闇の中はイル・ロリータの声
だがしかし、目を開けてみて真っ暗闇だとしたらどうだろう。とても大変だろう。
ああいや、別に私が先天的及び後天的な不幸による盲目というわけではない。私の視力はいたって健康的であるし、目に見えるもの総てが嘘くさく感じる。すなわち正常だ。
しかし、正に問題なのが私の目がいたって健康であるにもかかわらず、先が見通せないほど真っ暗闇なのだ。未来など見えもしないし、一寸先のことですら私には分からない。
ある時分、目覚めてみれば救いようのない暗闇に覆われている。これがまさに恐怖なのだと私は身をもって知らされた。日中であろうが、鳥目であろうが、はたまた総てを照らし出す太陽が私の身を焦がそうが、全く問答無用に闇しか見えないのだ。
これはもう終りなのだと私は確信した。神が私に絶望をお与えになったのだと。神の子である私に生の苦しさを知らしめ、享楽か地獄かへ早う行けと仰っているのである。死神だって神なのだ。
ただ私は、神というものを甚だ疎ましく、堕落したものと考えていたので、手前がそう指図するのであれば私は足掻いてでも生きてやる。というなんとも青臭い考え方で毎日を浮世で暮らしているのである。
東京という砂漠は、私を惰性的かつ堕落的な生き物へと陥れた。いや、そもそも私の中にもともと惰性的かつ堕落的なものが存在していて、東京と言う砂漠がそれを開花させたのかも知れない。しかし、そんなことはどうでもよい。結果的に現在の私は惰性的かつ堕落した生き物なのだ。
しかし、この闇というもの、私の心をひどく痛めつけ負の底へと引きずりこむ。ある夜、ベッドの中で耐えられぬほどの悲しみに襲われた。創作の世界、ドラマや小説の中であったなら、主人公がベッドの中で何かに耐えきれず涙するというのは、とても感傷的に映ったであろうが、実物のそれはひたすらに無情であり、残酷だ。
何故、この世の中の人々は私に対してそれといった関心を払わないのだろう。私が、沈黙に耐えきれず何か話題を提供したとしても、それはたちまちのうちに消え去って、後にはいたたまれぬ気持ちと気まずさが残る。場を明るくしようと歯ぐきをむき出しにし、眉間にしわを寄せて無理やりに笑う。苦しそうに。他人から見たら、そう見えるだろう。実際にも苦しいのだ。人と人とのコミュニケーションというものが、齢を積み重ねていくごとに不自然になっていく。いや、不自然であったことに気づかされる。これは、私が二十年間で辿り着いた真理と言っても良いかも知れない。
そして、それに気づきベッドから目覚めてみたならば、この世界は見事に非の打ちどころのない完全なる真っ暗闇に覆われていたというわけだ。
毎日が砂を噛むような日々の中、ある時私は窓の外の景色が春のそれであるということに気がついた。毎日を心の内に閉じこもり、まるで幽霊のように、電車に乗り大学へと向かい、無理をして笑い、人触れ合って、何も見ずに家へと戻る。そのような生活の中で誰かが春ですよーと告げてくれなければ、春であることに気づかぬのは当たり前のことだ。何故みんなは既に春であることを私に教えてくれなかったのだろう。こんな私であっても、春くらいは美しく生きたいと思っているのだ。
よし、桜を見に行こう。私はそう思い立ち、沈丁花が柔らかに春風に乗って香る、夜の公園へ颯爽と足を向けた。夜とはいえ四月も中旬を過ぎたこの季節の風は、素肌に温かく感じる。私は、我が暗闇のため視界が黒く塗りつぶされ、電信柱や街路樹だと思われるものに幾度となくぶつかってしまったが、それでも近くの公園くらいなら、ある程度の勘で向かうことができる。
しかし、ぶつかった瞬間は相手を認識できないので、とりあえずとっさに謝ってしまう。ごめんなさい! 私は電信柱や街路灯に何度謝ったことか。本当に見えぬのだ、触ってみなけらば確かめられないのだ。だから、とりあえずはぶつかってしまったら対象に触ってみるのだが、相手がもし人間であった場合は非常にバツが悪い。とりわけこれが女性であった場合など、私は不名誉にも犯罪者という汚名を与えられてしまうのだ。だが幸運なことに、暗闇の中で女性に触れたことは一度もない。これは神に誓っても構わない。誓う神など知らないが。
太陽が溶けてしまった夜の公園に着いてみると、そこには憂いを帯びた虫の声しか聞こえなかった。いや、待て。池に誰かが座っている。白いひらひらとしたドレスの様なものを身に纏い、真っ白で端正な顔立ちの、美しい少女が月に照らされて座っている。例え真っ暗闇であろうと、その少女は、私の闇の真ん中で確かに認識できるほど強く美しい光を放ち、月の下で優しそうに微笑んでいる。
