おわりのはじまり(2)
彼の手がそれに触れた瞬間、合成音声によるアナウンスとともにすべてのディスプレイに警告文が表示される。
「ワープドライブモードに移行します。各員座席について、安全を確保して下さい」
鳴り響くアラートにジョバンニはごくりと唾を呑み込んだ。次いで、ガクンと車体が大きく揺れる。
身構える前に、今までに体験したことのない圧力が全身にかかった。頭のてっぺんから爪先までを、残さず押し潰されるような感覚。これが一般に言うGというやつだろうか。クッションのきかない背もたれに体中が痛んだが、それも一瞬のことだった。
ふっと強烈な圧力から解放され、大きかった揺れも次第に収まっていく。少しだけ余裕のできたジョバンニは、正面のモニターを真っすぐ見つめた。ジョバンニは知りたかったのだ。今自分たちの身に何が起こっているのか。そして、この船がどうやって、どこに行こうとしているのかを。
操縦席から向かって右奥にあるモニターが、強い光を映し出した。やがてその輝きはすべてのモニターに伝播して、コックピットはまばゆい光に包まれる。たまらず目を閉じてしまったジョバンニには、一体この宇宙のどこがどのように光っているのか、まるでわからない。しかし閉じたまぶたの裏側で、何かが起ころうとしているのだということは、誰に言われるでもなく理解することができる。
何の音もしなかったけれど、それは恐らく爆発だった。まぶた一枚を隔てた向こう側で、焼け付くような閃光が走り、一瞬で四散する。急いで目を開けると、どのモニターにも粉々になった光の破片が映し出されていた。ふわふわと舞うそれは触れれば溶けてしまう粉雪のようでもあり、木々の疲れを癒す雨のようでもある。今までに見たことのない光景だったけれど、ジョバンニは不思議と怖くはなかった。ただそのあまりの神々しさに、ぽかんと口を開けてモニターに見入ってしまう。
「――うん、安定した。もうベルトを外しても大丈夫だよ」
カムパネルラはそう言って、ふぅっと息をついた。
「全く! こっちはレディなんだから、もっと優しくエスコートしなさいよね!」
ぷりぷりと憤慨しながらエリザベッタもベルトを外す。
「それで? 目的のものは?」
真剣な声音で彼女は尋ねた。
「せっかちだな。ちょっと待ってってば」
カムパネルラはそう言って肩をすくめると、素早く手元の端末を操作する。幾つかのモニターの視点が切り替わり、切り取られた宇宙の断片が幾つも、何度も映し出される。それを繰り返すうちに、ひとつのモニターが不可解な黒い点を捉えた。
「ビンゴ!」
カムパネルラはそう声をあげると、その黒い点を拡大して見せる。
「見つけた……。これが、黒よりも黒……」
その存在は、一言で言えば不可解だった。計器が算出した数値によると、人の握り拳ほどの大きさしかない。
しかし、星々を育む宇宙空間の中にぽつねんと存在する黒よりも黒は、触れるものすべてを呑み込んでしまいそうに深く、底知れない。その名にこれほどふさわしいものはないだろうと、ジョバンニは納得せざるを得なかった。
「……思ったよりも小さいんだな」
ジョバンニは混ぜっ返すようにそう言った。目の当たりにした圧倒的不可解に対する恐怖を押し隠して、自分自身を奮い立たせるためだ。
「君はここに残っていてもいいよ」
しかしそれもカムパネルラには通用しない。
気遣わしげな視線に引きつり笑いを浮かべながら、ジョバンニはひらひらと右手を振る。
「冗談だろ。ここまで来て」
待ちぼうけなんてごめんだときっぱり言い切ると、カムパネルラは「そうかい」と笑って小さくうなずいた。
エリザベッタは、早くも宇宙服を装備して、ヘルメット越しに二人を見つめている。
「俺たちも行くよ。黒よりも黒を実行するには、直接接触する必要がある」
カムパネルラはそう言いながら自身のメニュー画面を操作した。
「でもお前、ここに残らなきゃって……」
先日聞いた情報をもとに、ジョバンニが尋ねる。
「そんなこと言ってる場合じゃないだろう」
カムパネルラは肩をすくめて、所持品のリストを表示した。
「宇宙服は?」
「ちゃんと入手したよ。正規のルートでね」
そう言うと宇宙服を着用して、ジョバンニに合図を送った。
その意味を察知して、ジョバンニもまた所持品リストから宇宙服を選択、装備する。
「全員、通信オーケーかい?」
カムパネルラの言葉に、二人はこくりとうなずいた。
「それじゃあ、行こうか」
彼の一声で、エリザベッタ、ジョバンニ、カムパネルラの順にフェロヴィーアからダイブする。三人は、三つの白い点となって広大な宇宙空間に浮かび上がった。
「目標は右手。慎重に進むよ」
張りつめた声に心配になって、ジョバンニは思わず後ろを振り返る。
カムパネルラは小さくほほ笑みながら、人差し指と親指をくっつけて合図をしてみせた。オーケーオーケー、大丈夫、全く問題ないよ。いつものように、彼はそう言って笑う。まるでジョバンニのことを安心させようとでもしているみたいに。
でも今日は、今日だけは、なぜだか彼の言うことをうまく信じることができないのだ。
少し迷ってからジョバンニは、弱々しいほほ笑みとともに彼と同じ合図を送る。それを認めた空色が、すっと柔らかい角度で細められた。さぁ、行こう。彼が笑う。ジョバンニも笑う。
「何してんのよ! 置いてくわよ!」
エリザベッタの声にせかされながら、二人はゆっくりと移動していった。黒よりも黒い最上の漆黒、ピウ・ネーロ・ディ・ネーロ、彼らの旅の終着地点へと。




