ひとりぼっち、ふたりぼっち(1)
デバイスから出てきたハルカを迎えたのは、こうこうとともる白い明かりと、耳が痛くなりそうな静寂だった。引っ張り出したワーキングチェアに気だるい体を預けると、そのまま見るともなしに真っ白い天井を見上げる。
最近目まぐるしい変化とハプニングに追われて、cosmo vita内での平穏な暮らしはすっかりどこかへ消えてしまった。この数日で、ハルカの分身であるジョバンニの周囲には様々な事件が巻き起こっている。
問題はその現実を、存外悪くないと思っている自分がいることだ。わかっている。もしかしたら生命を脅かすかもしれない危機に直面していることは。それなのになぜ、自分はこんなにも高揚しているのか。
そう考えた時に思い出されるのは、カムパネルラの底抜けに明るいあの笑顔だった。
ジョバンニは彼のことを友達だと言った。カムパネルラもそれを認めた。何てことのない日常の一コマが、ほんのりと、まるで小さなともしびのようにハルカの心を温める。今までに味わったことのない感覚だった。
体勢を変える度に、古びたチェアがぎしりと音をたてながらきしむ。
思えば自分は、実際に体を動かしていない『あちら』の世界での方がよほど自由だ。自分だけの星を持ち、愛情を注ぎながらそれを育てあげていくことができる。向こうでのハルカ、いやジョバンニには、少なくとも存在する意義があった。
ハルカは自分の手のひらをLEDの明かりに透かすようにしてじっと見つめる。薄い手相に、節くれだった細い指。この手は果たして現実世界で何を為し、何をつかむことができるのか。いくら考えても答えは見つからない。体はずっしりと重たいのに、不思議と眠気はやってこなかった。
そうして少し経った頃、ハルカは自分が腹を空かせていることに気付いた。そういえばログイン前に少しだけ固形食を口にしたきり、何も食べていない。時刻は午後十時三十五分だった。
家人は皆寝静まっただろうか。ハルカは重い体を引きずりながら、部屋のドアを開けた。隙間からのぞくと、ダイニングの明かりは既に消えているらしいことがわかる。そのままするりと部屋を抜け出すと、自動的にともったライトが息をひそめるハルカのことを暴くように照らした。
テーブルの上には、ラップのかかった皿が一つだけ置かれている。デミグラスソースのかかったハンバーグが二つと、色鮮やかな緑の葉。隣に置かれたカードには、義母の筆跡で「お誕生日おめでとう。よかったら、これ食べてね。ケーキは冷蔵庫の中です。ミホコ」とあった。
腹の底で何かがよどんでいるような重苦しい感情が、先ほどより強くハルカの中におこった。義母がハルカにつらくあたる気がないことは重々承知している。きっと優しくて、気のいいひとなのだろう。かわいらしい花の描かれたカードを見つめるハルカは、彼女がミスミ家にやってきた時のことを思い出す。
まだ幼いハルカの前に膝をついて、彼女はこう言った。
「私はあなたのお母さんにはなれない。なれっこないの。だけど、家族になることは、できるかもしれないと思ってる」
だからそばに居ることを許して欲しい、と言って彼女は笑った。今にも泣きだしそうな、弱々しい笑みだった。
ハルカの指先が、白い皿の縁取りをそっとなぞる。そこに触れたであろう優しいひとに対する、言葉にできない思いをたどるように。
「――ちゃんと食べてやりなよ。母さんがかわいそうだ」
不意にそんな声が背中の方から聞こえてきたので、振り返る。視線の先には寝間着姿のトールが、腕を組みながらたたずんでいた。
「誰かさんの誕生日だからって張り切ってケーキまで買って来たのに、当の本人がこれだもんな」
肩をすくめたトールは、カップを手に取るとウォーターサーバーで一杯の冷水を注いだ。
「ほら。夕飯、食べるんだろう」
ミネラルウォーターで満たされたそれをハルカの目の前に置くと、今度は自分の分のカップに水を注ぐ。
「……」
