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リル姉が婚約者(仮)という立場として、オーウェン将軍とお付き合いすることになってから、おおむね平穏な日々が続いている。
おおむね、とわざわざ断るのは、時折リル姉がソニエール家に呼び出されたり、レナード宰相のお宅にお邪魔することがあるためだ。後者の理由は、二人の交際を承諾せざるを得なくなったソニエール家が、やむを得ず出した二つの条件が関係している。
その一つはレナード宰相を後見人とすること、もう一つは、結婚前に貴族に必要な教養と作法を完璧に身につけること。
二つ目の条件をクリアするために、今、リル姉は定期的に宰相の奥さんからレッスンを受けているところなのだ。まだ結婚は確定事項ではないはずなのだが、まあ、そういう面倒なことも含めて、やっていく気力があるのかを、リル姉が自分に試してみることは必要だろう。
しかしこれ、実は大してつらい条件じゃないのだ。
教養に関しては、ぶっちゃけ、ずっと私の勉強に付き合ってきてるリル姉のほうが、下手な田舎貴族のお嬢様よりよっぽど物知りだし、薬に関してなら専門家。なので座学はすでにほぼクリア。
そして礼儀作法の基本的なところは、すでにフェビアン先生の授業で覚えてきている。もともとリル姉は粗野なところがない。より細かい作法であっても、おそらく問題なく習得してくるだろう。リル姉は私の優秀な姉なのだから。
また、頻繁にではないにしても、オーウェン将軍は休みが合えば欠かさずリル姉に会いに来るし、たまに宰相宅で特訓中のところに顔を出すこともあるそうで、なんやかんやでうまくいっている様子。
今のところルール破りもなく、ここしばらくは私がお節介を焼かなきゃならないことは、なんにもなかった。
それで、祭りが終わって二か月ほどは過ぎ、王都に冬がやって来たある日の夜、私は寝る前にリル姉の部屋を訪ねた。
「リル姉、まだ起きてる?」
ノックと一緒に中へ呼びかけると、すぐに中から戸が開いた。ランプの明かりを背に、リル姉が顔を出す。
「どうしたの?」
「ちょっと話したいことがあって。少しだけ、いい?」
今日も宰相宅で習い事をしてきた後だ、疲れているだろうから、なるべく手短に済ませるつもり。
一方でリル姉は疲れた素振りを少しも見せず、快く部屋に入れてくれた。
ベッドに腰かけたリル姉の隣に座って、さっそく切り出す。
「将軍とは順調?」
「いきなりね」
リル姉は思わずといった感じで笑い、それから考えるように顎に手を添えた。
「んー・・・そうなの、かも。初めてだから、よくわからないけど。不思議なくらい、普通に付き合ってるというか・・・」
小首を傾げて、本当に不思議そうにしている。
「並んで歩くことも、街で同じものを食べてることも、なんだかまるで、当然みたいで」
そりゃそうだ。人間が人間のすることをしているだけ、当然のことなのだ。つくづく身分なんて形式的なもんだと思える。
「楽しいんだ?」
そうなんでしょ? との確信を裏に込めた問いに、リル姉は目をそらして、ちょっと赤くなった。
「・・・うん」
正直でよろしい。
こんなはっきり伝えられたら、フっちゃえなんてもう言えないや。
「それなら近々、皆であちらのお家にご挨拶に行かなきゃかなあ」
口調はおどけたようにしているが、実際は本気。するとリル姉が口を開いて何か言いかけた。
「どうしたの?」
「あ・・・えっと、今日、実は将軍のお母様にお会いしたの」
「? 将軍の家に行ってたの?」
「ううん、レナード様のお家で作法の勉強をしてる時に、あちらからいらっしゃったの。それで、マリアン様もまぜて三人のお茶会になって」
