ハロー・マイ・ロンリー・プラネット(1)
風が吹いている。柔らかなそれは、豊かに咲いたバラやマリーゴールドの香りを運びながら、ジョバンニの髪を優しくなでた。噴水からは心地良い水音が聞こえてきて眠気を誘う。ベンチの背にもたれ掛かってぼんやりとまどろみながら、ジョバンニは、きれいに澄んでいる夜空を見上げた。時刻は午後七時五十分。もうそろそろ、あいつがやってくる頃だ。
この広場の中心である噴水の目の前に現れたログインのエフェクトに、ジョバンニは右手を上げてひらひらと振って見せる。
「遅かったな」
ベンチにゆったりと腰掛けているジョバンニの姿を見て、その人物はあきれたように肩をすくめた。
「おまたせ。何だ、また庭いじり?」
「うるせー。これは俺の趣味なんだからな。文句つけんなよ」
「はいはい」
トールの相づちは、いかにも適当だったが、ジョバンニは、ちろりとひとにらみするにとどめる。
薄茶色の髪にとび色の瞳は、現実世界のトールとほぼ変わらなかった。違うのは、眼鏡をかけていないことくらいだろうか。トールがいちユーザーとして取得した、cosmo vita内でのアバターだ。今のところこうしてジョバンニのところにちょっかいをかけにくるくらいだが、勉強と仕事の息抜きにちょくちょくログインしているらしい。
はじまりのおわりがデリートされ、cosmo vitaに平穏が訪れてから約二ケ月。ハルカとトールは、少しずつ少しずつ、今まで過ごすことのなかった二人の時間を積み重ねてきたように思う。
トールは、相変わらず生意気で小憎たらしいが、話してみればそれなりに優しさと愛きょうのあるやつだ。オフラインでの会話も少しずつ増えてきて、家族が面食らっているほどだった。
「ログアウトする頃に夕飯にするって母さんが言ってたよ。今日はハンバーグだってさ」
ジョバンニの隣に腰掛けたトールが、柔らかい笑みを浮かべながら言う。
「ああ……。そりゃあ、楽しみだな」
ジョバンニは少しはにかんだような表情でそう言って、ウィンドウを確認した。六時五十五分。夕食は、大体八時ごろになるだろうか。
はじまりのおわり事件の解決からジョバンニの――ハルカの生活は、少しずつ変わり始めている。今まで受け入れられなかったものを少しずつ認め始めているのは、きっと、カムパネルラが大切にしてくれた自分をいたわってやろうと思えたからだ。そして気付いた。世界は存外優しく、柔らかな手触りをしているのだということに。
――忘れないで。君は、世界に、ちゃんと愛されてるってこと。
カムパネルラの遺した最期の言葉は、ジョバンニの在り方と、見える世界を大きく変えた。かたくなだった心を溶かしたのは、きっとあの澄んだ瞳だ。心のよどみをどこまでも見透かす、色鮮やかなスカイブルー。
「エリザベッタはどうした? 今日来られるって?」
ジョバンニがそう尋ねると、トールは少し意地悪気に笑ってわざとらしく肩をすくめて見せた。
「実はさっき、彼女に仕事のデータを追加で送ったんだ。なかなかの量だから、きっとひぃひぃ言ってるんじゃないかな」
「おまえ根性悪ぃな。よりにもよって今日送るなんて……」
半目になってにらみつけるジョバンニに「何とでも言いなよ」とトールは笑う
現在エリザベッタは、トールの下で働いていた。彼にとっては初めてできた部下だ。何だかんだ言いながらも、二人はうまくしてやっているらしい。
しかし、トールと働くことになるなんて、エリザベッタは夢にも思わなかっただろう。
ジョバンニは、穏やかにほほ笑みながら、一度だけリアルで彼女と対面した時のことを思い出していた。