幕間1.過去編
その光景は七年経った今でも鮮明に覚えている。
たくさんの悲鳴に似た叫び、赤黒く染まるドレス、拘束される刺客たち。
そして──母親の左腹には鋭利なナイフが刺さっていた。
***
スターツ公爵家は建国時から存在する由緒ある公爵家で、過去には大臣や騎士団長など優れた人間を輩出してきた名家だ。
それ故、一門の人間であることに誇りを持つ者が多いと同時に権力に執着する人間も多く、名家との婚姻を繰り返し行ってきた。
だからこそ、若くして爵位を継いだオズワルドが親族や分家の反対を押し切ってなんの力もない子爵家の娘を公爵夫人を据えたことに親族──とりわけユーグリフトから見て大叔父であるヘロルトは気分を害した。
『オズワルド、なぜあの女を公爵家に迎え入れた? あんな、何の力もない子爵家ごときの女を』
『叔父上、私が誰を妻にしようと貴方には関係ないことです』
『関係大ありだ! 高位貴族の娘を妻にすることがよりスターツの繁栄に繋がるというのに……!!』
『今でも十分です。これ以上、権力に拘ると他家から反感を買うことになります』
『それが叔父に対するに態度か! 兄上を、父親を早くに亡くしたお前を支えてきたのは誰だと思っている! 家門のために言っている儂に口を出すのか!!』
『父が死んだ時、私は既に成人だった。なのに貴方が勝手に口を出してきたのでしょう』
元々オズワルドの方針に口出しすることが多かったヘロルトだが、オズワルドが子爵家の娘──ジゼルと結婚したことで対立は激化し、へロルトは公爵家に来る度にオズワルドたちを詰った。
これがまだジゼルが大貴族の分家筋だったのならへロルトの溜飲は下がったかもしれない。
だが、ジゼルの実家の子爵家は事業を成功して財を築いた資産家でもなければ、大貴族の分家筋というわけでもない普通の下級貴族だったため、ヘロルトの不満は大きかった。
子爵家出身で公爵家には相応しい身分の人間ではなかったから、という理由で親族たちはジゼルに冷たく、ヘロルトのように当主のオズワルドに言えない人間たちは当主に言えない不満の矛先をジゼルへと向けた。
「ユーグリフトはもう七歳か。母親によく似ているな」
「でも子どもの割には優秀らしいわよ。将来は王太子殿下の側近にでもなるのはどう? そうしたら我が家門はさらに権力を持てるわ」
「それより公爵夫人だ。女が剣を握るなんて。女は屋敷で家政をすればいいものを」
「もう近衛騎士じゃないのに剣術の鍛練を未だにしているみたいよ。元はどうであれ、スターツ公爵家の人間だと分かっているのかしら」
「そもそもしがない子爵家の人間が我が一門の本家に入り込むなんて」
「公爵夫人は容姿だけは美しいもの。それでオズワルドを誑かしたのでしょう?」
爵位もあるが女性ながらに剣の才を有し、近衛騎士として王族の護衛までこなしていたことが気に入らなかった親族や分家たちはジゼルが公爵夫人に相応しいマナーや社交術を身に付けても粗探しをし、何かと批判めいたことを囁いた。
能力を重視するくせに子爵家出身だからという理由で母に冷たい親族たちの態度と言動にユーグリフトが不快感を持つのは当然で、そんな親族が大嫌いだった。
「何を……」
詰る親族たちに言い返そうとユーグリフトが声をあげると、側にいた人間が肩に手を乗せてユーグリフトの動きを止める。
「ユーグリフト、やめるんだ」
「っ……母上」
不満げな表情を隠さずに見上げる相手は母で、見上げると同じ白銀の髪に紅玉の瞳を持ってふっ、と微笑みを浮かべる。
そして親族たちを一瞥すると淡々と、落ち着いた声で囁く。
「彼らはもうじき帰宅する。わざわざお前が言い返す必要はない、お前が標的にされるだけだよ」
「平気です。何を言ってきても言い負かす自信がありますから」
「お前は口が立つ方だと分かっているけど、火に油を注ぐ必要はないってことさ。彼らはああ言わないと気が済まないんだ。一々反応してはいけないよ」
「……でも、母上が悪く言われるのは我慢出来ません」
口さがない親族や分家は公爵家の集まりの度にいつも母に聞こえるように囁いていて、そんな母を庇うこと出来ない自分が腹立たしかった。
(何が血筋だ。血筋が全てじゃないのに爵位だけで判断して……)
剣の才を認めず、粗探しばかりする親族。
仮に爵位が良くても能力がなくては意味がないだろうと言いたくなるがそれを言うことが出来ず、悔しくて拳を握り締めるとジゼルが呟く。
「ありがとう、ユーグリフト。お前は優しいね、それだけで私は果報者だよ」
