たんぽぽ
空を流れる雲が茜色に染まり、木枯らしに落ち葉が舞う。握ったブランコの鎖はひどく指に冷たく、キィキィと掠れた嫌な音を立てる。誰もいない公園で、くるみは独り泣いていた。拭いても拭いても涙は溢れ、沈む夕陽が歪に滲む。くるみは独りぼっちだった。
「くるみちゃん?」
不意に背後から掛けられた声に、びくりと肩を震わせて振り返ると、見知らぬ少年が立っていた。
「今ね、くるみちゃんに会いに、家に行こうと思ってたところだったんだけど……大丈夫?」
少年が心配そうにくるみの顔を覗き込む。木枯らしに艶やかな黒髪がサラサラと揺れて、目尻が猫のように切れ上がっていて、とても綺麗な男の子だな、と思った。
「あなた、だぁれ? なんで私の名前、知ってるの?」
「俺? えっと、くるみちゃんの友達の……友達。友達がさ、くるみちゃんの話をよくしてくれたから」
友達って誰? と聞こうとしたくるみの手を少年が不意に掴み、何かを握らせた。
「これなぁに?」
びっくりして手の中の丸いビー玉のようなものを眺める。
「くるみちゃんにプレゼント。メデタイタンポポの種だよ」
「メデタイタンポポ……?」
「うん、そう。小さな鉢に植えて時々水をやれば、すぐに芽が出て、すっごく可愛い花が咲くよ」
半透明のそれは、つるつるしていて、指先でつまむとグミよりも少し硬いくらいの弾力があって、真珠のように白く淡い光を放っている。柔らかな綿毛で飛ぶ小さなタンポポの種とは似ても似つかない。
「それでね、咲いた花にくるみちゃんの『めでたい話』を聞かせてやって欲しいんだ」
「話をするの? 花に?」
不思議そうに首を傾げるくるみを見て、少年がふわりと微笑んだ。
「話をしてもいいし、写真を見せてやってもいい。それはくるみちゃんの『めでたい話』を栄養に成長して、花を咲かせ、そしていつか……」
少年がふと口をつぐむと、茜色の空を見上げた。山の端に僅かに残った光が、風に乱れる少年の髪にチラチラと躍る。
「花を咲かせて……それで?」
くるみの声に我に返った少年が、キュッと口の端を釣り上げるようにして笑った。白い八重歯がちらりと光る。
「とにかく育てるのは簡単だからさ。きっとくるみちゃんの気に入るよ」
❁
不思議な少年に貰った種を失くさないようにシッカリと手に握りしめ、くるみは走って家に帰った。ただいまも言わずに庭の物置きに飛び込み、湿ってカビ臭い段ボール箱の中から青いプラスチックの鉢と小さなスコップを取り出す。そして庭の花壇の土をスコップですくって鉢に入れ、指で開けた穴にビー玉のような種をそっと埋めた。
宵闇に仄かに光る種があんまり綺麗で、上から土をかけるのが惜しい気もしたけれど、でも少年の言う「すっごく可愛い花」を少しでも早く見たいという気持ちが勝った。最後にジョウロで水をやり、「早く芽が出ますように」と夕暮れの空に光る一番星に祈った。
翌朝、眠い目をこすりつつ出窓に置いた鉢を覗くと、なんと小さな双葉が土の間から顔を出していた。エメラルドグリーンの二枚の葉っぱは、プックリしたハート形でとても可愛らしい。ドキドキしながら、ジョウロでまた少しだけ水をやった。
夕方、学校から帰って来たくるみは、子供部屋に飛び込むなりランドセルを放り出すようにして窓辺に駆け寄った。双葉はすでに影も形もなく、代わりにライオンの歯のようなギザギザした葉っぱが出ている。
「こんなに早く育つ花ってなんだろう?」
首を傾げたくるみの目の前で、葉っぱの間から一本の茎がしゅるしゅると伸び始め、あれよあれよと言う間に大きな丸い蕾をつけた。呆気に取られて声も無いくるみに構わず、蕾が淡い黄色から濃いオレンジ色に染まり、柔らかな花びらがほろほろと零れるように開く。
それは確かにタンポポによく似た花だった。けれどもタンポポと違い、花の中心がビー玉のように真ん丸で、そして横向きに一本の線が入っている。そう、まるで、目を瞑った瞼みたいに。
「なにこれ……変な花」と呟き、くるみが指先でちょんと花の中心を突いた時だった。
横線がゆっくりと上下に広がり、花が目を開いた。そう、目を開いたのだ。
花の中心の丸いモノは、金色の目玉だった。
目玉がくるみを見つめ、ハシハシと瞬きした。縦長の瞳孔がキュッと細くなるのを見て、くるみが息を飲んで仰け反った。と、金色の目玉がゆっくりと茎を動かし、床に尻餅をついたくるみを見下ろした。
くるみの凄まじい悲鳴を聞いて、お母さんが部屋に駆け込んできた。
「くるみ?! どうしたの?!」
「それッ! そのッ! 気持ち悪いやつ……!」
