの人とは関わらないんじゃなかったの?」
「チャンスがあったんです、…だから我慢できなくて」
「…なにそれ。──あの人さぁ、優花さんがあんなに気にするから私もたまに目で追っちゃうけど、なーんか卑屈過ぎるっていうか…話すと疲れるタイプじゃん」
「…そうですね」
「もうやめときなよ…、お互いに時間の無駄だと思うけど? ──あぁいやごめん、言い方ミスった。えーとその…ほら、コミュニティってそういうもんじゃん? 向き不向き、合う合わないがある。無理に付き合うこと無いって」
「……そうですね」
優花にとって、その提案は必要なかった。
「…優花さん……。──全く、ほんと珍しいよそんな姿。もうちょっと冷静な人だと思ってたけど」
「ええ、自分でも驚いてます。だけど、どうにも気になって仕方がないんです」
「ふぅ……」
葉澄はため息を付いて、頬杖をつく。
「──ねえ優花さん、あの人との付き合いってそんなに大事? 私とか、他の友達よりさ」
「……え」
葉澄は優花の顔をじっと見つめた。
…これは、軋轢なのだろうか。陽川輝星に入れ込んだことで、人間関係が脅かされているのだろうか。
(……そうだ、人間関係には少なからず損得勘定が関わってくる。──今の私は"友人の価値"がなくなりつつあるのか)
優花は今まで、人嫌いだからこそ人々と過ごし、観察し、それに溶け込む術を学んできた、人間関係の重要性も然りだ。
ならば、今のコミュニティを手放すわけにはいかない。これは少なからず人生にも関わることなのだ、そんなのは分かっている。
(……だけど、ここで嘘を吐けば私じゃなくなる)
「──今は、あの人の謎を解きたいと思っています。あの人が抱く感情を、そして私が抱く執着の理由も突き止めたい。……ごめんなさい、葉澄さん」
「…そっか」
葉澄は冷たく、息を吐いた。
(この人との関係を手放すのは少し惜しいけど……仕方な──)
「じゃ、何から始めるか、調査!」
しかし葉澄が発したのは、明るく暖かい声だった。
「えっ…、あれ?」
「ふふっ、びっくりして頂いて結構。…優花さんは友達ってのを分かってないよ、友達なら助けたいもんなの。あえて損得を考えるなら"友達が元気で居ること"が私の得なんだ」
葉澄は微笑む。……友達だからって、わざわざ動いてくれるのか? ただそれだけで?
「……なんだか、また人の気持ちが分からなくなってきました…せっかく慣れてきたと思ったのに。えっと、ありがとうございます…?」
「へへっ、そういうのを正直に言ってくれるから一緒だと居心地良いんだよ、嘘吐かれるよりよっぽど良い。──ともあれ、まずは情報だね。人を知るにはまず思春期から、陽川さんの中高時代を漁ってみようか」
「え、そんなこと出来るんですか?」
「それこそが交友関係だよ優花さん、中高ほどじゃないけど…ここには同年代が集まってるわけだし分かることも多いんだ。──それじゃあ早速、電話でも入れよう。最初は、そうだな……」
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葉澄はその場から動かず、電話のみで数々の情報を集めだした。出身校も、家族構成も。そして最後には…その出生すら。
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───携帯を置く─
「ふーっ、おっけ。何とか辿り着いたね、"有識者"との面談!」
人仕事終えた葉澄は大きく体を伸ばした。
「す、凄いですね。こんなすぐに……」
「…そうだね、私だって驚いた。個人情報って脆いなぁ、ちょっとした知り合いの話からパズルするだけで良い」
「敵に回したくない人だな…」
「ふふっ、どーも。それじゃ優花さん、また講義終わりに」
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それから、やがて日は落ちた。優花と葉澄は大学前で落ち合い、"有識者"の待つレストランへ向かう。
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到着した2人は、すぐにその人を見つけて対面に座る。
「──佐藤 あかり さんですね」
"有識者"、佐藤 あかり と向き合い、2人は簡単な自己紹介を形式的に済ませた。お互い同年代であり、無駄な緊張もないだろうか。
