第3話 見え始めた異変
美波が見舞いに来てから1週間が経った。
いくら時間をかけて様子を見たところで俺の身体が急変するようなことも無く、俺自身悪いところが無いのに病院のベッドをいつまでも占拠しておくのは憚られたので、医師の許可も貰って退院させてもらった。
医師には何があるか分からないのでしばらく激しい運動をしないようにと言われたのと、念のための痛み止めを処方されたが、バイクが大破するほどの事故で運転手が無傷だったのには最後まで腑に落ちていないような表情を向けられた。
まあ俺も似たような気持ちだったが。
それでもって色々と迷惑をかけた両親への謝罪。調書を取りに来た警察への対応。保険会社との話し合いなどまだ残っていたやるべきことを済ませ、ようやっと落ち着いたので今日からまた学校に通おうという所だ。
しかしいきなり長期間休んでしまったので学校に行けばたまりに溜まった大量の課題が待っていることは想像に難く無い。
そのことを考えると自然と気分は重くなり、布団から出るのも何だか嫌になってくる。
「とりあえずシャワー浴びよ……」
こうしてわざわざ口に出さないと動けない気がしたので、そう呟いてから洗面脱衣所に向かった。
こういうときはさっぱりして気分を無理矢理変えるに限る。
そんなわけで脱衣所に辿り着いた俺は寝間着を脱いで洗濯かごに入れた。でもって普段は若干出ている腹と対面するのが嫌なので見ない鏡に眼を向けた。
何せ今回の事故であまりにも俺の身体が何とも無かったので、しばらく経ってから症状が出るんじゃ無いかという不安がどうしてもつきまとうのだ。もちろん、いくら何でも1週間遅れでどこかが腫れてくることは無いというのは分かってはいるのだが、それでも自分の身体を毎朝確認せずにはいられなかった。
とはいえ、今日もどうせ問題なし――そんな楽観的な思考をしていたが鏡に映る現実は身構えていた危機よりももっと奇怪なものを映し出していた。
すこし太り気味だったはずの俺の腹が、まるでアスリートかアクション俳優のようにバッキバキに割れていた。いや腹筋だけじゃ無くて身体全体がガッチリしている。昨日までは絶対にこんなことは無かったはずなのに。というか鍛えた覚えも無い。
どれだけ記憶を辿ってもこうなった理由に心当たりが無い。見間違いかと思って目をこすってから再確認するが、映る景色は変わらない。というか、若干鏡に映る自分が薄くなった気もする。
「何これぇ……」
鏡を見ても何も理解できないということが分かるばかり。
とりあえずこのまま脱衣所に裸でいるわけにはいかないのでシャワーを浴びて学校に行くことにした。
◇
自分でも嫌になる話だが、その日の学校生活は過去最高にアクシデントまみれのものだった。
しかもその原因の全てが自分にあるとなれば尚更気分は沈んでいく。
まず初めに視力と聴力が以前と比べて大幅に上がっている。
元々眼鏡無しでバイクに乗れていたので悪くは無かった視力だったが、今日は何故か異常なくらいに見える。教室の後ろの方の席に座っているのに、黒板の横に貼られたA4サイズのお知らせのプリントや、先生が黒板に板書するときに見ているノートの文字まで見えたのでこれはもうおかしいと言わざるをえないだろう。
それに聴力の方も問題で授業中に小声で話す女子の声が全部ハッキリと耳に入ってくる。そのせいで今日だけで知りたくも無い女子の秘密を大量に知ってしまった。明日からクラスの女子の顔を直視できる気がしない。途中でお前らのプライバシー意識どうなってんだと叫びたくなるくらいにディープな話を聞いてしまったし。
でもって何故だか筋肉が着いた辺りで何となく予感はしていたが、筋力が上がっていた。いやそれだけで無く、運動神経そのものが大きく向上していた。
そのことに気付いたのは体育の授業でのことだ。
退院してそんなに日が空いてないと言うことで無理はさせられないと体育教師から言われた俺は大人しく見学することになった。正直体育という授業があまり好きでは無い俺は喜んでソレを受け入れて体育館に座ってバスケの試合を見ていた。