マリアン様とはレナード宰相の奥さんのお名前だ。全体のフォルムがころころと丸く、私たちがいつお宅を訪ねても朗らかに迎え入れてくれる素敵なおばさんで、お菓子作りが趣味らしく、決まって何かしら自作したものを茶請けに出してくれたり、お土産に持たせてくれたりする。それがけっこうおいしい。マリアン夫人を見ていると、私の脳裏にクッキーが得意な別のおばさんの虚像が浮かぶのは余談である。物腰の柔らかい夫人はリル姉と相性の良い先生だ。
一方、大将軍夫人のことを私はよく知らない。まだ会ったことがないのだ。リル姉は、前にソニエール家に呼び出された際、挨拶したようではあるが。
「大将軍の奥さんはなんの用だったの?」
「うんと、色々お話ししたんだけど・・・大体は、いつ結婚するのかってことだったわ」
わあ、直球な上に強引。
「とっとと嫁に来いって?」
「そんな感じ、かも。準備することが色々あるから、早く日取りを決めないと大変だって。婚姻の儀式はソニエールのお家のやり方でするから、その段取りの説明をエメたちにもしなくちゃいけないんですって」
へえ・・・まあ、なんか、しっかりした人なのかな。もう腹を括って、リル姉を迎え入れる気でいるみたいだ。
腐っても名門貴族のお家柄、何か伝統的なめんどい儀式とかあるのかな。そもそも私は、この世界のオーソドックスな結婚式というものを知らない。今まで見事に縁がなかったのだ。それはリル姉も同様。
しかし、だからといって、あちらに全部仕切られてしまってはおもしろくない。
「リル姉は、このまま話を進めていいと思ってる?」
まず大前提として、この確認が重要だ。
「貴族の家に入って、今の仕事も辞めて、ちょっと窮屈なドレスを普段から着て、宴席なんかで慣れない貴族の中にまざったりして、かわりに私やジル姉やモモにあんまり会えなくなっても、いい?」
意地悪をしよういうわけじゃなくて。事実となることを確認しているのだ。
私が笑みを消して真剣に尋ねる間、リル姉は息を止めていた。そして、目を伏せた。
「あの、あのね・・・エメ」
「うん」
「・・・ほんとに全部、諦めなくちゃいけない?」
上目遣いにこちらを見て、リル姉はぽつりと言った。
「まだ診察中の患者さんがいるの。お金なんていらないから、治療が終わるまで、自分で診たい。エメたちにだって、会いたい時に会いたい。その上で、奥さんとしての仕事も、務められないかなあって、思うの。街には、結婚して子供までいて働いている人が、いっぱいいるんだもの。私にも・・・それができないかしら」
言い終えてすぐ、リル姉は頭を振った。
「ごめんね。私、最近わがままになり過ぎてる」
私は一瞬驚き、その後笑ってしまった。
「それ、わがままとは言わないよ」
働き者はどこまでも働き者だ。さすがはリル姉。
こんな風に、リル姉の考えが前向きに変わったのはきっと、あのひどく諦めの悪い強欲な男の影響なのかと思うと、ほんの少し悔しくなった。
「やってみたらいいんじゃない? 私も協力する」
リル姉がリル姉らしく生きられる道を見つけたというのなら、いい。だったらいい。文句などない。
「ありがとう」
リル姉はほっとしたように、緊張していた表情を緩めた。
「私、ずーっとエメを頼りにしっぱなしね。お姉ちゃんなのに」
「お姉ちゃんだから、妹は力になりたくてしょうがないんだよ。知ってる? 私はリル姉を幸せにするために、この世に生まれたんだよ」
冗談だって思うかもしれないけど、これはほんとに、本当なんだ。他らなぬ私自身がそう決めたんだもの。
すると、リル姉は急に私を抱きしめた。
「・・・ありがとう」
耳元に囁かれたのが、少しくすぐったくて。私はごまかすようにリル姉の背中を軽く叩いた。
「――ねえリル姉、ちょっとおもしろいことを思いついたんだけど、聞いてくれる?」
「なぁに?」
離れて元の位置に戻ったリル姉に、子供の時から変わらない調子で、楽しい計画を持ちかけた。
**
その日、私は久しぶりに入り組んだ路地裏にやって来た。