「あら、なあに? お花?」とお母さんが首を傾げて目玉草を覗き込んだ。
「タンポポかしら? ちょっと違うみたいだけど、でも可愛い花ねぇ。虫でもいたの?」
驚いたことに、お母さんにはこれが普通の花に見えるらしい。
「もうすぐ冬なのにこんなに綺麗に咲くなんて、珍しいわねぇ。大事にしてあげなさい」と言うと、お母さんは茫然としているくるみを残し、笑いながら部屋を出て行ってしまった。
……最悪だ。これの一体どこが可愛いのだろう。可愛いどころか、こんな気持ち悪い花なんて見たことも聞いたこともない。
あの男の子に文句を言って突き返したいところだけど、よくよく考えたら、くるみはあの子の名前すら知らない。公園に鉢ごと捨ててこようかしら……と考えた途端、まるでそれを見透かしたかのように目玉草がじろりとくるみを睨んだ。
その余りの気味悪さに、くるみは半ベソをかいて部屋から逃げ出した。
❁
もしかしたら、と縋りつくような思いで駆け込んだ公園で、野良猫に餌をやっている少年を見つけた途端、くるみは安心するより先に怒り出してしまった。
「ちょっと!」
「あぁ、くるみちゃん」振り返った少年が屈託無い笑顔をみせる。「メデタイタンポポの花、咲いた?」
「あれの一体どこがメデタイのよ! あんな気持ち悪い目玉草をくれるなんて、サイテー!」
顔を真っ赤にして怒るくるみに、少年が目を丸くした。
「最低って……可愛くなかった?」
「全然っ! あんなの見たくもないから、あなたが責任持って家まで引き取りに来てよね!」
「う〜ん」と唸って少年が髪を掻き毟る。「でもあの花は、くるみちゃんの為に咲いたから、くるみちゃんのそばにいないと意味が無いんだけどなぁ」
「は? なにそれ?」
「えーっと、じゃあさ、一週間だけ試しに育ててみてくれないかな? 一週間経って、それでも嫌だったら俺が引き取るからさ。ね? 一生のお願い」
なんで見ず知らずの男の子の一生のお願いなんて聞かなければいけないのかと思ったが、しかし蕩けるような甘い笑顔でお願いされて、くるみは渋々頷いた。
「ヨカッタ! ありがとう!」
くるみが気を変えるのを恐れるかのように、急ぎ足で公園を出て行きかけた少年が、不意に振り返ると猫のように大きな目を細めてニヤリと笑った。
「くるみちゃんのメデタイ話を聞かせてやるの、忘れないでね」
……全く一体全体なんなのだろう。サッパリ意味が分からない。
風に艶やかな黒髪を靡かせ、軽やかに駆け去る少年の後ろ姿を見送りつつ、くるみが口を尖らせた。
❁
ものすごく気が乗らないけれど、でも約束したからには仕方無い。恐る恐る部屋に戻り、ジョウロで少しだけ水をやる。眠っていた目玉草が眼を開けてくるみを見ると、嬉しげに数回瞬きした。なんて不気味なんだろう。
「メデタイ話かあ……」
少し考え、ランドセルから紙を取り出す。
「えっとね、今日ね、算数のテストで百点もらったんだけど……」
試しに赤い花丸のついた紙を見せると、目玉草は大きく眼を見開き、瞳孔を真ん丸にした。そしてまるで感動に打ち震えるかのように、ふるふると茎を揺らした。少し大袈裟じゃないかしら、と思ったものの、気分は悪くない。それどころか、なんだかすごく褒められたみたいで、得意な気分になった。
そして、本当に、ほんの少しだけ、目玉草を可愛いと思ってしまった。
目玉草は暖かな場所が好きみたいだった。出窓の日向に置いてあげると、うっとりと気持ち良さげに眼を閉じる。目玉草は月を眺めるのも好きだった。ゆっくりと夜空に昇る満月を金色の瞳が追いかける。そして放っておくと、自分の隣に置かれた金魚鉢を興味深げに日がな一日覗いていた。
「ピアノの先生に上手って褒められたよ!」
ピアノの上に鉢を置くと、くるみが弾く曲に合わせて目玉草は楽しそうにユラユラと揺れる。
「読書コンクールで賞を貰っちゃった!」
くるみの朗読する作文に、目玉草は身を乗り出すようにして真剣に聴き入る。
自分の話を真剣に聞いて貰えるほど楽しいことは無い。目玉草はとても聞き上手だったのだ。一週間という約束のことなんてすっかり忘れて、くるみは目玉草に夢中になった。
「今日はね、小学校の卒業式だったんだよ! ほら、これ、卒業証書!」
「修学旅行のお土産!」
「見て! 高校の制服だよ!」
嬉しいことや楽しいことがある度に、くるみは勇んで目玉草に報告した。そして目玉草はその度に嬉しげに目を細め、「メデタイ、メデタイ」とでも言うようにユラユラと揺れる。そしてオレンジ色の花びらはますます濃く鮮やかになり、金色の瞳は透明に輝いた。
