3話「ガーベラは琥珀色」
『縁、おはよう!』
『おはよう、ユン』
今日も、縁と俺は一緒に過ごしていた。
一つ屋根の下というわけではないが、入院中は縁が見舞いに来てくれたし、退院後は俺が押し掛けるようになった。
最初はやり過ぎかと思っていたが、縁はその度に笑顔で迎え入れてくれた。
どこから入手したのかも分からない、二人分のティーセットにお茶を淹れながら、
『縁、何を見ているの?』
『これはね、旧世界に咲いていたと言われる花の絵本だよ』
旧世界──。
歴史上、確かにあったはずの文明社会を指す言葉だ。
その存在自体は共通認識でありながら、口に出すことはタブーとされている。
絵本に描かれていたのは、大きな木に桃色の花が咲き誇る、
まるで大きな綿あめのような不思議な木だった。
『桜、っていうらしいよ』
『桜……』
人工物だらけの世界では見たこともないような、淡い、儚い桃色だった。
それを見ながら、縁は言った。
『俺、夢があるんだ』
『夢?』
『いつか、本物の桜を見ること。……大切な人と、一緒にね』
『素敵な夢だね、きっと叶うよ!』
『……そうだね』
その声色は、どこか寂しそうだった。
『縁の大切な人って?』
『……』
縁は、黙り込んでしまう。
『あ、その……言いたくないことなら別に……』
『いや、ユンには話しておいたほうがいいかな』
縁は、棚の上にある写真立てを指さした。
そこには縁と、まだあどけなさを残す少年が笑顔で写る写真があった。
『俺、弟がいたんだ』
俺は、縁の話に静かに耳を傾けた。
弟の名前は、月下 結。
とても優しい性格の、自慢の弟であること。
しかしある日、政府が主催している「人口管理ゲーム」の参加者に選ばれてしまったこと。
最後に見た結の顔が、気丈な笑顔が忘れられないこと。
そして……恐らく、もう生きてはいないこと。
『結……俺は……』
『……』
縁の表情は、それまでに見たことが無いような悲痛さに歪んでいた。
涙を流し嗚咽を漏らす縁に、どんな言葉をかければ正解なのかは分からない。
『ねえ、縁。そのままでいいから、聞いて』
『……』
『結はあのゲームに参加させられた。
だけど、まだ死んでいるとは限らない』
『……』
それは、限りなく低い可能性の話だった。
そうだとしても、俺は縁に希望を持ってほしかった。
『だからさ、縁。俺も、一緒に結を待つよ』
『ユン……?』
『縁の気が済むまで。何日でも、何年でも……何十年でも』
『でも……』
『それに、縁を一人ぼっちにしてしまったことを、きっと結も心配しているはず。
だから、結が戻って来るまでは、俺はずっと縁の傍に居る』
それが、俺にできる精一杯のことだ。
たとえ無力だとしても、せめて縁の傍に居て支えたい。
その気持ちは、本物だった。
『……ねえ、ユン』
『何?』
『俺も、その可能性を信じたい……いや、信じなければいけない。
だからそれまでの間、一緒に居て欲しい』
『勿論だよ、縁』
俺は、縁の両手を取って優しく包み込んだ。
縁が泣き止むまで、いや、泣き止んでもずっと傍にいることを決意した。
これから、ずっと。
『……ほら、縁』
俺は少しぎこちない笑顔で、縁の前に小指を差し出した。
『俺は必ず傍にいる。たとえ、何があってもね。だから……約束、しよう?』
その言葉に、縁も同じように小指を繋いでくれた。
二人で結んだそれに、確かな熱が伝わる。
『これでもう大丈夫。だって、約束だからね!』
『ユン……ありがとう』
目を伏せたままの縁が、小さな声で笑ってくれた。
*****
「はい、今回はここまで」
朔は、落ち着いた声色で物語を読み上げると、満足そうに息をつく。
この頃になると、俺は落ち込んだり、怒ったり、悲しんだりした時、それを朔に話すようになっていた。
朔は、その度にうんうんと頷きながら聴いてくれる。
そして次に遊びに来た時は、物語の中の縁がその悩みに対するアドバイスをくれる。
そんな日々が、俺の日常になっていた。
縁は、時に教訓じみたことを言うこともあれば、どこか影を落としたような言葉を残すこともあった。
そうして、いつも支えてくれる縁のことを、俺だけのヒーローだと思っていたのかもしれない。
でも、そんな縁にも悩みがあることはなんとなく解っていた。
ここに来て、縁の過去をやっと知ることができた。
それに、支えられてばかりの俺が、今度は縁を支える存在になれるかもしれないんだ。
「……」
「ユン、どうしたの?」
俺は考え込むように、まじまじと物語を見つめながら呟いた。
