お祖父様
“土”の日の午後。私は領地の本邸にいた。
平日は学園に通いやすいよう王都の別邸で生活している私だが、休日はここへ戻ってくるのだ。うちの領地は王都の隣にあるので、行き来はそれほど大変ではない。
南側全面が硝子張りになっているサロンで本を読みながらお茶を楽しんでいたものの、その優雅な時間は長く続かなかった。
廊下側の扉が勢いよく開いたかと思うと、我がお祖父様が両手を広げてこちらに近寄ってきたのである。
「ビービー! 元気だったか?」
「……お祖父様。おかえりなさいませ」
私は本を置き、立ち上がってお祖父様の抱擁に応えた。
外交と旅行を兼ねて外国へ行っていたベアトリス家の支配者が、一ヶ月ぶりに我が家に戻ってきた。
お祖父様は私と同じくらいの身長で細身である。腰が曲がる事もなく足取りは軽やか。手に持っている黒い杖も、床を叩いて威嚇する以外の使われ方をしているのを見た事がない。
元々黒かったであろう髪には歳相応に白髪も混じり、今は上品なグレーになっている。
顔立ちには美男子だった若い頃の面影が残ってはいるものの、不遜で意地悪そうな目つきが印象を悪いものに変えていた。
とはいえ、今は孫を前にして厳しい表情も緩んでいる。
獣人差別をせず、孫を自分の思い通りに成長させようとせず、いつもこうやって穏やかでいてくれるのなら、私もお祖父様が大好きなのに。
強引で融通のきかないところはあるけれど、言い換えれば、統率力があって自分というものをしっかり持っているという事にもなり、領主としての能力は高いと思う。
孫の私が言うのもなんだが、お祖父様はやり手だ。特にお祖父様と同じ思想を持つ獣人差別主義者たちからは強く支持されている。
一方、私のお父様は、私と同じくお祖父様を反面教師にしてきた部分もあるので、獣人を嫌っているという事はない。また、性格は温厚なので押しが弱いところもある。
だからお祖父様は息子に完全に仕事を任せるのはまだ不安らしく、この歳でも精力的に動き続けている。
ただ、仕事はできるが、周りの人たちから愛されているかは微妙だ。
もっと領民の事――特に獣人の事も考えて仕事をすれば皆から愛される公爵になれるに違いないけれど、お祖父様はこの先もずっと獣人に優しい政治をするつもりはないだろう。
「土産を買ってきたぞ。異国風の新しいドレスだ。サズにお前の部屋に運ばせたからな、後で見に行くといい」
「ありがとうございます、お祖父様。でもお土産なんてよかったのに。ドレスはもうたくさんあるし……」
「ははは! ビービーは相変わらず慎ましいな。もっとわがままになっても構わんのだぞ。ああそうだ、菓子も買ってあるのだ。茶を飲んでいるなら一緒に食べるといい。おい、そこのお前!」
お祖父様は扉近くに控えていたメイドに、買ってきた菓子と自分の分のお茶を用意するよう言いつけた。
緊張ぎみのメイドが部屋から出て行くのを見ながら、私はやんわりと言った。
「お祖父様ったら、あのメイドはアリスですよ。いい加減、名前を呼んであげてください」
「ああ、そうだったか。だがメイドはメイドで十分だろう。ただのメイドの名前を覚えておく必要などない」
お祖父様の中ではメイドの名前を覚えておく事は無駄な事なのかもしれない。他国の要人のややこしい名前でもすぐに暗記してしまうくらい記憶力はいいのに。
「お祖父様、馬車の移動で疲れていらっしゃるでしょう? 座ってください」
私はお祖父様にソファーを勧め、ひそかにため息をついた。
お父様、お母様との三人の暮らしは平和だったが、今日からまた心臓に負担のかかる生活が始まるのだ。
私がお祖父様の隣に座ると、すぐにこんな質問をされた。
「学園生活は相変わらずか? 成績はどうだ? 確か定期試験の結果が出たんだったな? ウォー家の跡取りにはもちろん負けておらんだろうな」
お祖父様は学園での行事や予定を大体把握しているので、試験結果を隠したりする事はできない。一位を維持できていて本当によかった。
「ええ、今回も一位でした。もちろんウォーにも勝っています」
彼が二位に迫ってきた事は、訊かれない限りは言わないでおこう。お祖父様の機嫌をわざわざ悪くする事はない。