「──それで、佐藤さんは中学高校と陽川さんの同窓生?」
「ええまあ。…あの人、母がやってる児童養護施設に引き取られた子で。多少気にかけてました」
「というと…肉親は?」
「居ません。…詳しくは知らないんですが、父親は陽川さんが産まれる前に事故で亡くなられたそうです。…その後、母親の対応がちょっと……良くなくて。つまりその…陽川さんに酷いことを」
(……虐待か)
「じゃあ、その母親は今何処へ?」
「いえ、母親は8歳だった彼女と一緒に……車で海へ。陽川さんは奇跡的に生き残って、母の施設に引き取られたんです」
「…そんな……」
「……陽川さんは本当に運が良かった。でも、彼女に残った傷は計り知れません」
佐藤あかりは、目を伏せて拳を握る。
「……陽川さんは、今でも苛まれているんですよね…? ──私のせいです。事情を知ってたのは私くらいなのに、私は友人でいるのに疲れて逃げてしまった。打ちのめされていたあの人に、もっと寄り添わないといけなかったのに…!」
彼女は俯いて自分の拳を見つめる。きっとその後悔が、ここにいる理由なのだろう。
(……責任も何もないだろうに、真面目な人だな。…どんな心構えでもその大体は幻想、至らないことだってある。……まして感情とかメンタルなんて、自分じゃ分からないのだし)
「……す、すみません。話の途中で」
「いえ、大丈夫です。まだ質問よろしいですか?」
佐藤あかりは、深呼吸をして頷いた。優花はそれを確認して言葉を続ける。
「陽川さんは、特定の言葉…か何かに怯えているようでした。例えば"立派"のような。心当たりなどありますか?」
「あ──はい、あります。"立派"は、陽川さんの母親がよく言っていたそうです」
「母親が…!」
「ええ、…詳細には知りませんが、母親は陽川さんに何かをさせた後、そう言って褒めていたらしいです。……言葉だけだと健全に聞こえますが、母親がしていたのは酷い強要でした。時折優しい言葉をかける…家庭内暴力にはよくある話と聞きます」
「なるほど、それで…。私は禁句を口走ってしまったんですね…」
「でも…陽川さんにはそういうのが多すぎるんです。何をするにも誰と話すにも、彼女には母親の影が見え、それに怯えてしまう…心を閉ざしてしまう……立派な呪いですよ」
あかりは語気を強めて息を吐いた。今でも、輝星の母親に対する怒りが燻っているのだろうか。
優花と葉澄は目を見合わせ、絶句する。ここまでの話は全く別世界の、想像もできない話だ。けれどそれでも合点がいった。
「──あの、島田さん…と松崎さんでしたよね。お二人は、陽川さんを母親の影から開放できると思いますか?」
「……そこまでは言い切れません。でも私は、佐藤さんとこうした約束を取り付けるくらいには、彼女を知りたいと思っています」
それを聞いて、彼女は静かに頭を下げる。
「……おねがいします。私が出来なかったことをお二人に託させて下さい。陽川さんを、どうか救ってください…!」
優花はそれに対し、深く頷いて応えた。
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情報を手に、優花と葉澄は知恵を寄せ合い、ある作戦を立てた。輝星の心に踏み込む作戦を。
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翌日、夕方。大学のロッカーにて。
「──陽川さん」
「ッ!!?」
優花に声をかけられた輝星は、何も言わずに逃げようとする。
「待った!」
しかし優花は、がっしりとその腕を掴む。
「ひッ……! ぅ…あ……」
輝星は怯えきった暗い瞳を優花に向けた。
(陽川輝星が受けた呪いはあまりにも大きい…、誰かが入り込む隙間も無いくらいに。だから私に出来ることはきっと……こじ開けることだ…と思う)
優花は怯える輝星をじっと見つめる。腕を掴んだまま、恐怖に揺れる瞳をただ見つめるのだ。
言い逃れようもない奇行だが、しかし輝星が現状を過不足なく把握するまでには時間が必要だ。結果的に、この行動は正しいと言えた。
「……な、…なんでしょう…か……」
暫く経った後、輝星はやっと返答した。申し訳無さが滲んだ声に、嫌悪は混ざってないらしい。
(……嫌われているならこれで終わりにしようとも思っていたけど、どうやらそうじゃない。……良かった)
