涙をたたえて(1)
「ログアウト、確認しました」
合成音声のアナウンスとともに現実世界へと帰還したハルカは、そっと体を起こすとデバイスの外に出て息をつく。どうやら思っている以上に疲労しているようだった。四肢が、そして頭が鉛のように重い。よろよろとベッドに倒れこむと、すぐに強い眠気に襲われた。
眠りの中で、ジョバンニは海をたゆたっていた。心地良い波に身を任せていると、どこが上でどこが下なのかもわからない。
ただ、酸素が欠乏している時の息苦しい感じだけがある。
不意に、自分ではない何かの存在をその場に感じた。
鼓膜ではなく、ハルカの肌をじかに震わせる、可聴域を外れた音の連なり。
「……、……、……、……」
救難信号?
違う、あれは人の声だ。今にも枯れてしまいそうな喉を震わせて、必死で何かを訴えている――。
「……なら、ジョバンニ」
伸ばした手は、届かなかった。
ハルカが両目を開けた瞬間、その声も、気配も、跡形も無く消え失せてしまったからだ。
つけっぱなしだった明かりがいやにまぶしい。時計を見ると時刻は午前零時過ぎ。どうやら夢を見ていたのは、少しの間だけだったようだ。すっかりあがってしまった呼吸を整えながら、ハルカは小さく寝返りをうつ。
汗ばんだ背中にシャツが張り付いてひどく不快だ。シャワーを浴びに行きたいところだったが、中途半端に眠ってしまったせいで体がだるい。起き上がる気力が湧かない今、ただいたずらに進んでいく時計の秒針は、ハルカをいら立たせた。うっとおしいな、せかすなよ。ぐるんともう一度体を反転させると、赤ん坊のように背中を丸める。
視界の端で一瞬、何かがきらりと星のように光った。サイドテーブルの上に転がった一粒のチョコレートは、トールから渡されたものだ。少し迷ってから、手を伸ばしてそれをつかむ。指先で包み紙を開いて、中身を口の中に放りこんだ。
じんわりと、心地良い甘さが広がった。耳の下がきゅっと痛んで、口の中が唾液で満たされるのがわかる。奥歯でかみ砕くと、カリッと音がした。ナッツの入ったチョコは、ハルカの好物だが、トールがそれを知っていたのかは、ハルカにはわからなかった。
つうっと静かに、何かの反射みたいにこぼれた涙がハルカの頬を伝った。水滴はすぐに枕に吸い込まれて消える。ハルカは右手で涙の痕を拭うと勢いよくベッドから体を起こした。
クローゼットからバスタオルと着替えを引っ張り出して、室内灯を消す。このままシャワーを浴びて、すっきりしたら眠ってしまおう。幸い明日も休日だ。朝からcosmo vitaにログインできる。
そうしたら終わる。何もかもが。カムパネルラはcosmo vitaからログアウトできるし、ジョバンニも自分の星で平穏に過ごせるようになる。それでいい。それがいいのだ。
ハルカは寝静まっているだろう家人を起こさないように、足音を忍ばせながら部屋を後にした。ふらつく足の裏ではひたひたと冷たいフローリングが肌に貼りつく。
「何だ、まだ起きてたの」
ダイニングからそう声をかけられて、ハルカの背がびくりと震えた。
「そんなにびっくりしなくたっていいだろう。同じ家に住んでるんだから」
トールはそう言って肩をすくめた。彼の手には、ブルーのマグカップが握られている。
「どうせ今日も一日ゲームしてたんだろう。とっとと寝ろよな」
いつも彼は見透かすような口調でハルカのことをからかったり、ばかにしたり、時には年下の癖に小言すら言う。ハルカは、いつもそれにいら立っていた。的を射ているからなおさら腹も立った。
しかし、今のハルカの目には、そんなトールがどことなく気遣わしげに見える。
ハルカは思い切ってかまをかけてみた。
「……あれ、うまかったよ」
「え?」
「おまえ、俺がナッツ好きだって知ってたんだな」
瞬間、トールの顔がいたずらに失敗した子供のようにくしゃりとゆがんだ。
「あんだけバクバク食ってれば、嫌でも気付くだろ!」
しかめっ面のままマグカップの中身を飲み干すと、シンクにそれを置いて、トールはくるりときびすを返す。
「下らないこと言ってないで、早く寝たらどうだい。ゲームもほどほどにしないと、より一層ばかになるぞ!」
憎まれ口にも全く腹が立たないのは、きっと知ってしまったからだ。彼のくれたバースデープレゼントが、ハルカの好物だったということを。
無愛想な言葉。引き結ばれた口元。
こうして見てみると、不器用なところは似ているのかもしれない。
妙なくすぐったさに下手くそなはにかみ笑いを浮かべると、ハルカは真っ直ぐにシャワールームへと歩きはじめる。先ほどまでよりもしっかりとした、危うげのない足取りだった。