目玉草がくるみの話にあまり反応を示さなかったのは、後にも先にも一度だけだ。
「聞いて! 私、彼氏が出来たよ!」
日向で気持ち良さげに揺れていた目玉草はピタリと動きを止め、差し出されたスマホの写真を半眼でジッと見つめた。そしてふいっと眼を逸らした。目玉草の反応が薄いのがつまらなくて、くるみが緑色の葉っぱを指先で突つくと、目玉草は何やらうるさげに目を閉じてフテ寝してしまった。
かと思えば反対に、くるみの方が驚いてしまうほどの反応を示す時もある。
「成人式だよ!」
華やかな振り袖を着て部屋に飛び込んできたくるみを見た途端、目玉草は眼を真ん丸に見開いた。目玉が溢れて落ちるのではないかと、思わず心配になるくらいだった。目玉草はまるで太陽を追う向日葵のように、ひらひらと踊る紅い振り袖をいつまでも追い続けた。
「私、結婚したよ」
白いウエディングドレスに身を包んだくるみの写真を、目玉草は長い間、身動き一つせずに見つめ続け、やがてハシリと瞬きした。透明な雫がほろりと零れ落ち、月明かりに煌きながら葉の上を転がり、音も無く土に染み込んだ。
❁
その日もいつものように、半開きの窓から吹き込む風に揺れ、目玉草は出窓で日向ぼっこしていた。くるみの気配に気付いたのか、目玉草がゆっくりと眼を開けた。
「君に早く見せたくて、お医者さまを急かして退院してきちゃった」
くるみがペロリと舌を出す。
「見て……生まれたよ。元気な男の子だよ」
くるみの腕に眠る小さく柔らかな生き物を、目玉草が茎を伸ばすようにして覗き込む。赤ん坊が動くたびに、目玉草の縦長の瞳孔が細くなったり太くなったりする。飽きもせず、金色の瞳がいつまでも赤ん坊を見つめ続ける。その花びらは今までで一番鮮やかなオレンジ色に染まり、金色の瞳は深く、どこまでも澄んでいた。
そんな目玉草に、くるみがそっと囁いた。
「あのね、私、本当は君が何者か、知っているのよ」
瞑った瞼の裏に浮かぶ。満月の晩に、金色の眼を細めるようにして、窓際で月を眺めていた大きなトラ猫。くるみが生まれるよりずっと前からこの家に居て、赤ん坊のくるみに尻尾をしゃぶられても、ぬいぐるみのようにリボンを結ばれても、じっと大人しくくるみの相手をしていたオレンジ色の猫。冬になるとくるみの布団に潜り込んできた温かな体。寂しい時も、嫌なことがあった時も、そして嬉しく楽しい時も、いつもくるみの隣でくるみを見つめていた、優しい金色の瞳。
大切な家族だったトラ猫は、くるみが生まれた頃にはすでにとても年寄りで、そしてある晴れた秋の日に、静かに眠るように死んでしまった。冷たく強張った身体を抱きしめていつまでも泣き続けるくるみに、お父さんが言った。
「あんまり泣いて、トラに心配をかけてはいけないよ。心残りで、トラが天国に行けなくなってしまうからね」
それでもくるみは泣き続けた。トラにもう二度と会えないなんて、あの大きく温かな体を抱きしめることが出来ないなんて、月を追う金色の瞳がもうどこにもないなんて、どうしても受け入れられなかった。
そしてそんなある日、不思議な少年が泣いているくるみの前に現れた。
「あの男の子はトラちゃんの友達だったのね。トラちゃんは、私が心配で、私を見守ってくれるために花になったんでしょう?」
そう、トラには仲良しの黒猫がいた。たんぽぽの花が咲く公園のひだまりで、二匹はいつものんびりと日向ぼっこしていた。悪戯好きの仔猫のような少年の笑顔を思い出し、くるみが柔らかな花びらにそっと指先を触れた。
「ありがとう、トラちゃん」
はらり、と花びら散った。驚いて目を瞠るくるみの前で、はらはらと音も無く花びらが散り、春風に舞う。最後の一枚が散ると、くるみを見つめていた金色の眼がそっと瞼を閉じた。と、花びらを失った丸い玉が、不意に色と形を変え始め、見る見るうちに柔らかな綿毛の鞠になった。
小さな鞠がぴくりと動き、手足を伸ばしてアクビした。
それは、タンポポの白い綿毛で出来た小さな小さな猫だった。
驚きのあまり、声も無いくるみを肩越しにチラリと振り返ると、猫がぴょんと跳んで窓辺に降り立った。そして次の瞬間、開いていた窓から外へ飛び出した。
「トラちゃん!」
思わず悲鳴を上げて、その柔らかな体に手を伸ばした。
「待って……トラちゃん!」
くるみの手を逃れた綿毛の猫が、透明な風に乗り、青い空を翔け上がる。
どこまでも、高く、高く。
軽やかに、生き生きと。
果てしなく、自由に。
そしてやがて、小さな猫の影は空に輝く白い雲とひとつになり、消えた。
(END)