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「――っ」
試合が終わった直後、リディルは我慢できず席を立った。片足を庇いながら下がっていく人を目にし、腰を落ちつけてはいられなかったのだ。
しかし駆け出しかけたリディルの腕を、小さな両手が引っ張った。
「リル姉っ、どこ行くの?」
モモが焦って問う。リディルは咄嗟に答えようと口を開き、何も言えなかった。
(どこへ・・・私、どこへ行こうとしてるんだろう)
リディルは自問する。
(オーウェン様の、ところ? ずっと避けてきたくせに、今更・・・? それともエメに、もうやめてって言いに行く? ううん、大会は始まってしまったんだもの、エメにだって止められない・・・)
よく考えてみれば、行くところなどどこにもなかった。
その場に留まっている以外に、リディルが取れる行動はない。
「あの・・・あのな、リル姉」
リディルを下から覗き込み、モモが遠慮がちに言う。
「あたし、ここで一人ぼっちにされると怖いから、さ。ショーグンのとこには、大会おわってから行こうよ」
目を泳がせ、慎重に言葉を選んでいるかのようなモモに、リディルはわずかな違和感を覚えた。だが確かに、小さなモモを残して行くわけにはいかない。
「・・・そうね」
仕方なく、席に座り直す。
妹には意志を示せと言われた。しかし、方法がわからない。すでに機を逸してしまったように思えている。結局は事が終わるまで、自分にはどうすることもできない。
落ち込み続ける頭で、その時、リディルはぼんやりと考えた。
(そういえば、ジル姉はどこに行ったのかしら)
**
『――決勝戦の前に、休憩となります。開始は鐘の音でお知らせ致しますので、観客の皆様もどうか決戦に向けて、よく英気を養ってくださいませ』
四回戦を終えてアナウンスし、私も一旦、息をつく。観客はぱらぱらと会場を出て、休憩に向かった。
「うー、負けっぱなし」
ギート戦の後も、将軍は父親の刺客に辛くも勝利。次の決勝では、別ブロックで勝ち上がった一人と当たる。
両手を上に伸ばし、背伸びがてら不平を漏らすと、隣から「みっともない」と注意された。
「あー、ロックもお疲れ。悪いけど、あと少しだけ付き合ってね」
マイクを置き、ロックは小さく鼻を鳴らした。
「刺客の人選を間違えたのではないか?」
「そんなことないよ。最初にカルロさんがいい仕事してくれたし、ギートは大将軍の部下を倒して三回戦まで勝ち上がったんだよ? 期待分の働きはしてもらった」
もうちょっとがんばってほしかった気持ちも、なくはないが。特にギート。最悪、キスくらいいいかと覚悟してたのが恥ずかしいじゃないか。
まあ、逆に、リル姉との結婚をかけている将軍が、思春期のモチベーションに負けたら罵るけどな。
「心配ならロックも出てくれれば―――」
友人に軽口を叩こうとした時、その反対側からいきなり肩を掴まれた。
後ろに引っ張られて危うく転びかけながら、見上げれば彫像のような厳めしい髭面。
「来い」
校舎裏ならぬ舞台裏まで連行され、人気のない通路でようやく解放される。
威丈高き大将軍と対面し、私はにんまり笑みを広げた。
「どうされました閣下? お顔に余裕がありませんね」
ようやく、彼のところまで連絡が届いたのだろう。
今に舌打ちでもしそうに、相手は歯を見せてくる。
「一体どういう魂胆だ」
「どういう、とは?」
ここはあえて、イラつかせてみる。
普段の毅然とした態度を崩し、大将軍は愉快なほど不機嫌になってくれた。
「とぼけるな。なぜ求婚の話を吹聴した。そなたの姉にもいらぬ好奇の目が向くのだぞ」
「そんな、親切なフリはしてくれなくていいですよ。閣下が懸念されているのは、平民の娘に心奪われたご子息の醜聞を民に知られてしまうことだけでしょう?」
もはや息子が勝っても負けても具合が悪い。
大将軍は、たっぷり疲れの籠った深い溜め息を吐き出した。
「・・・俺も老いたか。ここまで愚かな娘を見抜けぬとは」
そして、憎悪すら浮かぶ瞳で睨みつけられた。
