48.悪意
音楽演奏会が終了して数日後。五月の初めの頃にそれは起きた。
昼食後に教室に戻って午後の授業の準備をしているとオーレリアが小さく声をあげた。
「……え」
声をあげるオーレリアに目を向けると手には小さな紙切れを持っていて、意識ここにあらずの状態で紙切れを見つめている。
「どうかした?」
「い、いえ。ちょっと職員室へ行ってきます」
「……?」
やや裏返った声で即答すると急いだ様子で教室を出ていく。
「おーい、オーレリアちゃんー。そっちは職員室と真逆だよー。って、聞こえないっか」
「……なんか様子がおかしかったわよね」
さっきまでは三人で食堂で食事をして楽しそうに笑っていたのに。
そう、あの紙切れを見るまでは。
「……追跡するわよ」
「ラジャー!」
兵士の敬礼をするアロラとともにオーレリアのあとを追う。距離があっても私の体力ならあとを追うのは造作もないことだ。
方向は職員室とは真逆の方を進んでいて、どこへ向かっているのだろう。急いだ様子で階段を下りていく。
そして校舎内を出ると中庭の奥へと進んでいき、小さな池の前まで進むとピタッと立ち止まる。
なので私とアロラも立ち止まって校舎に隠れて息を潜める。
「はぁ、はぁ……。メルディさんや、早くない? か弱いご令嬢の体力を考え……むぐぐぐっ」
「しっ、黙って」
ぜぇぜぇ、と息を吐きながら文句を言うアロラの口を軽く手で塞ぐ。オーレリアに気付かれるので静かにしてほしい。
池は小さいながらも王侯貴族が通う学園なのできれいに管理されている。確か池には鯉が泳いでいるはずだ。
「……今度はこれか」
「…………?」
ポツリ、とそう呟くオーレリアの顔は角度の問題で見えない。
そして呟くと近くにあった少し長い枝を手に持って池に向けて何かを引き寄せる。
「────」
その行動に凝視すると枝を使って自分の方に引き寄せているのは教科書だった。……どうして。
呆然としていると上の校舎からクスクスと声が聞こえる。見たら分かるけど……誰かがわざとしたな。
「……アロラ、上に仕掛けた人間がいるかも。よく見ていて」
「へっ? うわぁ、典型的で悪質だねぇ。了解っと」
「じゃあ行くわ」
そしてアロラから離れて上にいる人間にも聞こえるように張りのある、凛とした声を意識して呼びかける。
「オーレリア」
「! ……あぅ、め、メルディアナ様っ……」
肩を震わせておそるおそる顔をこちらに向けるのはオーレリア。見るとバツが悪い顔をしている気がする。
「何しているの?」
「え、えっとっ……」
「…………」
私が来た瞬間、上から聞こえていた笑い声が止まる。……本当、誰だろう。すごく腹が立つ。
視線を上に向けるとさっと顔を隠す。……顔は見えなかったけど赤髪に金髪に茶髪がいたな。
思うことはたくさんあるけど、今は先に教科書を回収すべきだろう。
「貸して。取るわ」
「え。そんな! メルディアナ様にご迷惑──」
「いつまでもゆっくりと引き寄せていたら授業遅刻するわよ。貸して、コツがあるから」
そう言ってオーレリアから枝を譲り受ける。
小さい頃、アルビーが公爵領の大きな溜め池に物を落としてしまってそれをライリーと協力して回収したことがあってコツは心得ている。まさか生かす時が来るなんて思わなかったけど。
そして枝を使用してささっと教科書をこちらへ誘導して水浸しの教科書を手に取る。……ちょっと待って。これ、オーレリアが受講している次の授業の教科書じゃないか。
「め、メルディアナ様っ! 手が汚れっ……!!」
「手? ああ、こんなもの別にいいわよ。手を洗えばいいだけだもの」
狼狽えるオーレリアを落ち着かせるように冷静に答える。でも本人はまだ狼狽えている。そんなことより私は聞きたいことがあるんだけど。
「それより、どうしてここにあるって分かったの?」
「……その、机の中に紙切れが入っていてそこに教科書はここにあると……」
「へぇ、わざわざ教えてくれたのね」
乾いた笑みがこぼれる。わざわざショックを与えてくれるとは。……本当、イライラする。
「それで、いつからされているの?」
「…………それ、は」
「嘘はやめてね。“今度は”ってしっかり耳に入っているから」
「……っ!」
即座にそれも付け加えて嘘を防止する。ぎくりとする様子から嘘をつくつもりだったらしい。
「オーレリアちゃん、正直に話してよ。私たち、友達でしょう?」
「す、すみません。……先週からです」
アロラがやって来て友達と言ってやっと白状するけど……先週か。直接見るまで気付かなかったなんて。なんて不甲斐ないんだ。
「……それで、こんなことされてたの?」
「いえ、そんな! ただすれ違いざまに少し言われるくらいで……。こんなことされたのは今日が初めてですから……!」
必死になって弁解してくる。その様子から嘘ではないと窺えるけど……すれ違いざまか。すれ違いざまとなるとオーレリアが一人で受講している移動教室の時だろう。
……二年生になって静かだったから安心していたけど、どうやらくだらないことをしている人間がいるらしい。
昼休み前半は昼食を摂るために皆教室から出ているため他クラスの人間でも簡単に入り込むことは出来る。
なので犯人特定は難しい。……まぁ、クラスメイトが関わっているとは否定出来ないけど。
「……どうして黙っていたの? 言ってくれたらよかったのに」
