良い点数取ったらデートの約束をした生徒が、ノーベル賞を受賞してもデートに誘ってくれない。
遠い親戚にあたるらしい、男子高校生の家庭教師を始めてから、既に二月近くは過ぎようとしていた。
相手は二年生だからこちらとしても特に気兼ねない感じで教えられ、のんびりと出来て嬉しい。私も大学があるから、教えられるのは週に2日程。それもまた良い。
「先生、今日も宜しくお願いします」
「こちらこそ」
初め、三平方の定理と聞かれて右手の親指を上げていた彼も、今ではまぁまぁ成績が上がってきていて、今ではやる気に満ちあふれ、生き生きとしている。
正直これが三年生なら、既に私は白旗を揚げているだろう。あと一年あるって幸せな事だ。
「もうすぐ中間テストだね」
「はい」
最初に平均15点の答案を見たときはダメかと思ったけれど、志望校に拘らなければ大学進学も大丈夫だろう。
「先生……!」
「はい?」
急に、彼が私の方を向いて真剣な、まるで何かの決意を表すような顔を見せた。
「も、もし……! もし次の中間で平均点60点取れたら……!!」
「取れたら?」
「そ、その……俺とっ……!! デートしてもらえませんかっっ……!?」
なんと可愛らしい提案だろうか。
彼は私とどうこうなりたくて、こうして勉学に励んでいたのかと思うと、どうにもこうにも愛おしくてたまらない。
中間テストの結果如何、しかも60点でどうこう出来るほど安く見られている事に関しては何とも言い難いが、もしかしたら彼にとってボーダーは、何か越えなくてはいけないハードルのような物なのかもしれない。
「……ふふ、出来るかな?」
「俺、絶対やります!!」
曖昧な返事だが、彼は確実にやる気になった。男子高校生のなんと扱いやすい事か。
すっかり熱を帯びた彼は、それから集中力を一段上げ、中間テストまで全力で勉強を続けた──。
──中間テストの結果が返ってくると、彼はそれを封筒に入れて貰い、一度も見ること無く帰宅したらしい。今目の前にある封筒の中に手を入れると、確かに中間テストの結果が入っていた。
「発表してもいいかな?」
「お願いします……」
手を組み、目を閉じて祈る彼。
私はそっと封筒から結果の書かれた紙を取り出した。あれほど真剣に勉強したのだから、間違いなくそれなりの結果は出ているはずだ。
「平均……59点」
「あ」
それまで我慢していた息が漏れ出るように、彼は目を見開いて椅子に力無く座り落ちた。
「まあ、残念だったね」
「……」
しかしこれだけ頑張ったんだ。ご褒美としてスイーツを一緒に食べに行くくらいは良いかもしれない。丁度食べたかった新作もあるし。
「今度──」
「先生!!」
勢い良く飛び出したその言葉に、思わずピクッと驚いてしまった。打ちのめされ、それでもまだそれだけの力が残っている。その事がある意味羨ましい。
「俺、次こそはやるよ……!!」
「……うん。確実に成績は上がってあるから、大丈夫」
折角やる気になっているんだ。中途半端なご褒美は逆に良くないときたか……。若いっていいね。
「絶対……次こそは……!!」
新たなる決意を固め、彼は猛勉強を始めた──。
──二学期の期末テスト。彼はまた、私にある提案を申し出てきた。
「もし平均75点越えたら……俺とデートして下さい!!」
「リベンジ頑張ってね」
中間と同じ60点じゃない辺りに、とても好感が持てた。しかも75点ときたか。
どうやら彼は今回自信があり、そして私の価値が上がったのか、倒すべき敵にやりがいを感じたのか。
どちらにせよ私自身彼の成長を感じることが出来てとても喜ばしい事である。
「気合だ気合……!!」
部屋に【気合】と書かれた習字用紙を貼り、机に向かう彼。字はあまり上手ではなかったが、その字からはひしひしとやる気が感じられた──。
──封筒から取り出した結果を見て、私はそれを彼にどう伝えるべきか、とても悩んだ。
「……ダメだったんですね?」
あまりにも長過ぎる沈黙に、彼も察しを得たようで、そっと私から紙を受け取ると、じっくりと目を落とした。
「73点……数学が足を引っ張ったか」
「他は良かったんだけど……でもほら学年平均点を超えたよ。凄いね」