「これを受け取ってくれますか」
優花は、輝星の手にあるものを押し付けた。
「…え……ぇ…、……え…?」
「ミュージカルのチケットなんですが…、丁度ペアシートが空いていて」
「な、なん……で、…ゎ…たし、に……?」
「舞台衣装の人が有名な方で、劇もそれを推してるんです。私の交友関係だと、陽川さんを誘うのが適切でしょう?」
「あ…この人……」
輝星はチケットの詳細を眺める、微かに興味を惹かれたらしい。
(よし…読みは当たってくれた、陽川輝星のファッションから好みを割り出して選んだ甲斐があったな)
「お願いします陽川さん、他の友人は興味がないみたいで」
「ぅぁ…で、でも……私、は……」
輝星は尚も迷い、拒む様子を見せる。
(この態度…予想通りだ)
───引っ張る─
優花は、腕を掴んだ手に力を込める。そして、そのまま壁際まで追いやった。
「ぅ…!? し、っ、島田……さん……?」
「私は貴女と行きたいんです、陽川さん。貴女の全てをひっくるめた、"陽川輝星"という一人の人間と一緒にこの時間を共有したい」
(──絶対に、逃さない。親の影が彼女を取り囲んでいるなら、割り入って引き剥がしてやる!)
わりと無理矢理である。優花は早々に建前を放り投げ、まっすぐ、鋭く言葉を届けたのだ。
「…え……ぁ……」
輝星は、たじろいで視線を逸らす。しかし優花は、決して引かずにその瞳を見つめた。
(聞くに、母親の呪いはあまりに多く、そして根深い。褒めたのも母親、貶したのも母親、産んだのも、…殺そうとしたのも母親だ。だから、陽川輝星に必要なのは"未知"だ、それこそがきっと、"居場所"になるかも知れない)
壁に追いやり、追いやられ、傍から見れば金品でも巻き上げているのではないかという姿。しかし2人は、そのままずっと見つめ合った。
(返答ならいくらでも待とう、あなたの瞳は美しく、見ていて飽きないから。──どうだ、陽川輝星。こんな人間、知らないだろう?)
「──…ぅ…ぁ……」
陽川輝星が、口を開いた。
「……ゎ、私で…良けれ…ば……」
「──…! ありがとうございます!」
ここに、約束は成った。
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日は流れ、約束の日、当日。
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昼、劇場前。優花は先に着いていて、輝星を待っていた。
「…ぁ、島田さん! ぉ、おま、ぉ、お待たせしましたッ!!」
不意に響いた大きな声、輝星は息を切らして駆け寄ってきた。
「大丈夫、待ってないですよ陽川さん。っていうか、集合時間よりも早いです。お互い計画的に行動できましたね」
「…ぁあ、そっか……ぇと、よ、良かった…です……」
「じゃあ、息を整えたら行きますか、陽川さん」
「は…はいッ!!」
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劇場へ入り、二人は席へ座る。
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万全を期す優花と心配性な輝星は、開場と同時に入場した。まだ人も少なく、ちょっとした優越を感じられる。
「……ぁ、あの…島田さん……。あ、改めてになるんですけど……ぇと、さ、誘ってくれてっ、ありがとう…ございます。……その、ゎ、私ってあの…こ、こんな、だから……、っ、一人で来るのは…無理で……」
「そうでしたか…、尚更良かった。──というかこちらこそ、私は原作者の相崎叶太先生からこのミュージカル知ったんで舞台衣装の人はあまり知らなくて…、別の視点で楽しんでくれる人と一緒に来られて嬉しいです。誘いに応じてくれて本当にありがとうございます、陽川さん」
「えっ、…ぅあ……わ、私なんてそんな……」
輝星は恐縮そうに俯いた。
(あぁ…俯いてしまったか。相変わらず会話が続かないな…。──まぁでも、前髪で見え隠れする瞳も、別の良さがあるけど……)
静かな劇場で、優花はやはり輝星の瞳を眺める。緊張した様子の彼女は視線を不規則に揺らし、それが瞳の見え方を千変させている。
優花は飽きることなく、暫くの間その瞳を楽しんだ…。
(──待て。この感じ…、私って今おかしなことをしてないか?)
