道端に軍手の片方だけ置いていくアルバイトをした話
道端に軍手が片っぽだけ落ちている景色は、もはや日本の原風景の一つと言っても過言ではない。
一度アスファルトに置き去られた彼らには、再起の機会は二度と訪れない。道に落ちた瞬間はまだ作業用手袋でも、落とし主が立ち去った後、そこに残るのはゴミである。片割れと引き裂かれ、誰に看取られることもなく、手袋としての生涯を終える。
車や自転車のタイヤに轢かれて薄汚れ、アイロンをかけられたようにパリパリになる。雨が降れば濡れて、近寄りがたい程の異様な不快感を放つ。そうして、しばらく後に清掃業者やボランティアの手で葬られる。
時に我々人間は、その孤独で無力な寝姿に心揺さぶられるのである。
◆
僕は今、真夜中の町を歩いている。
歩いて、歩いて、歩いて、時々軍手を片っぽ地面に落とす。また歩く。
◆
大学の情報掲示板に貼ってあったアルバイト募集のチラシ。二十一時から四時までの夜勤で日給二万円という破格の賃金に引かれて、怪しさ満点の張り紙に記載された番号に電話をかけた。
電話で指定された日時、公園に赴くと、薄汚れてよれよれのスーツを着たおじさんがベンチに座っていた。
まさかと思いキョロキョロと辺りを見回していると、向こうの方から声をかけてきた。
「おう、お前ぇ、新人か!」
「あ、えーっと……アルバイトの件で――」
「あぁ、あぁ、聞いてる聞いてるよ。それじゃぁ行こうか」
前歯の欠けたおじさんは困惑する僕にビニール袋を一つ押し付け、面接もなしにアルバイトは始まったのだった。
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おじさんは僕を夜の町へ連れ出し、業務内容について話した。どうでもいいことだが、小汚い中年が学生を夜の町に連れ出す、などと言い換えるとなんといかがわしいことか。実際のところ、このアルバイト自体いかがわしいことこの上ないのだが。
「基本は町ぃ歩いて、軍手ぇ落とすだけだからよ。難しいこたぁ考えなくていいんだ、おう!」
おじさんは微妙に蛇行運転しつつ僕の前を歩いていて、時々よろけるから歩行のリズムを崩される。
それと、必要以上に声が大きい。静かな夜の町にダミ声が響き渡る。森の奥でけたたましく鳴くデカイ鳥みたいだ。
「軍手と軍手の間隔、これが大事なんだぁな。近くてもダメ、遠くてもダメ。この感覚が、ま、職人技なわけだ。間隔の感覚ってな、ガッハッハ!」
はぁ、と軽く相槌を打っておく。はじめは挙動からして酒に酔っているのかと思っていたが、アルコールの匂いはしない。が、別のなにかに酔っている疑惑がにわかに浮上してきた。
「ぅし、ここらで落とすぞぉい! よぉく見とけよぉい!」
へたり。軍手が、夏の夜の生温いアスファルトに無気力に寝転んだ。
はて、アルバイトの選択を間違えたかな、と思った。
したり顔のおじさんは相変わらずのダミ声で、職人技がどうとか、長年の経験がこうとか言っている。
「あの、えーと、先輩」
「ぅおう、おうおう、お前、先輩だってお前嬉しいこと言ってくれるねお前!」
おじさんは嬉しそうだ。遮二無二喜んでいる。荒んだ心がちょっと和んだ。
「お前、先輩なんてお前、言われたことないよ俺お前ぇ!」
「あの、先輩はこの仕事長いんですか?」
「ん、そうだなぁ、別に昇給とか正社員登用とかあるわけでもねぇからな……シフトとかあるわけでもねぇしぃ……まぁ、かれこれ十年くらいはやってるかなぁ」
「結構長いですね」
「まあやればやるだけ上達すっからなぁ。結構しんどいんだけどよ、しばらくやってっと軍手ズハイになってくるからよ。俺みたいなのでも一晩で二万ってのはありがてぇよな、うん」
この仕事内容で上達という感覚も、軍手ズハイという概念もわからなかったが、僕が今までに見てきた軍手の中にもこの人が落としたものがあったのかもしれない。そう考えると、不思議と少し親近感が湧いた。
公園を出てから数十分、十字路でおじさんは足を止めた。
「じゃ、ここらで別の道に分かれるぞ。時間になったらさっきの公園に戻ればいいからな。手ぇ抜くんじゃねぇぞ!」
「えっ、別行動ですか?」
「当たり前だろうが。同じ道歩ってたってしゃぁねぇだろうよ。あ、あと、絶対片っぽずつ落とすんだぞ!」
けたたましく捲くし立て、おじさんは左の道へ歩き出す。数メートル進んでふと立ち止まって「頑張れよ、後輩」と一言残して去っていった。
僕はしばし呆然として、おじさんと反対へ足を向けた。
十分ほど歩いて、そろそろかと軍手の入ったビニール袋を覗き込む。
袋の中には数十枚の軍手が詰め込まれていた。新品同様の綺麗なものから、触れるのを躊躇うようないかにも道端向きのものまで様々だ。その中から、ややくたびれつつも不快感を覚えない程度の身綺麗さを保った一つをつまみ上げた。
周囲に人影がないか確認して、道に落とす。
軍手は手首の方からぽてんと華麗に大地に立ち、掌底から指先へ向かってひたっと地に伏した。意図して軍手を道に落とすのが、こんなにも罪悪感を伴う行為だとは思ってもみなかった。
とにかく、僕の人生初の軍手落としはこんなものであった。
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辺りに人影はない。異様に静かだった。
電灯に作られた自分の影の上に軍手を落とす。真っ黒な影の胸のあたりに、薄汚れた軍手が張り付いた。
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「初めて見る顔だな」
おじさんと別れて一時間ほど町を徘徊した頃だった。軍手を四枚も落とし、僕は一端の軍手落とし屋としての悪道を邁進していた。