白いひらひらドレスのロリータ。赤いリボンのついたストラップシューズを履き、黒と白の縞模様のソックスを膝上、太ももまで伸ばし、月夜に照らされた宵闇の中だというのにもかかわらず、真っ白な日傘を差し、こちらに向かって微笑んでいる。
私はそれを見て明日を生きたいと思った。何故だか知れないが生きていけるような気がした。とても美しいのだ。そんなものがこのような餓鬼の糞みたいな世界にも存在するのだ。
人生の一割は無情な出来事だ。不条理で、どうしようもない救いがたい出来事だ。踏まれて踏まれて踏みつぶされて、痛いよ! 痛いよ! いやだいやだいやだあああああああぁぁ 死ぬ やめてよ! もう許してくださいって言ったって、傷つけられる理不尽な世界。後の九割はそれよりもマシなどうでもいいようなこと。日々の生活。そしてほんの少しだけ、ほんのちょびっとだけ、とても瑞々しくて綺麗で、見たら思わず涙が頬を伝ってしまうような綺麗なものが存在する。目の前のロリータは正にそれなのだ。
「何を見ているの貴方。それは幻想よ。無機物」
彼女は上目遣いにこちらを覗き見て言い放つ。それに対し、私は問う。
「貴方は誰ですか」
当然と言えば当然の質問なのだ。初めて出会った者同士はお互いが分からないので質問をしあい、答えを導いて、理解をし合わなければいけない。そしてみんな仲良くしなければいけない。という理想がある。いや、間違えた、ルールだ。そのようなルールがあるのだ。
「貴方は、私が誰だか分からないの? 本当に? だったら眼科に行った方がいいわね。もしくは脳外科にお世話になるのもいいかも」
彼女は楽しそうに、明るい声で言った。スカートの裾をふわりと持ち上げ、おまけに軽やかなステップをつけて、木漏れ日に照らされた薄緑色の葉が踊る様に微笑む。
「だって、世界はこんなにも真っ暗闇で何も見えないのに、どうして初めて出逢った君のことをたった一目で理解できるというんだい。もし君の常識が正しいのだとしたら、今ごろ、眼科や脳外科は大変に大盛況なことだろうね!」
「嫌だわ、そんなことで貴方、どうやってこの世界を生き抜いていくつもり? まず嘘でもいいから知ってると言わなくては駄目よ。相手を傷つけては駄目なの。理解し合うだなんて、ただの幻想だわ。たとえ理解できなくても、理解しましたと言わなくては、貴方生きていくことなどできはしないわ」
「それは嫌だな。私は生きたいんだよ。ただしかし、貴方の言うことが正しいという証明もない」
「いいこと? あなたたちはみんな理解理解というけれど、理解すれば本当に世の中が上手くいくのかしら? 戦争がなくなるというの?
例えばね、ものすごく貧乏な家があったり、お金持ちな家があったり、離婚する夫婦がいたり、誰かを殺してしまう人がいたり。これって理解が無いからなの? 家族や友人。お互いがよく理解し合っていたら、こういうのって起こらないのかしら?
もし世界に完全に理解しあった二人がいたとして、その世界は本当にうまくいくの? いくら二人が仲良くても食事が一人分しかなかったらどうなるの? いくら仲良くても二人で分け合ったなら二人とも死んでしまうじゃない。一人だけ食べたらもう一人は餓死してしまうでしょう。これってどうやっても無情で悲しいことよね?
これは理解し合っても解決はしないでしょう? これは例え話だから極論だけど、世界には絶対に何かが足りないの!
世の中の悲しくて深刻な問題ってこういう理解だけでは足らない細かい苦しみが積み重なって出来たものなの。
みんなが、全員が幸福になるためには何かが足りない! その足りないってことが作り上げた悲しみが、苦しみが、別のつらいことの原因になっているの! だから理解しあえばいいなんて悲しいことは言わないで」
「なるほど……ね。」
私はいまいち理解できなかったが、とりあえず頷いてみた。
「まぁ、いいわ。そんなことはどうでも。貴方だって……ね。暗闇でも触れば相手が分かるのだし。触ってごつごつしていれば木。柔らかくて温かったら女性。ギザギザしていたら吸血鬼かノコギリのどちらかよ。後はそう……応用ね。これであなたも素敵な幻想ライフを送れるわ」
「そうですか。ありがとう。純白の可愛いロリータ」
そう返事をした時には、既に、ロリータは私の前から消えていた。とても薄っぺらい存在になって。
現在、私がいるのは闇の中。伸ばした手の平さえ見えないこの場所で、今更、多少の問題や常識のズレが見つかったとしても、それは実に些細なことである。
ロリータの声が何処からか聞こえてきていたのかもしれないが、彼女は問題だけを放ってふよふよと遠くの空へ飛んで行ってしまった。
結局のところ空耳と真実の有無もまた、闇の中である。