ふと、優花は自身の異常に気がついた。元より輝星に対して不思議な執着を持っていたのは自覚していたが、今までその"矛先"が何なのかよく分からなかった。
(まさか、"瞳"か? 私は…彼女の"瞳"が気になっているのか? そんなの…どうして?)
───開演のブザーが鳴る─
優花の思考は、劇によってかき消された。
・・・・・・・・・・・・・・・
きらびやかな衣装と、演奏の音圧。輝く舞台装置に、美しい歌声。舞台は観客を魅了し、別世界へと誘う。
・・・・・・・・・・・・・・・
《──人は皆、何かに惹かれるものよ。私は歌に、彼は絵に!》
《じゃあ、僕は? …僕は一体 何に惹かれて、何のために生きているんだ?》
歌の中、迷う者が答えを探す。その姿は優花にとって、どこか見覚えのあるものだった。
みんな、私が知らない感情を持っていた。全く合理的ではない、必要性を感じないどころか、邪魔とも思えた。
《──すごく楽しそうだね、君は。…どうして絵が好きなの?》
《そんなの…、だって綺麗じゃないか!》
説明されても、分からなかった。自分の中は何か大事なものが欠けているんじゃないかと思うくらいだ。
《──歌いましょう! 悩みを吹き飛ばすの!》
《ええっ無理だよ! 僕歌ったことなんて無いもの!》
《良いのよ、恥じらいもスパイスだわ! さあほらっ「る〜♪わ〜♪る〜♪」》
《る、る〜…わ〜♪》
やってみても、上手くは出来ない。良さが分かることもなかった、自分が何者なのか。それは優花にとって日常的な自問だ。そして大抵の場合、答えは出ない。
《──いつだって、大切なものは足元にある。転んでみるもんだろ?》
舞台も佳境に入り、より一層華やかな演出が披露される。歌は響き、音楽が包む──
(──…ん?)
ふと、視界の端で、なにかが光った気がした。それは演出ではなく、もっと別の……。
(確か、こっちの方から──)
優花は視線を向ける。それは……。
(──陽川…輝星……?)
輝星は、笑っていた。眼の前の芸術に心奪われていた。顔を上げ、目を見開いて、その瞳を輝かせていた。
(…綺麗……)
劇の途中だというのに、優花は彼女の瞳から目を離せなくなった。七色に煌めく、宇宙のように深く美しい瞳。
…欲しい。
(──えっ。…私今、何を……?)
《──それだよ、それが恋なんだ》
舞台の上で、誰かが言った。まるで優花に語りかけているようだった、そんなはずはないのだが。
《欲しいと思うこと、独り占めしたいと思うこと。君はその人に恋をしたのさ!》
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やがて劇は、閉幕した。割れんばかりの拍手の中、優花は一人取り残された気分だった。
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劇場の証明が点き、観客たちは退室を始める。それでも尚、優花の中には不可解な感情が渦巻いていた。
たかが劇の台詞一つ。しかし優花にとってそれは、明確な"答え"だったのだ。
「す…凄かった……ですね…!」
輝星が優花へ語りかける。彼女から優花へ声をかけるのは非常に珍しいことだ、しかし優花の胸中は、それどころではない。
「え、ええ陽川さん。とても楽しめました」
(だ、駄目だ…、何かがおかしい。彼女の顔が見れない…! 私は一体どうしたんだ? 何なんだ…これは……?)