「すれ違う時にちょっと言われるくらいだったので……。こんなことで一々メルディアナ様たちを心配かけたくなかったので……。でもすみません、結局ご迷惑かけてしまって」
説明を終えるとオーレリアが謝罪してくる。……私は謝ってほしくて説明を求めたわけじゃない。
なのに結果的にオーレリアを謝らせてしまった。……これは私の物言いのせいだろう。
「……こっちこそきつい言い方になってごめんね。それと、気付かなくてごめんね」
「私もごめんね。全然気付いてあげられなくて」
「そんなのいいんですよ! 私もすれ違いざまに少し言われるくらいで実害がなかったので……! 気にしないでください。私の方こそごめんなさい」
謝るとまたしてもオーレリアが謝る。このままじゃ謝り合戦になりそうだ。教科書をどうするかも考えないといけないし、ここで切り上げたい。
「……じゃあどちらも悪かったことにしましょう。このままじゃ埒が明かないわ」
「そうですね。それより教科書……水浸しになっちゃったな……」
オーレリアが持つ教科書はずぶ濡れでとても次の授業で仕える代物ではなくなっている。
しかもその科目……古語分析の担当教師は怖い人で有名で忘れたら叱責する可能性もある。……まぁ、それが狙いなんだろうけど。
「どうする? 次はクラス合同で他のクラスから借りられないよね? 頼れるアテある?」
「いいえ……。一学年上に領地が近い知り合いがいますが持っているかどうか……。合同授業だし、借りられないから忘れたまま行くしかないですね……」
「うーん、こればかりはなぁ……」
困ったようにアロラとオーレリアが話す。
次の時間はクラス合同授業なので他クラスから教科書を借りることすら出来ない。
水浸しの教科書は二年生から使う教科書で一年生は持っていないし、持っているのは二年生と上級生の三年生のみだ。
「……ちょっと待って」
諦めた様子の二人に待ったと声をかける。頭を回転してよく思い出す。……確かこの科目は従兄のライリーが去年取っていたはずだ。
時計を見ると昼休みも後半。教室に戻っている可能性は十分ある。なぜならライリーはわいわいと騒いでいる場所より人が少ない教室や図書館の方が好きだから。
「ないのはそれ一冊だけなのよね?」
「? はい……」
「じゃあ教室に戻って待ってて」
「メルディ、アテがあるの?」
「多分ね。だからまずは教室に戻りましょう」
提案してとりあえず一度教室へ戻って私だけ三年生の棟へ向かう。
ライリーの次の授業は知らないのでゆっくりしていたら移動教室で移動しているかもしれない。急いだ方がよさそうだ。
早歩きで三年生の棟へ向かうとライリーがいるクラスへと歩いていく。
そして入り口でライリーを探して見慣れた赤髪の横顔を見て声をかける。
「ライリー」
「? メルディ……?」
入り口で名を呼ぶと席で静かに読書をしていたライリーがこちらを見て目を丸める。
なので手招く仕草をして呼ぶとライリーがこちらへやって来る。
「珍しいね。メルディが上級生のクラスに来るなんて。どうかした?」
「ちょっとお願いがあるんだけど。去年古語分析受講していたわよね。教科書貸してくれない?」
「古語分析?」
復唱するライリーに頷く。夏休みにウェルデン公爵領でお世話になった時に確か古語分析の課題をしていたはずだ。
「お願い。困ってるの、寮にあるのなら取りに行ってもらいたいんだけど……」
「午前授業だったからそれは大丈夫だよ。でもメルディ、古語分析取っていたっけ?」
「それは……」
ライリーの疑問に詰まってしまう。ライリーは私が古語分析を取っていないことは知っている。なのに貸してほしい。そりゃあ疑問に思うだろうなと考える。
でも今は時間がない。次は私も移動教室だからあとで説明しよう。
「友人が教科書なくて困ってて。ごめん、あとで説明するから貸してくれない?」
「ふぅん、友人がねぇ……」
両手を合わせてライリーに頼み込む。勉強大嫌いなアルビーはそんな科目は当然受講しないし、他にも知り合いの先輩はいるけどその科目を受講していたとは限らないし出来たら従兄のライリーに借りたい。
「ま、放課後返してくれるのならいいよ。いるのは教科書だけ?」
「ええ」
「じゃあちょっと待って」
了承を告げるとライリーが呟いて机から教科書を取り出して私に差し出す。よかった、貸してくれて。ほっと内心息を吐く。
「ありがとう、ライリー」
「いいよ。次に使うのなら早く行った方がいいよ。遅刻したら減点対象だから」
「うん。ありがとう」
改めてお礼を言うとニコリと人好きの笑みを浮かべて二年生の教室に戻るように催促したので早歩きで自分のクラスへと戻った。
「オーレリア、お待たせ」
「メルディアナ様。……それは」
「従兄のライリーに借りたの。ライリーもこれ受講していたからね。放課後返したらいいって言ったからとりあえずこれで今日は対処しましょう」
「ウェルデン先輩から……? よ、よろしかったのですか?」
「ええ。快く了承してくれたから。ほら早く行って。教室遠いでしょう?」
「あ、ありがとうございます……!!」
教科書を受け取るとオーレリアがほっと安堵した表情を浮かべる。よかった。
オーレリアがもう一度礼を言って急ぎ足で教室を出る。私たちも急いだほうがいい。ライリーが言ったとおり遅刻は減点対象だから。
「じゃあ私たちも行きましょうか」
「そうだね。急がないと遅刻しちゃう」
そして私たちも次の授業の教室へと向かい急ぎ足で歩いたのだった。