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おわりのはじまり(3)

 いざ目の前にしてみると、それは不可解を通り越して異常と形容する他なかった。ほんの握り拳ほどの大きさに、この世のありとあらゆる一切の闇が凝縮されている。触れたら最後、宇宙服ごと呑み込まれてしまいそうだった。そのあまりの存在感に、ジョバンニは体中の皮膚がざわりとあわ立つのを感じる。


「……へぇ、結構な貫録じゃないの」


 エリザベッタの声にも動揺がにじんでいた。しかし彼女はあくまで気丈に振る舞うと、手元で立ち上げた幾つかのモニターを操作する。


「でも無駄よ! このエリザベッタちゃんに解析できないものなんて、この世にないんだから!」


 ひらめくような速さで、彼女の指先がタイピングを開始した。しかしすぐに鳴り始める複数のアラート。


「侵入不可。ブロックされました」

「ファイアウォール突破できません」


 よほど頑強なセキュリティがかかっているのだろう。彼女は諦めていない様子だが、どう見ても歯が立っていない。


「やめた方がいいよ。そいつはちょっと頑固だから」


 至って冷静な声でそう告げたカムパネルラは、すっと二人より前に出ると、黒よりも黒ピウ・ネーロ・ディ・ネーロと正面から向かい合った。そうして振り返りざまににこりと笑う。二人の目を見て、何だかひどく名残惜しそうに。


 瞬間。


 カムパネルラの胸の辺りに、小さな、しかし強烈な白い光がともった。ピウ・ネーロ・ディ・ネーロが黒よりも黒ならば、さしずめその光は、白よりも白といったところか。どこまでも清浄で、はるかかなたを照らし出すことのできる確かな照度。


「カムパネルラ……それ、は……?」


 喉の奥がからからに乾いて、うまく言葉にできない。でも、本当だったら今すぐに声を荒げて問いただしてやりたかった。


 どうして。どうしてもう二度と会えないみたいな顔をして自分たちに笑いかけたのかって。


「これは、F因子。俺は、そう呼んでる。はじまりのおわりフィーネ・クレアシオンが俺の身体を(むしば)むかわりに残した、残さざるを得なかった固体識別情報のかけらさ」


 彼の表情はとても穏やかだった。まるですべてを諦めてしまった、いまわの際の病人みたいに。


「〈カムパネルラ〉というアバターを侵食したF因子を、黒よりも黒ピウ・ネーロ・ディ・ネーロに読み込ませることによって、この計画は終わりを迎える。はじまりのおわりフィーネ・クレアシオンは消去され、めでたくcosmo vita(コスモ ヴィータ)は平穏を取り戻すってわけさ」


 淡々と語るカムパネルラに、ジョバンニはかすれた声で問いかけた。


「そんな……そんなことしたら、おまえはどうなるんだよ!?」


 ずっと胸の奥でくすぶっていた嫌な予感が、風にあおられた炎のようにめらめらと燃え上がる。嫌だ、嫌だ、失いたくない。そう思って泣き出しそうなのは、彼が今にも消えてしまいそうにはかない顔で笑うからだろう。


「ばかだな。どうしてそんな顔するんだい。俺はこのために生まれた、ただのいれものだっていうのに」

「――ちょっと! 何言ってるのよ!」


 エリザベッタが取り乱した声を上げる。みっともなく裏返った、悲痛な声だった。

 慌てふためく二人を慈しむような瞳で見つめながら、カムパネルラは続ける。


「みせかけの体に、ハリボテの心。それにしてはとんでもなく楽しくて、とんでもなく有意義な時間だった。ありがとう。そして……」




 ――さようなら。




 彼の唇がその五文字を形作った瞬間、ビーッとこれまでとは比べ物にならないくらいの音量でアラートが鳴り響いた。


「警告! 警告! 三十秒後に自律モードがオフになります」


 合成音声がけたたましく告げる。


「カムパネルラ!?」


 二人がのぞき込んだ彼の瞳は、もはや光を映していない。いつも希望に満ちあふれてきらきら輝いていた二つのそれは、ひどく無機質で冷たい赤色をしていた。




「マニュアルコントロールモードオン。マスターのアクセスを確認しました」


 アラート交じりのガイド音声が、混乱する二人を突き放すように冷たく言い放つ。


次にカムパネルラの形の良い唇が開かれた時、発せられたのはもう彼の言葉ではなかった。


「よく頑張ったよ、カムパネルラ。おまえはもう休むといい」

 