「そうか。その調子で頑張るんだぞ。優秀な孫を持てて私も鼻が高い。お前のように美しくて頭もよく、魔術の才能もある、そんな天に二物も三物も与えられた人間はなかなかいないぞ。他は私くらいだ、ははは!」
お祖父様はそこで尊大に笑った。お祖父様のジョークはいつもあまり面白くないのだが、私も笑っておく。
実際お祖父様は頭がよくて鋭いし、魔術も得意だ。でも、だからこそ私は困るのだけど。
お祖父様がもっと痴鈍で間抜けな人だったなら色々とごまかしがきくから、もう少し気楽に立ち回れるのに。
「ベアトリス」
「はい……」
笑うのをやめたお祖父様が、祖父の顔を奥に引っ込め、厳格な顔をしてこちらを見た。
そしてしわがれた低い声で言う。
「いいか、決して獣人と慣れ合ってはならんぞ。奴らと我々は種族が違うのだ。同じ人間ではないから信頼してはならん。今は奴隷から解放されて人間と対等になったと勘違いしておるが、奴らは我々よりも劣った存在だ。それを決して忘れるんじゃない」
こういう時のお祖父様には妙な迫力がある、といつも思っていた。
昔からそう。
普段から威圧感はあるものの、獣人の話をする時だったり、誰かを脅している時だったり、私を躾ける時だったり、そういう時にはさらにその迫力が増すのだ。
単に表情を変えただけ、声を低くしただけではない何かを感じていた。
そして最近、気づいたのだ。
お祖父様は相手を圧倒させたい時、おそらく意識をして自分の魔力を膨らませて体外に出している。
それで相手を押し潰しているような感じなのだ。
魔力は目に見えるものではないし、呪文や陣を使って術に変換しなければ他人に作用しないと思っていたので、この圧迫感がお祖父様の魔力によるものだと気づくのに時間がかかってしまった。
私はお祖父様に苦手意識があるから単に精神的なものかもと思っていたけど、この居心地の悪い圧迫感をよく分析してみれば、ちゃんとそこにお祖父様の魔力を感じたのだ。
お祖父様と同じか、それ以上の魔力を持っている私だから少し冷や汗をかくくらいで済んでいるが、魔力の少ない者、または精神的に弱い者がこんな風に圧倒されれば、息が詰まるような感覚を覚えるだろう。
そして、これができるのはお祖父様だけではないようだ。国王陛下が演説をされる時にも魔力を放っているのを感じた事がある。
ただ、陛下が放つものは聴衆を包み込むような、力強くも温かいものだった。だから聞いている人々は国王陛下に圧倒されつつも惹きつけられて、話に耳を傾けずにいられなくなるのだろう。
放ち方次第で、相手にどう作用するかも変わってくるらしい。
そういえば昔、王子殿下に叱られた時にも目に見えない圧力を感じた事があるが、あれも魔力を操って私に恐怖を感じさせていたのかもしれない。躾のために。
というのも、その時に叱られた原因は、子どもだった私が早い上達を望むあまり無茶な魔術の特訓をして、ついには倒れてしまったからなのだ。
殿下は普段は優しいので、あの時は私の体の事を思ってきつく叱ってくれたのだと思う。
そしてこんなふうに魔力を放てるのは、魔術の才のある人間の中でも、さらにごく一部の者だけだろう。
決まった呪文や術式があるわけではないので、誰かに教えたり教わったりするのも難しい。感覚を掴んで覚えるしかない。
(私もこっそり練習しているんだけど、なかなかコツをつかめないのよね……)
自分で言うのもなんだけど、魔術の才能はある方だと思うのだが。
学園の生徒を見てみても魔術で私に敵う相手はいないし、国王陛下付きの魔術師にも弟子に勧誘されるくらいだから。
それに今では自分で新しい魔術を作り出したりもしているのだ。例えば、子供の頃からひっそりと試行錯誤してきた、先祖返り(アポカルト)症候群の獣人のための魔術もそう。
これはもちろん、お祖父様には内緒だけれど。
とにかく、そんな私でも、魔力そのものを膨らませて相手を圧倒するというのは難しかった。
今度お祖父様に圧倒された時に自分の魔力でそれを押し返してみたら、きっとお祖父様のびっくりした顔が見られて面白いと思うのに。
そのちょっとした意趣返しをいつか成功させるため、お茶とお菓子を楽しんだらまた練習をしようと私は思ったのだった。