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気持ちの整理がつかぬまま、優花は輝星と共に劇場を後にする。帰りの道中感想など言い合ったが、優花はその内容を記憶できなかった。やはり、それどころではなかったのだ。
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夕方、2人は丁度良いところで解散することにした。
「──島田さん…っ、き、今日は、…ありがとうございましたッ!! ぁ、私あのっ、ぇと……凄く、楽しかった…っです…!! ほ、本当に、その…えっと……こんなの…初めてで…っ! じゃ、じゃあえっと、また、大学で……!」
輝星は頭を深く下げ、そして去っていく。優花はしばらく立ち止まり、彼女の背中を見送った。
(だ、駄目だ……帰り道は緊張して何も頭に入ってこなかった。こんなのおかしい、今まで感じたことのないこの感覚は…? まさか本当に…恋だっていうのか……これが?こんなのが?)
優花は頭を押さえ、ため息を吐く。
(いいや、こうして考えても仕方ない…。せっかく人間なんだ、ここは誰かに相談だな)
優花はすぐに携帯を取り出し、素早く電話をかける。
「──もしもし、葉澄さん? ええ、お疲れ様です。それで…えっと……また悩みを聞いて欲しいのですが…」
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優花は、葉澄に事の顛末を語った。全てを詳細に語っているうち、電話口では限界を感じたのだろう、一旦自宅へ戻り画面越しに顔を突き合わせる。
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時刻は夜、島田優花の自宅。優花はようやく、画面の奥に居る葉澄に全て語り終えた。
「──ふむ、……一応聞くけど、優花さんの考えは?」
「えっ、あぁ……そう…ですね──もしこれを"恋"とするなら、…あまりに歪です。確かに私は陽川さんの瞳を「欲しい」と思いましたが、これはあくまでも"瞳"に対しての感情であって彼女自身に対してじゃありません。その場合…健全な関係を構築できるとは思えない……かと」
「ふーん……」
「…どうかしましたか」
「そうだな…一言だけ良い?」
「どうぞ」
葉澄は頬杖をつき、にやけながら言う。
「"らしくない"よ、優花さん」
「──あ……」
葉澄は一言だけ、ただ一言だけ伝えた。そして優花には、それで十分だった。
「……ふっ、あははっ! そっか、そうですね、"らしくない"。私が人の感情を疎んでいるのは、そこに渦巻く不合理に共感できないから。でもそれって、悩んでいる今の私そのままですね」
優花は深く息を吐き、自室の本棚に目をやる。そこには優花が買い揃えた恋愛小説がずらりと並んでいた。
「…恋なんていつも不合理に思っていたのに私自身がこうなるだなんて、…小説もあながちフィクションではありませんね。──でも気づいたのなら正せます、こうしてなんかいられない」
「ふふっ、全く優花さんは。迷ったってすぐ道を見つけちゃうんだ。──これからどうする?」
「ええ、決めました。…私はやっぱりあの瞳が欲しいです、不合理に迷って彼女から離れようだなんて何の得もない。欲しいのなら、手に入れる…それってきっと自然なことですよね? ──だから、これからもっと沢山のプランを考えようと思います、彼女とどんな関係を築くにしても、まずはもっと仲良くならないとお話になりませんから」
「流石だね…。それじゃ、私も手伝おう。ううっ、友達が感情に目覚めてくれて嬉しいっ」
「なんですか人をロボットみたいに…。でも、ありがとうございます葉澄さん」
ーーーーーーーーーーーーーーー
2人はこの日、夜通し作戦会議を続けた。陽川輝星に寄り添い、そして手に入れるために。
この恋を、実らせるために。
──計画は、長きに渡った。優花は葉澄と共にデートプランを立て、そして確実に遂行していった。細心の注意をはらい、しかし大胆に陽川輝星の傍に居た。輝星は相変わらずいつも言葉を絞り出すのに時間を要したが、優花にとっては関係なく、それは憩いの時間だったろう。
ーーーーーーーーーーーーーーー
──そして、時は大学最後の冬、大晦日の深夜。
日の出を望める山道で、夜闇の中、ふたりは肩を並べて白い息を空に溶かしていた。
(…大学生活も終わる、シチュエーションも完璧。──だから、今日がその日だ。もうプランはない、最後は私自身の感情を叩きつけるだけだ!)