確かに目標は達成出来なかったが、勉強を始めた頃からすれば、思いもよらない程成長している。そこに関しては素直に褒めてやるべきだ。
「まだまだです。次の期末……三度目の正直です」
「……うん」
二度負けても尚、彼の目には闘志が宿っていた。若さ、かな……。
「先生、今回間違った所、とことん教えて下さい」
「うん。そうだね」
その日は夜も遅くまで、彼の勉強を見続けた──。
──学年が変わり、もう時間的にも余裕がなくなってきた。
だが、私は彼の成長を確信しているし、高望みをしなければ何も問題は無いだろう。
「期末テスト。85点以上で遊園地に行って貰えませんか……!?」
「予定、空けておくね」
そんな高い目標で大丈夫なのだろうかと、ちょっと心配になったが、やる気ある彼に歯止めをかけることは止めておいた。
なによりデートの行き先まで決まっている辺り、少し余裕が見られる証。きっと今度こそ大丈夫だろう──。
──彼の成長を誰より喜んだのは彼のお母さんだろう。
「先生ありがとうございます。こんなに成績が良くなりまして……!!」
「いえいえ、全て彼の実力です」
「アンタやれば出来る子だったんだね。母さんが教えるの下手でゴメンよ」
次に喜んだのは、勿論私だろう。
だが、彼がその結果に満足いっていないことは、火を見るよりも明らかだった。
「またダメだった……」
平均点こそ84点に留まったが、既に彼は学年上位に収まり、他の生徒にも時折勉強を教えているらしい。
「先生次こそは……!!」
「大丈夫? あまり根を詰めすぎるのもダメよ?」
私は何か良くない事が起きそうな気がして、ついに彼を止めてしまった。
もう十分に成績は上がった。内容を見ても、難関大じゃなければ通用するレベルだ。
やる気が空回りして、志望校に落ちる事だけは避けたい。
「……先生。俺、東大を目指す……!!」
「えっ?」
既に彼の中の歯車は、とんでもない方向へと回っていたようで、どう止めたら良いのか。私には良い考えが浮かばなかった。
「東大!? アンタ……そこまで……!!」
お母さんがハンカチで目頭を強く押さえている。
「先生!! うちの子はやれそうですか!?」
しがみつくお母さんに嘘は言えない。
私はしばらく悩み、そしてこたえた。
「一年でこれだけ成長した人を、私は見たことがありません。後二回り程必要ですが、もしかしたら彼なら出来るかも知れません」
「アンタ! 頑張りや!! 先生宜しくお願いします!!」
「は、はぁ……」
もう彼には私が必要ないくらい、成績が良くなってきている。東大になんか行った日には、私の方が下になってしまう。それはそれで良いことだが、まさかこんなことになるなんて……。
「先生、もし……もし東大に受かったら俺と……俺とドライブデートして下さい!!」
最近仮免許まで取った彼は、すっかり大人びたことを言うようになってきたが、東大とデートを同じ土俵に乗せる辺り、まだまだ頭の中は男子なのだろう。
東大と釣り合うほど、私は高くない。
東大に行けば私よりも綺麗で素敵な人は沢山いる。
行けばきっとその事に気が付くだろう。
「……信じてる」
「はいっ!」
彼は多くを語らず、私はただ後ろから、彼の背中を見守り続けた──。
──ゴミ箱から中間テストの結果を拾い上げると、彼の居ない合間にそっと目を通した。
「うそ……」
平均94点。学年首位のエリートだ。
東大も夢では無い。
うかうかしていたら、私の方が足下をすくわれそうだ。彼がその目標を達成し、現実を直視した瞬間、冷めてしまわぬよう、私は最大限努力する義務がある。
私もその日から彼の隣で猛勉強を始めた──。
──冬。彼を試験会場まで見送ると、家の近くの神社へ向かい、ただ祈った。
「どうだった!?」
私は彼が帰宅するなりすぐに彼の安否を確かめた。
試験は二日に渡って行われる。一日目がダメでも諦めてはいけないのだ。
「……正直、微妙です」
「……大丈夫。いままでやって来たことを出し切るだけ。デート……楽しみにしてる」
「……はい」
彼の目に力が戻ると、私の役目は終わりを迎えた。
そっと扉を閉め、リビングで祈るお母さんの横に座り、健闘を祈った──。
──まるでダメだったと、彼は項垂れ真っ白に燃え尽きていた。
