心のやり取り
【アレイン視点】
開場が告げられた。
空気がピンと張りつめている。
長机がきっちりと並べられた東館。
俺と同じく客寄せの売り子なのだろう、ディアンナやラヴィーンの格好をした女性達。
ハチマキを頭に巻き気合い十分といった小太りの男性。
彼らを始め、ここにいる全ての人間が緊張していた。
耳を澄ますと誰かの鼓動の音が聞こえてきたが、すぐに自分の心臓の音だと気付いて深呼吸をする。
「来るぞー!」
誰かが叫んだ。
空気が、震えた。
あの時を思い出す。
難易度ZZZ級の地中深くに存在するダンジョン『地獄』。十年に一度、普段は閉ざされている地獄の蓋が開き、魔物の大群が這い出てくる。
厄介なのは、地獄の入り口がどこに現れるかわからないという事だ。
十年前、たまたま滞在していた街の側に地獄の入り口が出現した。住民はその街の放棄を決定し避難を始めたが、間に合わず、魔物を俺とアンナで食い止める事になった。
魔物達の勢いは凄まじく、延々と湧きつづけていた。俺もアンナもよく生き延びられたものだ。丸一日戦い続けて何とか追い払う事が出来た。
あの時と同じ、禍々しい思念を入り口の方から感じる。
冷や汗が頬を伝い、床に落ち、そして奴等が来た。
ドドドドドドド……!
地鳴りの様な音と共に、バッファローの群れのように人波が突っ込んでくる。
その目には果てのない物欲を宿し、醜くい亡者の集団のようだ。
人波は一斉に壁サークルへと流れる。
東館では、古参で大手の人気サークルは壁際に配置され、壁サークルと呼ばれる。すぐに長い列が壁沿いに出来て、最後尾がどこかわからなくなるほどだった。
大手の壁サークルの待機列は混乱を極める。待機列は人の動線を確保するために途中で隙間を開けるのだが、そんな列が何本もあるために途切れた列の続きがどれなのか大変わかりづらい。
何回も来ているタマでさえ、壁サークルの待機列は把握出来ないと言っていた。
「アレインさん! 余所見してる場合じゃないよ!」
気が付けば目の前にも列が出来始めていた。
二人で接客を始める。
金の計算で困るかと思ったが、そんな事はなかった。
同人誌、というやつは大抵ワンコインらしい。タマの用意した本も全てが五百円で、ステッカーが一枚百円だった。
客もそれをわかっており、あらかじめ紙幣を崩し硬貨を大量に準備してくれている。お釣りの出ない様に配慮してくれているのだ。
コミケには暗黙のルールが多い。それもお互いが気を使い、気持ちよくコミケを楽しめるようにという配慮である。
加えて、列の動きが非常にゆっくりなのも助かった。客一人一人にタマが時間をかけて対応しているからだ。
近況を報告しあったり、スケッチブックとやらに即興の絵を描いたり、タマは本当に楽しそうだった。
なるほど、コミケとは商品のやり取りではない。
心と心のやり取りなのだ。
直接会って気持ちを伝えたいから、わざわざ大混雑の中を必死の思いでやってくるのだ。
しかし残念な事に、その混雑を逆手に取る心ないものもいる。
一人の客が本四冊を受けとると、五百円玉四枚を出してサッと逃げるように離れていく。早く他のサークル列に並びたいのだろう、そう思ったのだがタマが声を上げて引き留めようとする。
「ありがとうござい……ちょっとちょっと!」
「どうした?」
「それ五百ウォン玉だよ! 違う国のお金! 価値が全然低いの!」
む、本当だ。確かに違う。ちゃんと見ればすぐ気付くが、慌てている状況では気づけない。タマによると結構ある事だという。
「待って! あ、行っちゃう!」
「『ハウンドバインド』!」
拘束魔法『ハウンドバインド』。不可視の蔓が奴の動きを止めた。追尾性能もあり逃亡者を捕まえるのにも適している。
こういう輩相手に問答しても意味はない。スタッフに身柄を渡して後を任せる。
「お金が欲しい訳じゃないけど、僕の趣味全開の本にちゃんとお金を払ってくれる人もいるからさ。ああいうのは許せないよね」
寂しそうにタマが呟く。
転売目的の者も多いらしい。ここでしか手に入らない物もあるから仕方のない事だとは思うが、客と楽しそうに話していたタマの様子を思い出すと、それは悲しい事だ。
本当に欲しい者が適正な価格で入手してくれる事を願うばかりである。
客から話しかけられていたのはタマばかりではない。俺もそこそこ人気だった。
「すごーい! 完全にレインだ! 写真いいですか?」
「ああ、いいぞ」
出来るだけゆっくり、時間をかけて接客していく。
おかげで列は伸びていく一方だったが、幸せな時間だった。
【今回の教訓】
五百円玉、百円玉をたくさん用意しておくと便利。サークルの人も慣れてて暗算クソ早い人もいるけど、やはり気を配る事は大事。
壁サークルの待機列は最後尾の人間(客)が最後尾と書かれたプラカードを持っている事もある。そういう列に並ぶときは一声かけてプラカードを受け取り、自分の後ろに人が来たらプラカードを後ろへと渡していこう。