「──あ、あの……島田さん」
(え──)
しかし先に語りかけたのは、陽川輝星だったのだ。
「わ、私、あの……っ、島田さんに話したいことが…あって。……い、良いでしょうか」
「あ……はい、もちろん」
「…ありがとうございます」
輝星は深く呼吸して。語り始める。
「……島田さんはきっと、知っているんですよね。私の……"両親"のことを」
「え──そ、それは……」
「分かりますよ。これまで島田さんは、一度も私の家族に対して興味を示さなかった。……ここ数年で、たった一度もです」
図星だ。優花は言葉に詰まり、迅速に回答できなかった。
「……」
「……気に…なっているんですよね?」
輝星は、まっすぐな視線を優花に向けた。
(…その瞳で見つめられると、私は嘘が吐けなくなる。…元から吐くつもりなんて無いけど)
優花は静かに頷く。
「…はい。……でも、無理して話す必要はありません。私は今の陽川さんが元気なら、それで」
「……そこまで気遣い頂いて、…その気持ちに気付いていて何も教えないままなんて、……私はそんな不誠実に生きるつもり…ありません」
輝星は深呼吸して、遠くの空を見る。空は未だ夜に覆われ、冷たい風が頬をつついていた。
///////////////
二十余年前
///////////////
陽川輝星には……"私"には、胎児の記憶があるんです。お母さんとお父さんの声を、お腹の中から聞いていました。
「よし…決まり! 輝星、あなたの名前は輝星だよ!」
「ふふふ、輝星聞こえるかー、父さんだぞー? この声覚えててくれよなー」
「ぷっ、ったくもー熱心やね。…でも、そやね。おんなじ気持ちやわ。──輝星、元気に育つんだよ。あたし達の輝くお星さま……」
あの時は、二人がまだ何を言っているのか理解できなかったけれど…とても嬉しくて、"早く会いたい"、その気持ちが胸いっぱいに広がっていました。
それからも、私を迎え入れようと準備する幸せそうな声がずっと聞こえていました。本当に暖かくて…素敵で……、私はまだ顔も知らない二人のことが大好きでした。
…けれど出産当日、それは起こったんです。
「あー…お父さん間に合わなかったかー、残念やねぇ、輝星ー」
───けたたましい電話の音─
「ん? 誰だろ……──え…、は、はい陽川です…。じ……事故…? み、身元の確認って……?」
…お父さんには、"会えなかった"。病院にバイクを走らせていたお父さんは、急ぐあまり信号を一つ見落としてしまったそうです。トラックと接触してそのまま……。
当時の私にはやはり、何が起きたのか分かりませんでした。しかしそれでも、悪いことが起きたのだと理解出来ました。
そして、その瞬間から。…お母さんの笑顔も無くなってしまった。
……愛する人を失い、出産で体も弱り、そこに襲う育児。
私は…あの時どうしようもなく赤子だった自分自身を恨んでいます。
お母さんが私を見る瞳はいつしか冷たくなっていき、私の体には、痣が増え始めました。辛かったのは確かです、恐怖もあったし、あんな顔をするお母さんは見たくなかった。……いつしか私は、体に鈍い衝撃を受けた時、自然と意識を手放すようになりました。そうすれば傷みもないし、酷いことをするお母さんを見なくても済むから。──そういえば、私と島田さんの出会いもそれでしたね。…あれは本当に私のせいだけだったんですよ。
……そして、私が8歳のころ。
「ねぇ…輝星……お父さんに会いに行こっか……。…あたし…もう無理やわ……」
お母さんは虚ろな目で私の腕を掴みました。私は…その言葉を正しく理解し、頷きました。
小さな車に私を乗せ、お母さんは海沿いの崖へ走りました。
「待っててね……そっち…行くから……待ってて……」
