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件の大将軍夫人に急きょ会えることになったのは、年末のことだ。
私はその日たまたま、店の経営状況と今後の方針を所長へ報告するため王宮に出勤していた。それが午前中に終わり、昼食を済ませてから店に戻ろうとしたところ、見計らったかのように、寮の食堂に通じる廊下に王妃の若い侍女が現れた。
ちょうど今、私にも関係のある客が後宮に来ているから、少し顔を出さないかという、なんとなく含みを持たせた言い方だったので、なんとなく客の正体を予想しながら付いて行くと、果たして、王妃の部屋にいたのは美しい貴婦人だった。
老婦人、と呼ぶにはまだ肌が若く見える。しかし、隙なくまとめられた金髪の一部には、白がちらちらまざってる。オリヴィア妃よりは年上だろう。
先程まで彼女と二人でお茶をしていたのか、カップが乗ったティーテーブルの前に座って、やって来た私に無造作な視線を投げていた。
「エメ、こちらがヴァレリア・ソニエール夫人ですよ」
オリヴィア妃はいつも通りの愛想の良さで、にこにこしながら私と夫人、双方に互いを紹介する。
いずれ顔合わせをしなければと思っていたところではあるが、まさか後宮で遭遇するとは。場には女三人だけ。アレクもレナード宰相もこの状況には関与していないんだろう。
にしても、オリヴィア妃はどうやって私が王宮にいることを察知したんだろうなあ・・・もしかして、この人の忍かなんかが王宮の至るところに潜んでる、とかだったら怖いな。
女は怖いって、世間はよく言う。非力に見せかけ、実はとんでもない企てを胸に秘めていることがあるためだろう。
リル姉の姑となる、ヴァレリア夫人は果たしてどういう女性なのか。
失礼にならない程度に観察しつつ、片膝を軽く曲げて礼を取る。
「お目にかかれて光栄です。このたびは大変なご迷惑をおかけしましたこと、まずはお詫びいたします」
謝罪を込めて一度伏せた目を上げると、怜悧な眼差しとかち合う。
「・・・真に詫びる気持ちがあるのならば」
彼女はゆったりと、もったいつけるように話す。
「こんなにも遅い挨拶とはならなかったことでしょう」
声音はどこまでも冷たい。しかし責め口調でもない。もっと平坦で淡白だ。あまり感情を表に出さないタイプの人なのかな?
もう少し、つついてみるか。試しだ試し。
「――ええ。失礼ながら、こちらはもっと迷惑をかけられておりますので。お互い様と思っております」
オーウェン将軍は家まで来たが、大将軍からはまだ謝罪されてないしな。こっちから詫びに出向くなんてするわけがない。
私の尖った言い方に、ヴァレリア夫人は、ほとんど無表情だった顔をかすかにしかめた。
「では、口先だけで詫びるのはおやめなさい」
すると意外にも、彼女が怒ったのは直前よりもその前の言葉のこと。
「見せかけの行為が、私は一番嫌いです。心がなければいずれにせよ無礼。そういう者は信用に値しません」
あるいは、叱っていると言うほうが雰囲気に近いかもしれない。
・・・ふむ。
口先だけの言葉を使うなということは、つまり、この人は私の話をちゃんと聞いて、私を知ろうとしてくれているということか。
ならば、彼女を試した私の態度は不誠実なものだったろう。反省し、居ずまいを正す。
「――失礼いたしました。これは本当のお詫びです。以後、あなた様の前では心にもないことを二度と申しません」
「よろしい」
彼女は一つ、頷く。そのやり取りを見守っていたオリヴィア妃は扇子で口元を隠して、ころころと笑い声を立てた。
「二人とも、仲良くなれそうで何よりですわ」
そう、か? 本音で喋っていいのは楽だが、ヴァレリア夫人が友好的かといえば、決してそうではない。
「さ、エメもこちらにお座りなさい」
オリヴィア妃がティーテーブルの前の椅子を御自ら引いて、ヴァレリア夫人の隣に私を誘導する。お茶会にまぜてくれるわけね。
「もうすぐ食事が来ますからね。何か、食べられないものはあります?」
「何でも大丈夫です。お気遣いありがとうございます。では、失礼します」
私が着席すると、オリヴィア妃も隣に座る。左右を麗人たちに固められ、なんとも居心地が悪い。
しかし、せっかく王妃が用意してくれた場だ。妙な威圧感を振り切り、カップの残りの茶を飲むヴァレリア夫人に問いかける。
「良い機会ですので、単刀直入にお尋ねします。夫人は、私の姉をご子息の嫁として、認めてくださっているのですか?」
結婚をリル姉に急かしているくらいだ、迎え入れる気があるのはわかる。でも、それは本心から? 世間体を気にして仕方なく?