三叉路で、軍手が大量に詰め込まれたビニール袋を脇に提げた、ラフな格好の男に声をかけられた。普段なら交番に駆け込むところだが、あいにく今日は僕も似たような出で立ちであった。
「学生か?」
ええ、まあ、と返事をすると、男は哀れむような視線を僕にくれた。
「そうか。まあ手っ取り早く金が欲しい時期だ、うってつけかもしれないな」
そう言って男は軍手を片っぽ、地面に落とした。
お互い、来た道にはすでに軍手を落として来たわけで、必然的に二人並んで残った道へ歩を進めることとなる。
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「昔俺が落とした中に、花の形の特徴的なシミのある軍手があったんだがな」
はあ、と相槌。
「後日、袋から取り出した軍手が、それとそっくりだったんだ。花のシミはもちろん、手首のほつれ方も、指のねじれ具合も」
無意識に僕の喉仏が動いた。
「もしかしたら、俺たちが落とした軍手を清掃業者が回収して、それをまた俺たちが落として――そんなことが繰り返されてるんじゃないかと思ってな」
そんな恐ろしく無意味な輪廻があってたまるか。賽の河原も驚きのシステムだ。
夏の夜というのも相まって、こんなにもどうでもいい話が怪談チックに聞こえてくる。
「以来そんなことはないし、俺の考えすぎかもしれないがな。とにかく、俺はあの時、自分は今一体何をやっているんだろうと不安に駆られたよ」
怪談とは違った意味で底冷えするような会話を交わしつつ、なんとなく同じ道を歩いていたが、やがて片側三車線の街道に出ると、男は神妙な顔つきでこちらへ振り向いた。
「この仕事、考える時間だけはいくらでもある。それこそ考えすぎるほどにな。君もこの機会に、色々頭の中をほじくり回してみるといい」
男は静かに都心方面へ歩き去っていった。僕は少し重くなった足取りで反対方面へ足を動かした。
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最初の軍手を道に置いてからもう何時間たったか。
辺りを見れば開いている店は一つもなく、人家の明かりも数えるほどしかない。
人に見られないタイミングで軍手を落とす。片っぽだけ落とす。
時計を見る。夜中の二時半。最初の軍手から五時間で二十枚ほど落としたか。片っぽだけの軍手を二十枚落とした。
単純で無意味なルーティンに、意識は次第に朦朧としてくる。
軍手を落としたらまた歩く。
◆
「あれ、もしかして同業者さんっすか?」
軍手の詰め込まれたビニール袋を手に提げた、金髪の青年に声をかけられた。普段ならば接点のないタイプだが、お互い夜通しこんなことをしていて今更距離感を測る気も起きなかった。
「トシ近そうっすけど、学生さんっすか?」
青年は僕と同年代くらいに見えた。大学生です、と答えると、髪色とパンツの位置の低さにそぐわない人懐っこい笑顔で感嘆の声を漏らした。
「大学行ってるとか頭良いんすね! 自分、高校中退なんでマジリスペクトっすよ」
そう言って、青年は僕に軍手の落とし場所を譲ってくれた。
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「自分、大学入りたくて、今は高認取るために勉強してるんっすよ。で、学費のために普段のバイトプラス月何回かこのバイトしてるんす」
話によると、青年は高校を一年で中退し、それからは荒んだ生活を送っていたらしい。今年、成人式に出た際、昔の友人たちが皆大学生や社会人になっているのを見て、己を恥じて勉強を始めたという。
「このバイト、給料もいいんすけど、歩きながら勉強もできるのがいいんすよね」
ホントは歩きながら本読むのとかダメなんすけど、と、くしゃっと笑いながら青年は言った。
僕は高校を淀みなく卒業し、そのまま彼より先に大学生になった。けれど、勉学に勤しむわけでもなく、大学と家を往復して日々を怠惰に消化しているだけだ。
この青年がどれほど本気なのか、僕にはわからない。彼がこの先また挫折することなく進んでいけるのかもわからない。それでも、もし彼の夢が叶ったなら、今の僕よりもはるかに有意義な学生生活を送ることだろう。
青年はビニール袋から軍手を一つ取り出し、道に落とした。
花の形のシミが特徴的な軍手だった。
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夜中の町を歩いている。時々、軍手を片っぽだけ落とす。
一晩中、そうしている。七時間もの時間を、道をウロウロして軍手を落とすことに費やしている。
七時間で給料は二万円。普通のアルバイトと比べれば破格だ。
ここらで軍手を落とす。
限りある人生の七時間の価値が二万円なのか。
足が進まなくなった。
落とした軍手をじっと見つめる。孤独で、無力で、無意味で、無価値な寝姿だ。
不意に、軍手と僕の姿が重なって見えた。
腕時計を見ると、四時まで後二十分になっていた。
僕は重たい足を引きずって最初の公園へ向かった。
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それから、ぼんやり白んだ公園に着いた僕は、そこに立っていた作業着の男に軍手の詰め込まれたビニール袋を返し、茶封筒を受け取った。封筒の中には一万円札が二枚入っていた。
僕が件のバイトをすることは二度となかった。
今でも、町を歩いていると、度々道端に落ちた軍手を見かけることがある。彼らと目が会うたび、僕はあの夜のことを、出会った人たちを思い出し、己の人生を顧みる。
きっとこれからも、道端に軍手の姿を見るたび、僕はあの日の体験を思い出すだろう。