お母さんはうわ言のように呟きながら車を走らせます。私のことなど、目もくれずに。
その時お母さんは、笑っていたんです。私が見たことのなかった、幸せそうな笑顔でした。
「…待ってて──」
そうして車は、崖を飛び出しました。
私は苦しみも、悲しみもなかった。あったのは、罪悪感ばかりです。私はあの時死んでしまうことについて、何も後悔はなかったのです。お母さんが笑っていたのだから、これで良いのだと。
……けれど、最後の最後、海の中。お母さんは、私を車の外へ投げ出しました。
「──あんたは来るな」
聞こえなかったけれど、お母さんは確かにそう言いました。
///////////////
現在。
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「…母の真意は確認しようもありませんが、手がかりはありました、母の日記です。『あいつがデキなければ、もっと一緒に居られたのに』──母はきっと、ただ最愛の人と一緒に居たかったのでしょう、…二人きりで。……だって二人がそうやって過ごした時間はあまりに短かった。私の妊娠が分かったから」
輝星は白い息を吐き、拳を握り込んだ。
「……母は、法律からも社会からも許されていません。理由がどうあれ、実子を虐待し心中まで図った。私の体にも…恐怖が残っています。……けれどそれでも、私は…──私だけは母を嫌いになどなれないし、忘れられもしない。 父と母、2人の笑顔が消えてしまったのは……私のせいなのですから」
どうしようもないことに、どうしようもなく虚しさを感じているのだろう。
「──だから時々、すごく疲れることがあります。重苦しい罪悪感と共に、私の存在価値が分からなくなって……。そういう時に頼るのがファッションと化粧なんです。…私の身体は母に似ている、だからせめてこの身体にだけは…綺麗でいて欲しい。自己満足ですけどね」
輝星は静かに、話し終えた。これが彼女の抱く心、その全てだろうか。
(…たとえ恐怖に囚われていても、彼女はもう自立している。……「あなたのせいじゃない」なんて一般的な言葉、彼女は聞き飽きたはずだし、聞きたくもないだろうな。結論付いた彼女の感情からすれば全く意味をなさないのだと思う、大好きな両親を否定する言葉なんて誰だって嫌だ。それに──)
優花は輝星の横顔を見る。そこから見える瞳は思い出に浸り、静かに揺れていた。その美しさは全く変わらないものであり、日々磨かれているとさえ思う。
(──それに、全部私には関係ないじゃないか)
「…全部教えてくれてありがとうございます、陽川さん。──私からも、伝えたいことがあります。陽川さんが全てを教えてくれたのだから…、私も、私自身の全てを」
優花は深呼吸して、覚悟を決める。
「……私は昔から、人の感情があまり分かりません。あれは起伏が激しく、法則もなければ正解もない、そのうえ大体の活動を邪魔するばかり。本当に未知で、凶暴で厄介なものだと思っています。自分自身が何を思っているのかさえ、それは推測に過ぎないのだし」
優花はそう語りながらも、いま己の感情と向き合っている。疑問ばかり満ちているこの心、もう一つの人格のようにも思えるこの心…。
「……特に恋愛感情について、私は常に頭を悩ませていました。生物として、皆が当たり前に持っているものを私は持っていなくて、終いには「そのような感情など自分には備わっていなかったのだ」と納得していた……」
優花の疑問は人生の大半を占め、今日まで調べ抜いてきた優花は今や恋愛感情がどういうものかを知っている。そして、恋愛感情を持たない人間が確かに存在することも知っているのだ。