潰れていないか心配していたものの、果たして目的の『プティの店』は健在だった。
しかし、以前来た時は軒先に花が飾られていて華やかだったものが、冬の冷気に当たって枯れ、土が詰まった鉢だけ玄関に残されているのがなんとも侘しい。寒いせいか、入り口の木戸がぴっちり閉められて、『営業中』と書かれた薄汚い木札がかかっている。
寂れてる、なあ。
相変わらず、お客さん来てないのかな。大きなお世話かもしれないが、そんな心配をしつつ、扉を開ける。りぃん、と上に付いた鈴が高く鳴った。
「・・・いらっしゃいませ」
地の底、ではなく、カウンターの下から、女性がぬうっと体を持ち上げ現れる。
髪を三つ編みにしてまとめてはいるものの、ひどく乱れて、誰かに襲われたのかと疑うレベルだ。カウンターに這いつくばったまま、死んだ目を入り口に向けている。少し見ない間に変わり果てた姿に・・・
「えっと、どうもプティさん。お元気ですか?」
カウンターのほうに進んでいくと、プティさんの死んだ目が大きく見開かれた。
「来たな諸悪の根源っ!!」
・・・えぇ。
なんで入店しただけで、世のすべての悪を私のせいにされるんだろう。
どうやら錯乱しているらしいプティさんは、カウンターから身を乗り出してこちらの胸倉を掴み、がくがく揺する。
「ドレスの宣伝してくれるってゆったじゃない!! なのに、なのにっ・・・!」
あー、えーっと、言ったかなあ。似たようなことは言ったのかもしれないなあ。
やっぱり経営がうまくいっていないんだろうか。憐れみそうになった矢先、プティさんが悲痛な叫びを上げた。
「なんで作業着の宣伝ばっかしてくれてんのーーーっ!?!?」
「・・・え?」
なんのことやら。
この後、半狂乱で叫び続けるプティさんをなだめ、すかし、時間をかけて事情を聞き出してみると、なんでも私が魔道具の店で従業員の皆に着せているツナギが今、一部で話題になっているらしい。
主に、汚れ仕事の多い人々の間で。
魔道具を売るにあたって、ランプの外装などを作ってくれる鍛冶師や、運搬業者がよく店に出入りしている。思い返してみれば、彼らに「その服いいなあ」と言われたことが多々あった。それで、プティの店で作ってもらったんだと何気なく話したことがあったかも・・・あー、そうだ、確かに喋った。
口コミでどんどん広まっていったのか、プティさんの髪が乱れ、目の下にクマができて、玄関の手入れが行き届いていないのも、すべては作業着の注文が殺到しているためであって、つまりは、とても繁盛している、ということだった。
「儲かってるならよかったじゃないですか」
むしろ感謝してもらってもいいのでは。しかし、プティさんは再びカウンターに突っ伏し、そこを両の拳でダンダン叩く。
「ちっともよくないっ!! 私はドレスを作るために技術を磨いてきたのっ!! それがなんで来る日も来る日も汗臭いおっさんどもの服を作り続けにゃならないのぉ!?」
「いいじゃないですか。この世は働くおじさんたちが回してくれてるんですよ?」
「知ったこっちゃないっっ!!」
ひでえ。思わず苦笑。
他意はなかったにせよ、ここまでの深い絶望に堕ちるきっかけを作ってしまったことは、確かに私の罪なのかもしれない。
なら、償いをしなくっちゃ。
「プティさん、すみませんでした。どうかもう泣かないでください。今度こそ、プティさんにぴったりの仕事をしていただきたいんです」
プティさんは涙の筋が残る顔を上げて、へっ、と皮肉げに笑う。
「なに? 今度はどんなダサい作業着を作らせようっての? いいわ、いっそ顔までまるっきり隠れる服を作ってあげようじゃないの」
「頼みたいのは作業着じゃありませんよ」
「? 違うの?」
やや冷静さが戻ったプティさんへ、注文書とメモ書きを差し出す。
「面目躍如の大仕事です。引き受けてくれますよね?」