普段のハルカなら、トールの有無を言わせぬ口調に反発しただろう。しかし今日は、なぜだかそんな気分になれない。おとなしくその言葉に従って皿をレンジアップすると、ご飯をよそい、黙って席についた。
「……何だよ。気持ち悪いな」
ハルカが憎まれ口をたたかないことによほど驚いたのだろう。トールはぽつりとそうこぼすと、ハルカの目の前の椅子に腰掛ける。
静寂が、二人の間にある空間を満たした。ハルカは黙々とハンバーグを咀嚼し飲み下す作業を繰り返す。それをトールは黙って見ていた。たまにカップを口元に運んで、退屈を紛らわすみたいに水を飲みながら座っている様子は、まるで何かを待っているようでもある。
「……何か用かよ」
「別に」
ハルカが尋ねると、すぐに素っ気ない返事が返ってきた。
「ただ、あんたがちゃんと母さんの料理を食べるように見張ってるだけさ」
そう言うと、トールはカップの中身を飲みほしてから、それを静かにテーブルへ置く。
「うまかったんならそう伝えてやりなよ。きっと母さんも喜ぶ」
真っすぐに見つめられて、少しの違和感をおぼえる。そういえば寝間着姿の彼はいつもと違って眼鏡をかけていなかった。レンズ越しではない彼の表情はどこか普段より幼く感じる。
「……うるせぇよ、マザコン野郎め」
ののしるような言葉の割に全く覇気がなかった。肩をすくめたトールが、「その言葉、そっくりそのままお返しするよ」と鼻で笑う。
ムッとするハルカを見つめる瞳は思いのほか真剣だった。笑みの形からすぐに引き結ばれた唇が、ゆっくりと開かれる。
「『意地っ張り』と『マザコン』は、兄さんのために生まれたような言葉だな」
そう言ってトールはハルカの両目を見据えた。
「後妻である母さんを家に入れたのは、父さんと、そして何より、兄さんの母さん……ヨシカさんの意思を尊重しての結果だったはずだ。いまだに文句を言っているのは兄さんくらいのもんだよ」
「……うるさい!」
もう何も聞きたくなかった。
「父さんと、兄さんに家族をもって幸せに暮らして欲しい。……それは他ならぬ、ヨシカさんの望みなのに」
「うるさい! うるさい!」
ハルカは両耳を手で覆って、ぶんぶん首を振った。拒絶の言葉を投げつけながら、すべての現実から心を閉ざそうとする。
「……ヨシカさんに捨てられてしまったって思ってるんだろう?」
トールはそう言って、すべてを見透かすような瞳でハルカを射抜いた。
「黙れよ!」
叫ぶように言って、ハルカは勢いよくテーブルをたたく。
それは、ハルカが一番聞きたくなかった言葉だった。
――BWTを通して何度も両親が話し合いをしたこと。母は、ハルカが新しい母親のもとで元気に暮らすことを望んでいること。そのどちらもが、随分前に知らされていた事実だ。
しかしハルカはそれを受け入れることができなかった。ハルカにとっての母親は、命を賭して自分を産み落としたヨシカだけだ。それ以外の誰のことも、ハルカは母親として認められない。認めてはならないと思っている。かたくなになっているのは信じたいからだった。自分がまだ、ヨシカ・ミスミの息子なのだということを。
「……俺はそろそろ寝るよ」
そう言ってトールは立ち上がった。自分の分のカップをシンクに置くと、くるりとハルカの方を振り返る。
「――手、出して」
トールはぶっきらぼうにそう言って、寝間着の胸ポケットから何かを取り出した。
「……何でだよ」
「うるさいな。いいから、早く!」
そうせかされて、渋々両手を胸の前で開く。
「……ハッピーバースデー。……確かに言ったからな」
トールの手が確かなコントロールで何かを放る。真っすぐにハルカの手の中に落ちてきたそれは、金色の紙に包まれた硬貨ほどの大きさをした塊――チョコレートだろうか。
「おやすみ」
そう言うなりきびすを返したトールの表情を、この場所からうかがうことはできない。ハルカの手の中にはわずか数グラムの小さな重みだけが、予期せぬ祝いの言葉と一緒にぽつんと転がっていた。