「……でも、私に関してはそうじゃなかった。私は恋愛感情を持っていないんじゃない。私は"恋愛対象が人ではなかった"のです」
優花は深く静かに息を吸い、意を決する。
「──私は、あなたの"瞳"に恋をしました。…あなたの個性や心ではなく、その瞳に」
優花は輝星の手を取って、まっすぐ伝えた。
「瞳……?」
「……は、はい。…その、……ええと、混乱しますよね…普通じゃない。でも本当に、あなたの瞳は美しくて、深くて、輝いていて。私は初めて見たときから、あなたの瞳に惹かれてしまっていたんです。……私はこんな人間です、だからあなたのご両親の記憶について何も言うことはありません。だって感情なんて自分自身でも分からないのに、他人のそれを推し量るなんて難し過ぎますから。──私は、あなたの瞳が好きです。それを持つあなたの傍に居て、大切にしたい。だから…あ、あなたさえ良ければ、この先ずっと、その瞳を…私に深く向けて頂けないでしょうか。つまり、ええと……わ、私と、付き合ってくださいッ!!」
優花は深く頭を下げ、片手を差し出した。
……静寂が辺りを包む。冷たい風がお互いの頬をかすめ、この時間を永遠のように長引かせた。
…やがて、止まったかのような空気は動き出す。
優花の手から伝わる、温かな感触とともに。
「……優花さん、顔を上げてください」
優花は輝星の言葉にゆっくり顔を上げる。
「…陽川さん……泣いて、いるんですか?」
「ふふ……はい、…もちろん嬉しいんです。…だってこの瞳は……この瞳だけは…お父さんとそっくりなんですから……!」
暖かな朝日が差し込んだ。輝星の目に浮かぶ大粒の涙はきらきらと輝き、二人の新しい人生を讃えているようだった。
「こちらこそ、よろしくお願いします、優花さん…!」
「──輝星さん……、本当に、本当にありがとうございます…!」
二人は手を取ったまま一歩踏み出し、身体を近付ける。そうして顔をごく近くまで寄せ……。
──ただ、見つめ合った。視線と視線を重ね合わせ、決して揺らぐ事なく見つめ合うのだ。
これは二人の、二人だけの交わりだった。他の何よりも、どんなことよりも、二人にとってこれ以上無い幸せを感じられる。
大晦日の朝日は、二人をずっと照らしていた。
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ーーーーーーーーーー
・・・・・
某日。
『あっぶね…、事故りかけた。バイクが信号無視してきたんだけど、自動ブレーキで轢かずに済んだ。ドラレコ見たら、どうも職場抜け出した雰囲気だったんで多分出産。ガチ肝冷えた、産まれたばっかの子供の親殺すとこだった。文明に感謝』
とあるSNSにあった、そんな書き込み。
"陽川 優花"は、それを見て息を吐く。
───着信音─
「はい、陽川です」
《第3研究室の佐藤です。陽川さん、先日進めておりました衝突被害軽減ブレーキの新型テストですが、本日4時間後の16時30分にて行えることになりました。よろしければ、陽川さんにも現地でご覧になって頂きたく、お時間宜しいでしょうか》
「ああ、申請通りましたか! はいもちろん、今すぐ向かいます」
「はい、お待ちしています」
電話が切れると、優花は急いで立ち上がり、荷物をまとめる。
そして玄関に向かうそんな折。
「あっ、優花さん。今日は現地ですか?」
「ええ輝星さん。やっとテストが行えるみたいで、いってきます」
「はい、いってらっしゃい。気をつけてくださいね」
「ええ、輝星さんも舞台衣装、頑張って!」
二人はごく短く見つめ合い。それぞれの仕事へ向かった。
その手に尊い指輪を煌かせ、二人はごく普通の日常に包みこまれていく。
どうかずっと、幸せに。