「縁たちに、桜を見せてあげたいな……」
「ユンはそう思うんだね」
「でも、あの世界に桜はもう無いんだろ?」
「どうだろうね? だって、物語には、無限の可能性があるんだよ」
朔が書いた物語を読んだ後は、いつもこんな風に感想を話していた。
とはいえ、縁のことを質問しても、基本的に朔は答えてくれなかったけれど。
「ユンはせっかちだなあ。次にユンが来る時には、また続きを書いておくよ」
「う、うん。……朔、ごめん。」
「ユン、最近素直になって来たね?」
「うるさいな」
視線を逸らして、俺はまた呟く。
「……縁が、そうしろって言うから」
実際、縁に何か言われた次の日にはそれを実践していることが多かった。
人に謝るとか、気分転換をするとか、考え方を変えてみるとか……。
もちろん、全部が上手くいったわけじゃない。
だけど、縁の言ったことをとりあえずやってみることで、少しだけ前に進めるような気もした。
「……」
「朔?」
「ううん、なんでもない」
朔は穏やかな笑顔で、続ける。
「ユンは、すごいなって」
「何が?」
「僕の話をいつでも真剣に聞いてくれるから。そんなユンが、僕は大好きだよ」
「んー、よく分からないけど……友達ってそういうもんだろ?」
朔は嬉しそうに、うんうんと頷いた。
「でも俺は、朔の方が凄いと思うけどな」
「僕が?」
「いつでも、たくさんの物語を書いてる。
とてもじゃないけど、その才能は真似できないな」
それを聞いて、今度は朔が目線を逸らしてしまった。
心なしか、その頬が赤くなった気がする。
そうして会話が途切れると、二人はいつものように無言でクッキーを頬張り始めた。
夕焼けの空を見ながら、朔が言った。
「見て、あの空! 縁の瞳の色だよ」
それは俺が想像する縁の瞳よりも透き通って、眩しい色をしていた。
こんなに綺麗な目をしていたんだなと、なんだか嬉しくなった。
*****
それから1か月後のこと。
縁と俺の元に一通の招待状が届いた。
政府のマークが書かれた、小さな白い封筒が。
『縁、これって……』
『……』
政府が主催する「人口管理ゲーム」。
この世界では、誰もがそれを恐れていた。
拒否権のない招待状が来ないことを、ただ祈りながら生きるしかなかった。
俺と縁は、その参加者として選ばれたのだ。
未来のため、より強い個体のみを残すため……。
そんな口実で、全ての行為が正当化される血の祭典。
『ユン、俺は……』
『ねえ、縁。必ず、生きて帰ろうね』
『……そう、だね』
そのまま二人、手を繋いで歩く。
もしかしたら最後になるかもしれない街の景色を目に焼き付けておくことにした。
廃墟やガレキだらけの道を通り、時折、縁と会話しながら。
『ねえ、ユン。……何があっても、守るからね』
『俺もだよ、縁』
やがて見えてきたコンクリート打ちっぱなしの建物の前で、戸惑いながらウロウロしている少女がいた。
手には例の封筒を持っている。
挨拶と言わんばかりに声をかける。
『ねえ、何してるの?』
『あ、その……入口が分からなくて……』
ああ、きっと俺はこの子を■すんだろうな。
全ては、俺と縁のために。
『俺も参加者なんだ、一緒に来る?』
『あ……は、はい!』
この場に似つかわしくない笑顔を作った彼女は、自信の無さげな声で返事をする。
『俺はユンっていうんだ。君は?』
『は、はい……えっと、私は……"観測者"って言います』
*****
「今日は、ここまでだよ」
「……」
思わず、息を飲んだ。
平和だった日々が、突然終わりを迎える展開。
これから、俺は……縁は、どうなってしまうのだろう?
物語が動き出すワクワク感もあったけれど、不安の方が大きかった。
「ユン?」
「え、ああ……大丈夫」
「あはは、ちょっとびっくりさせすぎちゃったかな?」
朔は、ツンと俺の頬をつついた。
くすぐったいはずなのに、なんだか鈍いものが当たっただけのような、なんともいえない感じがした。
「ねえ、朔?」
「なぁに?」
「この物語は、どこまで続くの?」
こういう時、朔はいつも、決まった返答をする。
「さあ、いつまでだろうね?」
「知ってるよ、"物語には無限の可能性が──"」
「なーんだ、分かってて訊いたの?」
実際には、予想と期待が半々というところだった。
だけど今回も、予想通り。
「まあ、のんびりと待つよ」
「うん」
庭に咲く薔薇は、朔と出会った頃とはすっかり違うものになっていた。
あの黄色い薔薇は、なんていう名前なんだろう?