「母上……」
優しく髪を撫でる母を見上げると、嬉しそうに微笑んで自分を見つめる。
そんな母を見て思う。この人はいつもそうだ、と。
いつも親族や分家の悪意のある囁きを物ともせず、毅然とした態度をしていて凛々しい姿を自分や弟に見せていた。
喜怒哀楽がはっきりと出ない人だが、話し方や声音から自分や弟を大切に思っているのは感じられ、怒る自分を常に女性らしくない口調で笑いながら宥める人だった。
嬉しそうに微笑んでいると親族の方を再び一瞥して自分にだけ聞こえるように囁く。
「ほら、ユーグリフト。帰っていくだろう? 彼らが全員帰宅したら剣を見てやろう」
「いいのですか?」
「ああ、だから木剣を取りに行きなさい」
「……! はい!」
母からの指示に年相応の喜びを見せながら返事する。
公爵家の嫡男として既に貴族の子息が学ぶことから当主教育も受けていたが、それと同時に母から剣術と護身術も習っていた。
マナーやダンスを始め、国の歴史に近隣諸国の歴史、貴族の法律に語学に領地運営など七歳にして様々な内容を同時並行で学習していたが、中でも剣術の時間は楽しく、嫌なことを忘れられる安らぎの時間だった。
それ故、二日に一度は鍛練をしていて母から伝授された剣技を吸収していった。
先週教えられた素振りに剣技を披露すると自分を見て母が満足そうに頷いて声をかけてくる。
「よし。ユーグリフト、少し休憩しよう」
「ですが、まだ鍛練出来ますよ?」
「ダメだ。お前はまだ子どもなんだよ? こっちに来なさい」
母に休憩を言い渡され、まだ出来ると進言するも一蹴される。
そして、手招きする母に木剣を持ちながら母の元へ向かって腰がける。
「先週教えていた剣技よく覚えていたね。剣筋もいいし、やはりユーグリフトは剣の才能がある」
「ありがとうございます」
「おや、素っ気ない」
「そんなわけありませんよ。嬉しいですよ」
「どうだかね。でもまぁ、私以上だと思うよ。これは育て甲斐がある」
「…………」
嬉しそうに言うも、己の立ち位置を思い出して無言で視線をそっと伏せる。
確かに剣術の時間は楽しい。それは否定しない。
(それでも、将来なるものには必要ない能力だ)
そう、剣術は楽しいが必要ないものだと心の中で、自分自身で折り合いを付けて自己完結する。
「ユーグリフト? どうしたんだ?」
「……いえ、母上にそうおっしゃってもらえて光栄です」
不思議そうに名を呼ぶ母にニコリと微笑む。
育て甲斐があると言われて嬉しいのは事実だ。それは間違いではない。だが。
「ですが、それは官僚には必要ない能力だなと思っただけです」
母に目を合わせながら、淡々と問いに答える。
実際、剣術は官僚になる上で必要な能力ではないのだから。
「ユーグリフト……」
「…………」
母に名を呼ばれてニコリと子どもらしくない微笑みを浮かべる。
大叔父は子どもにしては優秀な自身に目をかけていて、大叔父からは将来は官僚になるように言い聞かされていた。
『いいか、ユーグリフト。お前は優秀だ。だからこそ、我らスターツ公爵家のために血の滲む努力して政治の中枢に入り込むんだ』
物心がついたころから再三、大叔父から言われてきた言葉を思い出して自分には官僚の道以外ないと納得する。
「……ユーグリフト、官僚はお前がなりたい仕事なのかい?」
「なりたいとは思いませんが官僚になれば政治の中枢には入れるでしょう。スターツ公爵家は過去には宰相も出した名門ですから」
母の問いに再び淡々と自身の考えを述べる。実際、官僚には興味はないが、官僚になれば財務でも内務でも、どの部署でも高官まで上がれるだろうと計算する。
(官僚になりたいとは思わない。でも、違う道を進むと大叔父上が騒ぐのは目に見えている)
あの大叔父のことだ。自身が官僚以外の道を選んだら不機嫌になるのは目に見えている。
そして、それを理由に両親──特に母を詰るのは簡単に予測出来るので官僚になった方がいいのは分かりきっている。
(これでいい。父上も官僚になって今や高官だ。僕も同じ道を進めばいい)
大叔父や親族たちは嫌いだが、そうすることで両親、特に母が詰られないのならそれでいいと判断する。
(僕が我慢したら弟のヴェズリーは過剰な期待を背負わずに済む。それならそれでいい)
どのみち、自分には官僚以外道はないのだからと一人納得する。
「……ユーグリフト」
「はい? いった……!?」
だから母から優しい声で呼ばれて顔を上げると額を指で弾かれるとは思わなかった。