ヴァレリア夫人は、切れ長の瞳をゆったりと私へ向けた。
「ふさわしくない」
放たれたのは、そんな言葉。
あまりに迷いなくきっぱりとしていて、私は面食らい、咄嗟に何も言えなかった。
おいおい、全然納得してないんじゃないか。
「話し方、言葉の選び方、指先の所作、息遣い――挙げればきりなく、根本からやはり違う。貴人が自然と知るべきことを知らず、そのかわり余計な知識は多い。ほとんどすべてにおいて、違和感がある。ゆえに、ふさわしくない」
淡々と語ってくれる。
リル姉だって、努力してるんだ。でも、生まれた時からその身を周囲に尊ばれて生きている人たちと、細部まで感覚をまったく同じにすることは不可能だ。そもそも、そんな必要はないと私は思う。
「ふさわしくないが――」
しかし、反論する前に、ヴァレリア夫人は急に目を伏せ、細く息を吐いた。
「当人が、あの娘でなければならぬと頑固に譲らぬのですから、彼女以上にふさわしい嫁などいないのでしょう」
たとえ貴族の家にはふさわしくなくとも。
息子が他の娘を望まないのならば、親として、認めてやる以外の何ができるのかと、母はすっかり諦めたように言っていた。
世間体よりも、息子の想いを尊重する気持ちのほうが、夫人の中では大きいようだ。
居丈高な大将軍夫妻もなんだかんだで、我が子には甘いんだな。
ヴァレリア夫人が再び視線を上げると、それは幾分柔らかいものになっていた。
「・・・違和感はあれど、誠実な者であることは話せばわかりました。かろうじて許容範囲です」
なんだかひねくれた物言いに聞こえるが、夫人としては、率直な言葉を選んだつもりなんだろう。
手放しで歓迎ってわけじゃないけど、受け入れられるよっていう、ちょっと複雑な母親の気持ち。
正直さを尊ぶ彼女の性格ならば、おそらく、許容範囲外の相手だったら世間の評判なんか無視してでも拒絶するんじゃないだろうか。
「変化は時に必要なものですよ」
オリヴィア妃が夫人にそう言い添える。
「己とは異なる存在を許し、慈しむ――ですから、愛とは素晴らしいのでしょう?」
うっとりとした表情を浮かべるオリヴィア妃とは対照的に、ヴァレリア夫人はどこまでも淡白だった。
「素晴らしいというより、さすがに憐れになりましたわ。我が息子のことながら」
・・・おう? 急に、なんの話をしてるんだろう。
オリヴィア妃が「そうそう」と席を立ち、書き物机に置かれていた分厚い紙の束を持ってきた。
「少し前に書き上げたものなのですけれど、あなたにもぜひ読んでいただきたいわ」
「なんです? これ」
「リディルと将軍のことを、事の始まりから全部、物語にしたものです」
「は・・・?」
渡された束を受け取り、めくってみると、繊細な文字が連なっている。
最初を少し読み、その後を飛ばしながら中間あたりまでざっと目を通す限り、これは、まぎれもなく、リル姉を主人公とした小説だった。
「・・・ほんとに書いたんですか」
「はい。書いちゃいました」
にっこり可愛くオリヴィア妃は微笑む。
確かにちょこちょこ取材されてたけども! マジで書くとは思わなかったよ! 多才な王妃様だな!