その途中、誰かが暴投でもしたのか俺の方にボールが飛んできた。仕方が無いのでそれをキャッチして投げ返したのだが、軽く投げ返したつもりのそのボールがとんでもないスピードを出した。俺も含めてその場にいた全員が困惑するレベルの剛速球だ。それはバスケットボールでは無くて野球でピッチャーが投げるレベルだと言えた。
間違っても体育嫌いの高校生が出して良い物じゃ無い。いよいよ俺の身体に何かが起きていることは言い訳のしようが無い事実になってきた。けれども最大にして最悪の変化と直面したのは放課後、部室に顔を出した時の話である。
◇
「先輩。もう少し休んだ方が良かったんじゃ無いですか? 顔色悪いですよ?」
「これは久々の学校で高度なストレスに晒されたことによるアレ的なアレだから心配いらない」
「でも顔真っ白に見えますよ? 鏡見ます?」
そう言って美波は普段から持ち歩いているのであろう手鏡を俺に見せてきた。確かに心なしか顔がいつもより色白に見える。……あと、やっぱり鏡に映る自分の姿が薄い。
「まあ絶好調って訳でも無いけど家に帰る気にもならないからしばらく部室に居る」
「まあ、先輩はもう引退して客人みたいなものなので追い出したりはしないですけど、気分が悪くなったらすぐに帰ってくださいね?」
今俺が居るのは今年の夏まで所属していたロボット研究会の部室だ。活動内容はロボットの製作とそのロボットを動かすためのプログラミング技術を学ぶこと。基本的にこの手の部活はオタク趣味の男子しか集まらないのが定番だが、我が校ではその部活としての緩さと顧問の顔の良さのおかげで女子部員がそれなりの数は所属している。
美波はその中でも精力的に活動している部員で、今では部長をやっている。
そして俺は受験が終わって暇なのでこうして放課後に顔を出していた。
「そういえばこの間電話で相談してきたやつ、アレ解決したの?」
「はい。流石にあの状況では先輩に頼れないので自力で何とか」
「なら良かった。いや正直病院で暇だったからメールでデータだけ貰って俺の方でチェックしようかと思ってたけど、もう解決してたら余計なお世話と思ってさ」
「もう、医者にお世話になってるんだったら大人しくしておいてください。先輩に倒れられたら私も困ります」
「それもそうだ」
美波はパソコンとにらめっこしていた。その様子はやり手ビジネスウーマンみたいでなかなか絵になる。前にそう言って部活宣伝用の写真を撮ろうとしたらヘソを曲げられてしまったが。
そんな風に作業する美波を見ていると、彼女の指に絆創膏がついているのが見えた。
「美波それ、もしかしてこの間のリンゴ切ってるときのやつか?」
「え? ああ違いますよ。これはホームルームの時にプリントの端で指を切ったんですよ」
言いながら美波は絆創膏を取っていく。よく見ると血が滲んでいるので貼り替えるつもりなのだろう。
「うわっ、まだ止まってない。結構深くいってたのかな」
美波の言うとおり絆創膏を取った指先から赤い血が垂れていた。
――綺麗な赤をしたその液体を見た時、自分の中からどう言っていいか分からない、強い衝動が湧き出るのを感じた。そのことを自覚すると、今度はぶるりと身体の芯から震えた。
あと少しでその衝動に名前をつけられそうだ。これは欲望。その欲望の名前は何だ。
脳と言うよりは身体そのものが何かを求めるような。
そう、これは――
「食欲……」
「え?」
美波は驚いた顔をしていた。そしてその顔を見た俺も驚いている。
自分でも何を考えていたのか意味が分からなくなってくる。
でも確かに美波の血を見たその瞬間思ってしまった。どうしても美波の血が欲しいと。
どう考えたってまともじゃ無い。
「悪い美波。俺もう帰るわ」
「先輩?」
これ以上ここに居たら何をしでかすか分からない。そんな予感がして俺は足早に部室を去った。