溜息は夕暮れに消えて(1)
「ただいま」
その言葉は別段誰に向けられたものでもない。しんと静まり返った室内に、ハルカの帰りを待つ者などいないことは、彼自身が重々承知しているからだ。
時刻は午後六時四十分。日は少しずつ傾き、部屋の中をうっすらとだいだい色に染め上げている。家人が皆出払っている時間をわざわざ狙いすまして帰ってきたのだから、この美しい空間を満たす静寂は、ハルカにとってむしろ好ましいものだった。
五つの居室をもつ家の構造上、玄関から自室に向かうには、どうしたってリビングダイニングを横切らなくてはならない。その時に家人と顔を合わせでもしたら、と想像すると、ハルカは煩わしさの余りに発狂してしまいそうになる。家人、という言葉でくくるのも嫌なくらいだ。ハルカにとって『彼ら』は戸籍上でつながった、ただの他人にすぎないのだから。
「ハルカサン、オカエリナサイマセ」
不意に響いた合成音声に、ハルカは口元をほころばせる。
「ああ。ただいま、ジーナ」
強いて言うならばさきほどの「ただいま」は、こいつのためのものだったかもしれない。
滑るように近づいてくるのは、ハルカの腰ほどの背丈をした卵形の物体だ。全体は鈍い銀色をしているが、上部は半透明になっていて、中心に位置する赤いランプがちかちかと光っている。その様子がまるで瞬きを繰り返す小動物のようで、ハルカの目にはとても愛らしく見えた。大きく旋回して目の前にやってきたそいつのてっぺんを、丸めた右手で挨拶代わりにコツンと小突く。
「頭部ヘノ衝撃ハ故障ノ原因ニナリマス」
「へぇ、おまえ、ここが頭だったのか」
くすりと笑ったハルカは、今度は優しく彼女の頭をなでてやる。
最新型のジーナは、そこいらのお手伝いロボとは違ってとても利口だ。つるんとしたシンプルな機体には収納型のアームが内蔵されており、繊細な家事もきちんとこなす。
「ハルカサン、上着ヲ」
「あぁ、悪いな」
どうやら頭らしい部分に脱いだブレザーを引っかけると、彼女はすぐにまた滑らかに動き出し、クローゼットの方へ向かっていった。
小さな体でくるくると動き回り、一生懸命に頑張る姿は何だか見ていてほほ笑ましい。柔らかな笑みをたたえたハルカは、そのままそそくさとリビングダイニングへ向かう。
コーヒーでもいれて、さっさと部屋に退散してしまおう。もうそろそろあいつが学校から帰ってくる時間だ。急がなくてはならない。
「おかえり、兄さん」
その声が降ってきた瞬間、ハルカの背中はびくりと震えた。
「ジーナには随分優しいんだね。愛想いい顔、できるじゃないか」
「……トール」
腕を組んで待っていたのは、ハルカより十センチは高い身長に、整いすぎたベビーフェイスが何とも釣り合わないあいつ。
セルフレームの眼鏡をくいっと持ち上げる彼の仕草に、和らいでいたハルカの表情はにわかに強張る。浮かべられていたほほ笑みも、すっかり消え失せてしまった。
「……学校じゃなかったのかよ」
にらみつけるように見上げると、トールは芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「今日はテストだったからね。早く終わったんだ」
そう言って一歩ずつこちらに歩み寄ってくる。
「久しぶりに、ちっとも姿を見せない兄さんの顔でも拝んでやろうと思ってね」
シニカルな笑みを浮かべてトールは言った。
「――『兄さん』、ね」
俺はおまえを弟だなんて思ってない、というニュアンスを言外ににじませながら吐き捨てるハルカに、トールは再び肩をすくめながら言い放つ。
「仕方がないだろう、本当なんだから。何ならDNA鑑定でもしてみる?」
「……うるさい」
ハルカは自室への道に立ち塞がるトールを押しのけて、その場を立ち去ろうとした。
「……無理だよ。そんなにひょろひょろなのに。俺、今バスケ部のレギュラーだよ?」
押しのけようとつかんだトールの腕は固く、ハルカのそれより一回りは太い。いつの間にかたくましく成長しているトールの存在は、ハルカをさらに強くいら立たせた。
「……ひょろひょろで悪かったな」
細身でお世辞にもたくましいとは言えない体型は、ハルカにとって密かなコンプレックスでもあった。
「いいじゃないか。コンパクトだし、小回りがきく」
そう言われたのはいつのことだったか。しかしそもそもスポーツとは縁遠いハルカにとって、そんなもの利点でもなんでもない。きっと生まれながらに恵まれている人間には、一生かかってもこの気持ちはわからないのだろう。
「……そうやっていちいちひがみっぽいの、悪い癖だな」
トールは薄茶色の髪を無造作にかき上げて言った。
「兄さんの『母さん』と父さんの離婚はとっくに成立してる」
とび色の瞳が、力強く真っすぐにハルカを射る。
「『実の母親を失って、他人同然の家族に囲まれて、あー俺ってなんてかわいそう!』って? とんだ被害妄想だ」
鋭利なその言葉が、ハルカの心臓をえぐるように突き刺した。断定的な口振りに取り乱したハルカは、声を荒げて叫ぶ。
「ばか言うな! 俺はまだ『失って』なんかいない!」
「そう言いながら『まだ』なんて口走っちゃう兄さんの方が、よっぽど重症だと思うけど」
肩をすくめたトールは、物言いたげな目でハルカを見下ろした。しかしそれ以上言葉を並べても、ハルカの態度をかたくなにするだけだということがわかっているのだろう。レンズ越しの瞳はただ黙って、ハルカを見つめている。
「……どけ。俺は部屋に戻る」
トールの腕をつかむ手に力を込めると、ハルカはもう一度、さきほどよりもさらに強く頭上の彼をにらみつけた。
「またcosmo vita? いい加減にしないと脳みそ溶けるよ」
あきれたような声音に怒りが込み上げる。うるさい。あの世界がどれほど優しくこのすさみきった心を癒すのか、ろくに知りもし
「……おまえこそ、どうせ機械いじりばかりしてるんだろう」
「俺のは、れっきとした仕事だから」
その言葉にこらえきれなくなったハルカは、行く手をはばむ彼を押しのけるべく、右腕にぐっと力を込めた。
何でも持っているということは、何も持たない人間のことを一生かかっても理解できないということだ。だからハルカは随分前に、トールへ自分の思いを伝えることを諦めた。もうこれ以上、何も望まない。
バシンと二の腕の辺りをたたくと、観念したのかトールの体が少し脇にずれた。
「……夕飯はどうする? 母さんが気にしてたよ」
淡々と告げられたその言葉に、ハルカの瞳が一瞬揺れる。
「――いらないって、ミホコさんに言っておいてくれ」
ぶっきらぼうにそう言い放つと、ハルカは足早に自室へと向かった。
「――いつまで意地張ってるつもり?」
トールが哀れむように放ったその言葉が、自分に向けられたものだと思いたくない。
逃げるように室内へと体を滑り込ませると、ハルカは糸の切れた人形のようにその場にうずくまった。
「……うるせぇんだよ」
力なくうなだれながら、かすれた声でつぶやく。
しかしその言葉は誰の耳に届くこともなくかすみ、うっすらと夕陽の差し込む彼の小さな城に、跡形もなく消えてしまった。