一応、登場人物の名前は変えられているが、リル姉が『リリア』でオーウェン将軍が『ローウェン』、私と思われる主人公の妹は『エマ』となっていて、かなり原型が留められている。丸わかりじゃんかよ。
話は王宮での運命的な出会いからキャッチーに始まり、結婚に至るまでの出来事が(現実ではまだだが)、文学的な技巧を駆使しロマンチックに演出されていた。
ミュージカルだったら、たぶんここで歌い出すだろうなというところが何か所もあり、脳内で勝手になにかしらの音楽が再生されそうになった。
さらには、
「あの、ちょこちょこ私の知らないエピソードが挟まってるんですけど」
「物語は各方面への取材に基づき、一部脚色を入れて構成しています」
「どれが事実でどれが脚色部分ですか? 例えばこの、薬草庫に間違って二人が閉じ込められて、っていうのは」
「エメ、真実は二人の思い出の中にあればいいのですよ」
「いやけっこう重要なとこなんですけど」
オリヴィア妃は意味深に微笑むばかりで、肝心なことは語らなかった。
・・・まあ、真偽については後で当人らをぎっちぎちに問い詰めて確認するとして。
「夫人もこれを読まれたんですか?」
「私だけではなく。貴族女性の間で写本が回し読みされています」
源氏物語かよ。
我が子の恥部が書かれていると言ってもいい話が出回ってるのに、なんでそんな澄まし顔でいられるんだろう。
「・・・リル姉が知ったら顔から火を噴くかもしれません」
「あら、ちゃんとリディルには許可を取っていますよ?」
「あ、そうなんですか?」
「ええ。とっても恥ずかしがっていましたけれど、心からお願いしましたらお許しをいただけました」
出た、王家の必殺『お願い』だ。フィリア姫と、アレクもたまに無意識にやってたけど。なんか断れないんだよなあ、あれ。特にリル姉は人がいいから。
「そこに書かれていることに、誇張があるにしても」
私が持っている原稿に目をやり、ヴァレリア夫人が口を開いた。
「ことごとく好意に気づかれず、周囲に阻まれ、一度は本人にさえ拒絶され、満身創痍になりながら、ようやく想いが通じたことは事実なのでしょう?」
「ええ、まあ」
「我が息子ながら、よくぞここまで憐れに足掻いたものです」
「認めてあげなきゃ可哀想、ですか?」
「加えて、何をしでかすかわかったものではありません」
「そうですね」
同意し、私は声を出して笑った。
「ご子息が苦心して、ようやく迎える花嫁です。皆で盛大な結婚式にいたしましょう。今日、私をお呼びくださったのはその件ですよね?」
「・・・特にそういうつもりはありませんでしたが、そなたで話ができるのであれば、進めても構いません」
「では、ぜひ。夫人に一つご相談があるのです」
彼女の前に、指を一本立ててみせる。
「結婚式はそちらにおまかせします。かわりに、『披露宴』はこちらにおまかせ願えませんか?」
ちょこっと聞いたところによれば、彼女らの結婚式は基本、嫁ぎ先の自宅で、身内だけで執り行うものらしい。
それだとこちらは都合が悪いのだ。
「・・・結納後の宴を仕切りたいと?」
「ええ。闘技大会を含め、今までお世話になった方々がけっこうおりまして。中には一の門をくぐれない方もいます。そういった方々にも結婚をご報告したいのです」
由緒正しい貴族らは身内が多いのかも知らないが、もともと孤児だった私たちを支えてくれたのは、血も繋がらない人々だ。
「まさか、そなたらの家で宴を行うとでも?」
「まさか。さすがに入りきりません。もっとふさわしい場所を考えておりますのでご安心を」
と言っても、夫人は笑みを返してくれない。
「そなたの企てに乗るのはいささか不安です」
「そうおっしゃらずに。あれだけ大騒ぎしたんです、最後までとことん騒ぎましょうよ」
「承知しかねます」
ヴァレリア夫人は岩のごとく澄ましていたが、胸をわくわくさせて、次なる展開を期待している王妃様が場にいる限り、昼食を食べ終える頃には説得されているだろう結末が、目に見えていた。
**
「――夕方には帰るわね」
「うん、いってらっしゃい」
