第1話 全ての始まり
人生18年も生きてきて、よくもまあ今日この瞬間まで本気で死にそうにならなかったなというのが真っ先に思い浮かんだ感想。
次に思ったのがもう少し真面目に教習所の授業聞いておけば良かったというもの。
いずれにしても今考えるべき事では無かったが、他のことを考えたところで全部無駄になる。だったら変に考えるより、頭に思い浮かんだことを次から次に形にしていった方がまだ良いのかも知れない。
状況を整理しよう。
10月中旬。よく晴れた静かな夜だった。
俺、すなわち米倉和人が現在居るのは家からバイクで片道10分のところにあるちょっとした山道。母さんが生まれた頃は良く使われていた道らしいが、移動時間の短縮のために新しいトンネルが掘られたことで需要は一気に減少。一応道そのものは残っているが、余程の物好きくらいしか使わない。
でもって俺がその物好きだった。道幅がそこそこあって、人が滅多に来ないのだからバイクを走らせるにはちょうど良い。しかも警察も面倒がってパトロールに来ないから、万が一でもスピード違反で切符を切られることも無い。俺にとっての理想郷というわけだ。
ただ世の中には絶対の安全地帯なんて都合の良い意味は無かったらしく、俺は人生初の交通事故に遭った。
対向車も後続車も無かったからといって脇見運転をしてしまったのが原因だ。しかも調子に乗ってスピードを出しすぎていたのだから、事故が起こりうる条件は揃っていた。
ただ、ちゃんと前を見て適正なスピードで走っていたとしても、この事故を回避できたかは非常に怪しい。
何せその女は突然飛び降りてきた。絶対に人なんて飛び降りることが無いような崖になっているところの上にある、森の中から前振りも無く一直線に俺の前に飛んできたのだ。
バイクで走っていてタダでさえ視界は狭くなっているのに、完全に無警戒な上空から何かが来れば、どうやっても気付くことは難しい。
実際、俺がその女に気付いたのはぶつかる瞬間の本当に直前。ブレーキもハンドルを切ることも叶わず、どうしようもないくらいに直撃した。
衝突によって俺はバランスを崩し、バイクが転倒して俺の身体は空中に投げ出された。
でもってあとは地面に激突してお陀仏になるのを待っているのが今この瞬間。俺自身初めての出来事なのでもしかしたら違うかもしれないが、死の直前になって周りの時間がゆっくり進むとかそういうことになっている。
ただそれでも時間が止まったわけじゃ無い。
俺の身体はついに地面に叩きつけられた。相当なスピードを出していたせいでその勢いというのは凄まじい。
痛い、というのをいきなり飛び越えて動けないという感想を抱いた。身体の感覚が殆ど無い。なんとなくだけど折れちゃいけない骨まで派手に折れている気がする。
『先輩! どうしたんですか先輩! 今凄い音しましたけど!?』
声が聞こえた。聞き覚えのある、女の声。
そういえば、事故の直前まで部活の後輩と電話を繋いでいたんだった。そうは言っても俺はすでに引退した身だが。
返事してやろうと思ったが口も上手く動かない。うめき声みたいなのも出なかったので本格的に危ない気がする。
後輩は果たして俺が返事しない理由を事故だと気付いて通報してくれるだろうか。難しいだろうが、こんな山の中じゃ偶然人が通りかかることも滅多に無い。期待できるものがあるだけ俺はラッキーボーイだ。
しかし、救助が来たとして俺は助かるのか。助かったところで後遺症なんかは遺らないだろうか。心配事は後を絶たない。
だが、自分に出来ることも無い。やれることと言えばそう、神に祈ることくらい。
――そう、思っていたのに。
「迂闊だったわ。私としたことがまさか事故を起こすなんて」
さっき聞こえた機械越しのアニメ声とは違う、もっと落ち着いた妖艶な雰囲気さえも醸し出す声がした。
偶然通りかかった人間が居たのかと思ったが、違う。それ以前に俺以外の人間がここに居なくてはおかしいのだ。
「大丈夫――はさすがに違うわね。どう見たって命に関わる大怪我だもの。ごめんなさいというのが正解ね」
首もろくに動かないからその女がどんな顔をしているかは分からない。ただ、少なくともその声は他人を哀れみ、同情する物だった。
「さて、時間も無さそうだから早速本題に入るわね。君の前には二つの道があるわ。一つはここでこのまま救急車を待って普通の医療を受ける道。ただし今の貴方の状態から言って、仮に命が助かったとしても五体満足で後の人生を過ごすのは不可能と思った方が良い」
そこまで言って女は俺に顔を近付けた。
はっきりしない視界の中でも嫌なくらいに眼に焼き付くのは光さえも飲み込みそうな漆黒の髪と、血のような赤い瞳。そして悲しみの色に染まる、怖いくらいに整った顔立ち。こんな状況じゃ無きゃ一目惚れしていただろうなと思う。そんな呑気なことも言えないのは残念この上無い。
女は知らぬ間に人差し指を立てていた手を俺の目の前に持ってくる。そして次に中指を立てた。
「それでこっちの方が重要な選択肢なんだけど、あなた人間をやめる代わりに健やかに生きられる道があるって言ったらあなたはその道を選ぶ?」
それは言うまでもなく突拍子の無い言葉だった。というよりは信じられない言葉だった。
けれどそれが反対に俺の決断を後押しする一因になってしまった。
だってそうだろう? どうせ最初から普通にやっても助からないと分かっているなら、多少非現実でも助かる方を選ぶ。
まあ心配があるとすればこの女が新手の当たり屋で、たった今騙されようとしてるならそれこそ取り返しがつかないということだ。
「それは心配しなくて良いわ。こう見えてもお金はあって困るほど持ってるから」
声に出していないのに、どうしてか考えていることはバレていた。
どうやらこの女には本格的に常識は通用しないらしい。
「それでだけど、答えはどっち? さっき心の声を聞きはしたけどやっぱりこういうのってきちんとした返事を貰わないといけないと思うの」
俺は――出来ることなら生きたいと願う。大それた生きたい理由は無いけれど、自ら死を選ぶことはしたくないし、体の自由を捨てたくない。それが本音。
だから俺は後者を選ぶ。
「なら、決まりね。少し痛いかもしれないけど我慢してね」
女の顔が更に近付く。一瞬顔が触れ合うんじゃ無いかと思ったが、女の顔は通り過ぎて俺の首筋に急接近する。
何をするのかと警戒するような間は無かった。躊躇無く女は俺の首筋に噛みついた。
元々痛みは感じなくなっていたのだから、チクリともしなかった。
代わりに感じたのは、自分の中から何かが抜ける感覚と、何かが注ぎ込まれていく感覚。
ありえないことが起きようとしているという予感はあった。けれどもその結末を見届けることは出来ない。
それは何故かというと、理由は単純だ。
どうにか根性だけでつなぎ止めていた意識はついに限界を迎え、俺はそこで気を失ってしまった。