思わぬ痛みに声を上げて抑えながら母を見ると不敵な笑みを浮かべていて、不思議と背筋が冷えていく。
「は、母上……? 何を……?」
「何って、仕置きだよ。まったく、何を言い出すかと思えば」
「えっ……?」
未だ額を抑えながら恐る恐る母に尋ねると、眉を上げながら呆れたような声を上げる。
「大方、大叔父様から言われているのだろうがその通りにしなくていいんだ。ユーグリフトの人生はユーグリフトのものなんだから」
「ですが、そうしたら父上と母上が大叔父上にまた悪く言われます」
「はっ、子どもがそんなこと考えるんじゃない。これは私たちと大叔父様との問題だ。お前が色々と難しく考える必要は全くないんだ」
指摘するとなんてことないように即座に切り返してくる。
そんなこと、と母は言うが他人事に思えずにいると、母の瞳が怒りから優しい瞳に変化する。
「ユーグリフト、お前がなりたいものはなんだい?」
「なりたいもの……?」
母からの優しい声音による問いに戸惑い、思わず口ごもってしまう。
(なりたいもの……? ……そんなこと、考えたことなかった)
物心がついた頃から大叔父を筆頭に親族たちにずっと官僚になることを求められてきたから。
その官僚にならなくてもよいと言うが、いきなり何になりたいのかと考えたことない内容を問われて、分からなくて困惑する。
疑問符が頭を埋め尽くしていると隣に座る母が助言してくる。
「何かないのかい? 好きなことや得意なことを仕事にしてもいいんだよ」
「……好きなことや得意なことを?」
母の言葉を繰り返して反芻して好きなことや得意なことについて思い出す。
勉強は好きだ。学ぶのは楽しいし、知識として身に付くのは嬉しい。
他国の文化にも興味はある。自国とは異なる産業や土地や気候は興味深くて屋敷の書物を次々と読んでしまうほどだ。
でも、それよりも好きなのは剣で。
(今まで、官僚しかないと思っていたから考えたことないけど……)
周囲の親族には会う度に優秀だと褒められ、官僚になるように言われ続けてきた。
だから自分には官僚しか選択肢がないと思っていたが、もし、他に選択肢があるのなら──。
「何かないのかい?」
「……騎士という職業に興味があります」
「騎士に?」
「はい」
驚いたように呟く母に頷きながら公爵邸の美しい庭を見つめる。
「騎士という武力のおかげで戦争もなく、治安も維持されています。騎士は国家を保つ上で必要不可欠な仕事で、母上のように国や人々を守る仕事は立派だと思います。なので、可能であれば騎士になりたいなと思います」
「ユーグリフト……。子どもらしくない発言だね」
「そうですか?」
淡々と騎士について語ると母からそう言われて首を傾げる。自分では全く疑問を感じないのだが。
そう考えていると、母が嬉しそうにユーグリフトに頷く。
「ふふ、そうか。なら、騎士を目指しなさい。勿論、途中で夢が変わってもいいよ。私はお前の気持ちを尊重するよ」
「母上……」
元騎士とはいえ、否定させるかもしれないと僅かな不安を抱えながら呟いた騎士の夢だったが、それを否定せずに尊重してくれたことでほっと息を吐く。
「しかしユーグリフトが騎士になりたいと思っていたとはね」
「以前から母上から近衛騎士の仕事や誇りを聞いていたので」
「そうなのかい? はは、それは嬉しいね。そうだね、騎士は危険も多いが大切な人や国を守れる誇り高い仕事だよ。私もずっと近衛騎士をしようと思っていたからね」
「そうなのですか? ではなぜ父上と結婚を?」
「ん? それは秘密だよ」
はは、と公爵夫人らしからぬ笑い声をして自分の問いを躱す。躱されたな、と思うもこの笑いの母から聞くことは難しいと判断して聞くことを諦める。
「ユーグリフト」
「はい」
返事をすると母が嬉しそうに口角を上げて自分を見る。
「お前たちのことは私が守るよ。でも、もし私がダメになったらお前がオズワルドとヴェズリーを守っておくれ」
「母上……縁起でもありませんよ」
「はは、そうだね。安心しておくれ、私は丈夫だからそう簡単には倒れないよ」
からからと笑う姿に呆れながらも、公爵家の騎士より強い母を知っているので特に気にも留めずにその言葉を頭の片隅に追いやった。
そして愚かにも平和な日常は約束されていはずがないのに気付かなかった。
母親の癖は地味にユーグリフトも受け継いでいる設定(63話のメルディの額を弾いたこと、前話のエルルーシアの頭を撫でる場面)。