ある日の休日、リル姉は例によって出かけていく。今日はレッスンでもデートでもなく、プティさんのお店に行くのだ。
「ついでに夕飯の買い出しもしてくるわ」
「そう? ならモモを連れて行きなよ。荷物持ち」
「おかし買ってくれるんならいいぞっ」
テーブルで本を読んでいたモモが、まったく嫌がりもせず席を立つ。前に将軍にお菓子をもらってから、すっかり甘いものに嵌っちゃってるんだよな。
「いいわよ。お手伝いのお礼ね」
「やった! リル姉好き!」
「リル姉、あんまり高いのは買ってあげなくていいからね?」
「わかってる。それじゃあ行ってきます」
仲良く出かける二人を見送った後、私はテーブルに広げた書類の上に肘をつく。
「・・・順調で良いような悪いような」
「悪いことはないだろう」
思わず漏れた本音を、ジル姉がお茶を飲みながら笑う。
私だけでなく、ジル姉とモモもあちらの家族と顔合わせが済み、もろもろ説得・調整して、結婚式は春に行うということで正式に日取りも決まった。
近頃は天気の良い日が続き、冬の終わりはもうすぐだ。
「私は楽しみだぞ。お前は違うのか?」
ジル姉の問いには首を振る。
「――ううん。私も、楽しみだよ」
春風が運ぶ、未来はきっと明るい。そう信じられる根拠が今はあるから、穏やかな心地でいられる。
するとその時、ノックの音がした。
続いて、「すみませーん!」とやたらに大きく呼ぶ声がする。店閉まってるのわかんないのか。
でも、もしかしたら急患なのかもしれない。仕方がないからジル姉を抑え、私が対応に出る。
「はーい、なんのご用ですか?」
と、扉を開けた先に立っていたのは、至って健康そうな青年。
なぜか、彼は私を見てひどく驚いていた。
「リ・・・いや、エメ? お前エメか!」
困惑する私をよそに、「大きくなったなあ!」と彼はなんだか嬉しそうだ。私を知っているようだが、えーっと、どこで会った人だったかな。ちょっと思い出せない。
「失礼ですが、どちら様ですか?」
「なんだよ忘れたのか? 薄情な奴め!」
肩をばしばし叩いてきて、妙に馴れ馴れしい。なんか腹立ってきた。マジで誰だっけこいつ。
「俺だよ、ロッシだ!」
は・・・? あ。
「え、あ、ロッシ!?」
「そうだよ! 思い出したか?」
思い、出した。
生まれ故郷の街で、ちょくちょく店に来ていた運送屋の息子!!
「あ、ジゼルさんお久しぶりです!」
ロッシが私の後ろへ向かって、急に頭を下げた。
どうやら騒ぎを聞きつけ、奥からジル姉が出て来たらしい。ジル姉もロッシを見て驚愕していた。
「・・・本当に、来たのか?」
ジル姉の声が、かすれている。対してロッシは「はい!」とどこまでも元気に応える。あれ、こんな奴だったかな?
「王都までより早く辿り着ける新たな運搬ルートの開拓に成功したんです! 今度からうちは王都に支店を出すことなったんですよ! なので同郷の朋のもとへご挨拶に伺いました!」
ジル姉を怖がってない、何か難しい言葉遣いを覚えてきてる、かつ、どうやら目覚ましいまでに事業拡大してる、っぽい。
「すべてはリディルに会うため・・・」
気づけば、ロッシは目を閉じ、拳を握りしめて、身を打ち振るわせている。そして、すっと顔を上げた。
「リディルはどこですか?」
私は、ジル姉は、目を伏せるしかなかった。
だんだん思い出してきた。故郷を発つ時、私は彼に、立派になって王都に出て来いと言ったんだ。その時はリル姉への告白くらい許すって。
でも・・・なんでっ、なんでこのタイミングなんだっ・・・!
昔からそうだ。こいつはいっっつも、肝心な時を外す。そういうところがだめだったんだよっ!!
「あのね、ロッシ・・・」
彼の両肩に、手を置く。
ここまでの努力を想像すれば、涙を堪えきれない。だが嘘はつけない。責任をもって、告げねばならない。正直に。
私は覚悟を決め、いっそ容赦なく、希望満ちる青年を次の一言で絶望に叩き落としてやった。
外は、爽やかな青空が広がっている。
「恋は先手必勝、だね」
「・・・だな」
店先で屍となって転がる男から目を離し。
私たちは降り注ぐ陽光を仰いで、間もなく訪れる春の気配を感じていた。




