雨雲色の憂鬱(2)
カリキュラムをすべて終えた午後四時過ぎ、午前中の天気がうそのように空は晴れやかだった。
カナトがやれ遊ぼうだの何だのと言いだす前に、ハルカはそそくさと学校を後にする。
「次の交差点を、左です」
携帯式の小型端末が告げる通りに左折して、目指すのは二番街の外れも外れ。十五分ほど歩いてようやくたどり着いたそこには、古ぼけた看板がでかでかと掲げられていた。汚れがひどくて内容はほとんどわからなかったが、辛うじて『station』の一語だけを確認することができる。ハルカはほこり臭い階段を下って、自動改札にICカードをスキャンした。
空陸両用車用の幹線道路が整備された今、こういった地下鉄などの公共交通機関を利用している人間なんて化石みたいなものだ。降り立ったホームにも人はまばらで、駅自体もすっかり寂れている。
ハルカが向かうのは二駅先の中央区だ。官庁や大企業の持ちビルが所狭しと立ち並んでいるそこは、この国の中枢でもある。
ただのしがない高校生であるハルカがその街を訪れる目的は、一つしかなかった。
中央区の駅から少し歩いたところにある大学病院には、彼のかけがえのない家族が眠っている。ヨシカ・ミスミ。ハルカの実の母親だ。
けたたましい音とともに滑り込んできた四時三十二分発に乗り込むと、一番近い席に陣取る。車内はやはりがらんとしていて、地味な身なりの老人が二、三人座っているだけだった。ハルカは腕を組むとうつむいて目を閉じる。鼻にかかった乗務員のアナウンスとともに、やがて電車は動き出した。ガタンガタンと大きく車体が揺れる度に細い肩がシートにぶつかって、まるで本当に眠っているようだ。しかし、彼の眉間にはずっと深いしわが刻まれたままだった。
十分程経った頃、ハルカは目的の中央区駅に到着した。
改札を抜けて地上へあがると、むわっとした熱気が襲い掛かってくる。そこらじゅうにあふれるスーツ姿の人、人、人。それに七月の陽気が加わったとあれば、汗が流れてくるのはもはや必然だった。手の甲でこめかみを伝う滴を拭うと、ハルカは病院直通の連絡通路へと向かう。
そこは地上に比べるといくぶん涼しくて快適だったが、どこか物悲しい雰囲気を漂わせていた。この病院に入院している患者は、大半が回復の見込みの薄い重病人だ。見舞う人間の心も、とても晴れやかとはいえないだろう。
ハルカは自分の体にまとわりつく重苦しい空気を振り払おうとするかのように、速足で通路を通り抜けた。そのまま玄関ホールを横切って、エレベーターに乗り、目指すは最上階の一番奥。一〇〇一号室が、母の眠る部屋だった。
病室の前にやってきた時、ハルカの鼓動はわずかに速かった。それを落ち着けるように何度か深呼吸を繰り返し、人さし指を備え付けのパネルの上に添える。
「静脈認証完了。ハルカ・ミスミ様、お入りください」
合成音声のアナウンスとともに、部屋のドアが開いた。広々とした室内には、飾られたわずかな花以外、およそ色というものが存在しない。ピッ、ピッ、という生命維持装置の音だけが、ただ残酷に響くがらんどうな空間だった。
「母さん、久しぶり」
そう言ってハルカは、ベッドに横たわる母に歩み寄る。
血の気のない顔、ぱさついた髪、やせ細った指にひとつひとつ触れ、わずかに顔をほころばせた。
「うん、ちゃんとあったかい」
確かめるようにそうつぶやいて、ハルカはベッドの横にある丸椅子に腰掛ける。
「――ルカ……? ……いらっ、しゃ」
そう告げるのは母ではなく、母につながれた機械の発する合成音声だ。
「脳波解析システム」、通称BWT。ハルカの父が研究者として最後に開発した医療用機器だ。植物状態のユーザの脳波を解析し、口語に翻訳する。まだまだ開発途上な技術ではあるが、このシステムのおかげで、ハルカは今でも母とわずかな会話を交わすことができた。
「……父さ、と、ミホコさ、……は、お元気……?」
母が真っ先に気にかけるのがその二人であるという事実が、ハルカには少し不満だった。
この機器の翻訳機能を使って母との離婚を成立させた父は、その二年後に後妻であるミホコと再婚した。母はあいつらを恨む権利を持っているはずだ。――たとえ今のこの状況が、母の望んだものであったとしても。
「……相変わらずだよ。父さんはほとんど帰ってこないし、ミホコさんは……よく知らないや」
「彼女は、……きっと、あなたに――よく、てくれるわ。……ハルカが、寂し、思いを……しな、ように……お願い、してるから。……ねぇ、ハルカ……」
合成音声のノイズがひどくなる。BWTによる脳波の解析はまだまだ不安定だ。こうやって意思の疎通ができる時の方が少ない。
「ハルカ……おめ……と」
不明瞭な言葉を残して、母の意識はまた深い眠りに呑まれてしまったようだ。ハルカは花瓶の花を生けなおすと、再び眠る母の顔を眺め、そしてそっと視線を横に滑らせた。
サイドテーブルには、大きなお腹で満面の笑みを浮かべている母と、それに寄り添う父の写真。
「……いつかこんな風に、俺にも笑ってくれるのかな」
そう一人ごちたハルカはいまだかつて、自分の母親の笑顔というものを見たことがなかった。
ハルカの母であるヨシカ・ミスミの初産は、それはそれは大変なものだったという。
幼い日のハルカは、その事実を父親からではなく、通りすがりの看護師たちによるうわさ話で知った。
「かあさんは、おれを生んだから目をさまさないの?」
そう尋ねても、父親は悲しそうな顔をしてごまかすばかりで、何も教えてはくれなかった。だからハルカはそれからというもの、病院を訪れる度、看護師に母の話をねだるようになった。自分の知らない母親の姿を、必死で追い求めていたのかもしれない。
当時母を担当していた婦長が濁しに濁した言葉をつなぎ合わせると、現在の状態に陥った主な原因は、分娩時の大量出血による身体的ショック、とのことだった。
医師の処置によって一命を取り留めたが、それ以来彼女は目を覚まさない。十年近く機械につながれたまま、辛うじて命を保っている状態だ。
「あなたが生まれてくることを、お母さんはとても楽しみにしていたのよ」
婦長はそう言ってまだ幼かったハルカの頭をなでたが、その言葉は気休めにさえならなかった。
「……おれが生まれてこなかったら、母さんはこんなことにならなかったのかな?」
ハルカはこの病室で何度も重ねた問いを、再び口にする。当然それに答えるものはないし、ハルカも答えを求めて問うているわけではなかった。
「……俺の母さんは、母さんだけだよ」
そう言ってほほ笑むと、ハルカはやせ細った母の手を、ぎゅっと包み込むように握りしめる。
室内には少しずつ西日が差し込み始めていた。物の少ない病室が、少しずつ端からだいだい色に染め上げられていく。その色が少しずつ黒に近づいていっても、ハルカはしばらく母親の傍から離れようとはしなかった。