結果発表を見るまでも無い。そう言って彼は自室に引き籠もるようになってしまった──。
──結果発表当日。私は少しオシャレな服を着て、彼の家へと向かった。
「……先生」
生意気に無精髭なんかを蓄え、すっかりしおれた彼に向かって私は準備を整えるよう伝えた。
「デート、行こうか」
「……」
結果発表が貼られた掲示板の前まで来ると、彼はやはり一縷の望みがあるのだろうか、肩で息を繰り返し、その抑えきれない程に強く刻まれる鼓動に手を当てグッとつばを飲んだ。
「……先生。行ってきます」
「ええ。待ってる」
人混みの中へ向かう彼の背中。すぐに消え、そして人混みを押し分けるようにすぐに返ってきた。
「──あった!!」
「……おめでとう♪」
その場にへたり込み泣きじゃくり始めた彼の肩をそっと抱いた。
「やったね……」
「ありがとうございますありがとうございます……!!」
立ち上がり、頭を何度も下げる彼。
まさか本当に東大に受かるなんて、ね……。
私も彼に釣り合うような人になれるよう、頑張らないと。
「じゃあ……デート、する?」
気合を入れてオシャレした服をチラリと揺らす。
男子高校生ならこれでイチコロのコロだ。
「俺……まだまだ甘かったです!! だから……だから東大で結果を出せたらデートして下さい……!!」
「──はいぃぃ!?」
彼はそう言い残すと、走り去ってしまった。
いやいやいや。あなた、それで良いの?
てか、私はいつまで待てば良いの?
やりきれない想いを胸に、その日は祝賀会を開いて彼の合格を祝った。
お母さんとお父さんが終始泣き続けていたが、まあ、あの成績から東大だもんね、仕方ない──。
──数年後、ネットニュースの一覧に彼の事が載っていた。
現役東大生による新発見、と。
日本が新たなる才能に沸いた。
「先生!」
「すっかり大人になっちゃったね。それにもう先生じゃないぞ?」
「ハハ、すみませんクセで」
私の手を離れ、彼は立派に成長した。
もう私の手の届く人ではなくなってしまったが、こうして再会できた事をとても嬉しく思う。
「新発見、おめでとう」
「ありがとうございます。あの【猫ちゃん的確にリセットボタン踏み抜く現象とオカン掃除機でファミコン小突くな問題】は、先生のことを考えていたら偶然……!」
私も論文を読んだが、何一つ理解できなかった。
彼は既に研究者として立派になったのだ。
「十分、成果を残したね」
「まだです。あれをもっと深く掘り下げれば、ノーベル賞も夢では無いです!」
「ふふ、君は凄いね」
それよりもデートはまだなのかな?
私、大学も卒業してるし、社会人だし、収入的にはそこそこよ?
いつでもデートOKだし、なんなら証券会社のエリートに言い寄られてるんだけどなぁ。どうしようかなぁ。
「先生!」
「は、はいっ」
「もし……ノーベル賞取ったら……俺と……俺と結婚して下さい!!」
「……絶対だそ?」
「はいっ!!」
ついに、結婚まで来たか。
絶対って言ったし、証券マンは捨てておこう。決まりだ。
ふふ、今の彼を見たら、昔は酷かったなんて誰も信じないだろうな──。
──記者会見。私は特別招待枠として、彼の傍で彼の言葉を聞いていた。
「ノーベル賞おめでとう御座います! 先ずは喜びのお言葉をどうぞ」
マイクに向かい、名誉ある賞を受賞した彼がそっと口を開いた。
「あれは人類が平和に暮らすための第一歩に過ぎません。まだ手放しで喜べるような成果は得られていない。本番はこれからです」
私はすぐに嫌な予感がした。
もうアラサーなんだけど私。ヤバくない?
「結婚を約束した方が居ると聞きましたが」
リポーター、ナイスだ。後で寿司を奢ってやる。
「確かに約束はしました……しかし私はまだ彼女に見合うだけの人間になってはいないのです」
「そ、そうなんですか……?」
気迫負けしたリポーターが、一歩引いてしまう。
「先生!」
「……はい」
「俺の研究が人類に多大なる貢献をしたら……その時は……その時こそは……俺と結婚して下さい!!」
「うん、とりあえずデートくらいはしようか? ね?」
そっと優しく笑顔を向けた。
いっその事この場で押し倒してやろうかと。それも良いかもな、と笑って見せた。