「去れ」
「まだ決勝の仕事が残っています」
「かわりの者はいくらでもいる」
「段取りを知らない人では苦労しますよ?」
しかし私の忠告など届きはしない。彼が耳を貸すとすれば、その堅い頭を垂れるべき相手にのみだろう。
「ガレウス」
よって、その声を大将軍は絶対に無視できなかった。
やって来たのは、ロックを後ろに伴ったアレクである。さながらヒーロー登場。白を基調とした礼服が様になっている。
大将軍は苦い表情で、王子に拝礼した。私は二人の間から一歩下がって待機する。
「そう長い休憩ではないのだ。あまり彼女を遠くへ連れて行くな」
アレクは穏やかに命じる。突然王子が現れた理由など、勘の鋭い老兵ならわかっているだろう。彼は、すぐ近くの私にだけ聞こえる溜め息を吐いた。
「・・・この者はすでによく働きましたゆえ、他の者に交代し休ませます」
ほんとは余計な働きをしたから、ってことだろうが。つくづく口がうまい人。弁が立たなきゃ偉くなれないんだろうな、きっと。
「そうなのか?」
すると、ちょっとだけわざとらしく、アレクは困り顔になってみせた。
「しかし、残りは決勝だけだろう? 民は彼女の言葉と合わせて試合を楽しんでいる。当人が疲れているのであれば無理強いはしないが、エメ、できれば最後まで務めてくれないだろうか」
「ええ、私は少しも疲れておりませんので」
こちらは大げさに、お辞儀してみせる。
「御意のままに、ぜひ務めさせていただきます」
まったくもって茶番。白々しく演じられた大将軍殿は、諦めざるを得ないことを悟ったはずだ。だが彼は退散する前に、アレクを厳しく見据えた。
「・・・失礼を承知で、申し上げます。ご学友をあまり優遇せぬほうが御身のためかと。天の日のごとくあるべき王の判断に偏りが生じれば、国に影を落とすこととなりましょう」
悔しまぎれの諫言のようだったが、アレクは素直に頷いた。
「ああ、そうだな。肝に銘じておく」
大将軍が立ち去ってから、私はアレクに頭を下げた。
「ありがとう。それと、ごめんね」
虎の威を借り、狼を追い払った気分。こういうことは今回きりにしなくちゃな。あんまり、よくない。
アレクは緩く、首を横に振った。
「君のおかげで大会が盛り上がっているのは事実だ。私も楽しんでいる。最後まで務めてほしいと思ったのは本心だよ」
「そう? アレクも楽しんでるなら何より」
イメージはプロレスの実況でやろうとしているが、あれは一種の特殊技能なのでマネが非常に難しい。
だが、これまでの大会では選手の呼び出しだけで、時々なんだかよくわからないまま試合が終わっていたというから、それよりは楽しめるようにできているのかなと思う。
「ずっと喋り続けているが、本当に疲れはないのか?」
「大丈夫、疲れてないよ。今はワクワクしてる」
さっさと負かしたいと思う一方で、とっておきの策を行使する瞬間を楽しみにしている、矛盾した気持ちが私の中にはあった。
高揚がアレクに伝わったらしく、心配性な友人も「そうか」と微笑んでくれた。
「これ、差し入れ」
「ん?」
アレクが懐から小さな包みを取り出し、広げた私の手に乗せる。包みを広げてみると、金色の小粒な飴が中に三つほど入っていた。
「ハチミツを固めて作ったお菓子だ。喉にいいらしい」
「へえっ、ありがとう。さっそく食べてもいい?」
「もちろん」
お言葉に甘え、飴を口の中に放る。喉のケアもさることながら、脳へも糖分補給だ。
「おいしい。アレクも一つどうぞ」
「私のことは気にしなくていい」
「まあまあ、いいじゃん。甘いの嫌いじゃないよね?」
「まあ、な」
「それじゃ、はい。ロックもどうぞ」
「私はいらん」
「アレクの差し入れを断るの?」
「そっ、いうわけでは・・・」
ロックがうろたえている隙に、一つずつ二人の手に乗せる。お疲れ様は私だけじゃないからな。
ここはお茶でもほしいところだが、本当にゆっくりするのは全部うまくいってからということで。
「決勝戦、楽しみだな」
「うん」
勝つのは私か将軍か。
もうすぐ、判決が下される。