 その口からこぼれ落ちたのは、落ち着いているけれど、少し幼さの残る高めの声だ。ジョバンニには――いや、ハルカには、いやというほど聞き覚えがある。


「おまえ……」


 カラカラに乾いた喉がほとんど吐息のような声を上げた。


 すっとこちらに向けられる、警告灯のような赤い瞳。


「もう少しで任務は完全終了だ。二人とも下がっていて。……そっちの聞き分けの悪い方は、特に、ね」


 いつもそうだ。嫌みったらしい物言いで正論ばっかり吐いて、気が付けばいつもハルカよりずっと、ずっと先にいる。


 そしてハルカの大切なものを端から端まで奪っていくのだ。


「トール……! どうしておまえが……!」


 つかみかかろうとしたジョバンニを、カムパネルラは――いや、カムパネルラの体に宿ったトールはふわりとかわした。


「ちょっと……何よ。どういうことなの」


 ぼうぜんとつぶやくエリザベッタを横目に、トールはメニュー画面を操作して一つのデータを拡大して見せる。


 細かな文字が敷き詰められたそれは、どうやら報告書のようだった。下の方には大きな空白がある。ジョバンニは作りかけのその文書を、つらつらと視線で追った。そこには、カムパネルラがはじまりのおわりフィーネ・クレアシオンにむしばまれてからの記録が克明に記されている。文中には、ジョバンニやエリザベッタの名前もあった。そしてタイトルはこうだ。

『自律性AIを用いたcosmo vita(コスモ ヴィータ)内部におけるエラーの観察、および排除の経緯』


 提出先の欄には、見慣れたロゴとともに『ミッドカンパニー』と記されている。ハルカの父とトールの所属する、デバイス販売の最大手企業だ。


「NNR社の人間による内部告発を受けて、ミッドカンパニーは秘密裏にはじまりのおわりフィーネ・クレアシオンについて捜査していた。カムパネルラは、この一連の問題を解決するために投入された自律型AI――俺が長いこと研究して、この手で組み上げたプログラムだ」


 トールは淡々と言いながら、手元の端末を操作する。


「カムパネルラをはじまりのおわりフィーネ・クレアシオンに食わせることによって、俺たちはF因子を手に入れた。それを黒よりも黒ピウ・ネーロ・ディ・ネーロで読み込めば、この致命的なエラーもめでたくデリートだ。もうすぐ君たちも、このゲームの中での平穏な暮らしを取り戻すことができる」


 ジョバンニの拳はきつく握られ、ぷるぷると小刻みに震えていた。怒りにだろうか。悲しみにだろうか。湧き上がる感情の正体は、彼自身にもよくわからない。ただ、そういった類の感情をおぼえているのは、どうやらジョバンニだけではないようだった。


「あんた……あのトーヘンボクと知り合いなの?」


 声を震わせながら、エリザベッタが尋ねる。


「ああ……。弟、だよ。義理のだけどな」


 そう答えるジョバンニの声もまた、ひどくかすれていて頼りなかった。


 鼻腔が締め付けられるように苦しく、ただでさえ良好でない視界がうすぼんやりとかすむ。呼気が喉の奥に詰まって、腹の底で渦巻いている感情がうまく言葉にならなかった。


「トール……どうして……」


 そろそろと伸ばした手の先で、トールが少しだけ笑った。


 眉尻をうんと下げた情けないその顔は、今までトールが絶対に人に見せようとしなかった表情だ。


 細められた目尻も、ゆるく上がった口角も、それは確かに笑っているのに。


「あんたには一生わからないさ。……兄さん」


 光を宿さない二つの瞳が、悲しげに揺れたような気がした。

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