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当時の彼女からすれば、その人は巨人のように大きくて。隙のない佇まいは最強を冠する兵士そのもの。
それでも、不思議と怖くは感じなかった。
どちらかと言えば不愛想で、朗らかに笑いかけるなんてことをする人ではなかったけれど、その眼差しや声音は思いのほか優しげで。
仕事中の姿を見つけて駆け寄って行くと、皆の恐れる強面が、困ったようになるのが好きだった。
あまりに身長差があるものだから、見上げる首が痛いと訴えれば、しゃがんでくれたのが嬉しかった。あるいは肩に乗せてもらって、空に近づけるのが楽しかった。
そのままで、その人の故郷の話を聞くのが好きだった。
日の出と共に目覚め、農作業に励み、川で魚を、山で獣を狩り、怪我や病気をした時はそれらに効く草木を取って来て治してしまう。自力でたくましく生きる農民の暮らしぶりに憧れて、よく空想の中でその人を自身に置き換え、遊んでいた。
同じ話を何度せがんでも、その人は嫌な顔一つせず。
馴れ馴れしくしてはならないと上司に怒られても、戸惑いながら最終的には、いつも退屈な自分と遊んでくれた。
今でも、フィリアはよく覚えている。
エメたちに出会う以前の建国記念の祭りの日、出店を見て回りたかったのに、聞き入れてもらえず、式典の間ずっとふてくされていた時。
ダウテが休憩室にやって来て、不機嫌なフィリアの前にしゃがみ、紙の包みから肉を挟んだおやきを取り出した。
濃いソースの匂いを漂わせる食べ物に驚くフィリアへ、ダウテは「お口に合うかはわかりませんが」と周りに見つからないよう、小声で言った。
「雰囲気だけでも、どうぞ味わってください」
わずかな休憩時間に、急いで祭祀場の外へ出て、フィリアのためにこっそり買って来てくれたのだ。
その心遣いがすでに嬉しく、安っぽい脂の味も、舌が痺れる程に濃いソースの味も、とてもおいしく感じられた。
そしてダウテから街の様子を詳しく聞き、フィリアは想像してまた楽しくなった。
他の兵士や臣たちが示してくれる敬愛とはまた異なる、普通で自然な優しさを、向けてくれる存在がただただ嬉しく、愛おしく。
もっと、一緒にいたいと思った。
「――次のお祭りで、私が今より大人になったら」
フィリアはソースを顔に付けながら、無邪気に提案した。
「二人で見て回りましょ!」
次の時にはもしかすると、フィリアはすでにガレシュに嫁いでしまっているかもしれないことを、知っていたはずのダウテは戸惑う様子を見せたが、
「お望みとあらば」
控えめに笑って、フィリアが欲しい言葉をくれたのだ。
今、扉の前でフィリアは胸を押さえて深呼吸を繰り返している。
覚悟を決めたはずなのだが、騒ぐ心臓が落ち着いてくれることはない。幼かったせいとはいえ、己の行動が招いた結果に対する罪悪感はとめどなく。何度も、ここへ足を運ぶことをためらった。
恨まれているかもしれない。許してもらえないかもしれない。
もう、嫌われてしまったかもしれない。
それが何より恐ろしく、せっかく振り絞った勇気を削ぐ。
「大丈夫ですよ、姫」
わずかに震えるフィリアの背に、リディルがそっと手を添えた。
「ジル姉も姫の様子を気にしていました。きっと、また会いたかったのは同じだと思います」
友の励ましを受け、少しだけ肩の力が抜ける。
「・・・ありがとう」
あれから十年以上経ち、色んなことを知り、今日もまた色んな人の話を聞いて、フィリアの世界は確実に広がっていた。
身支度を整える間に、気持ちにもある程度、整理をつけることができた。
思いきって、フィリアは扉をノックする。
本来やんごとなき身分の罪人を留置するための部屋は、内装がほとんど応接室などとかわりない。ソファにぼうっと座っていたらしい人物は、突然の訪問者に急いで立ち上がった。
フィリアは二歩だけ部屋の中へ進み、足を止める。そこが限界だった。付き添いのリディルは扉の外に控える。
「ジゼル」
かつての名ではなく、今の彼女の名で呼びかけ、フィリアは深々と頭を下げた。
「貴女にしてしまったたくさんの仕打ち、申し訳ありませんでした」
尊い姫に床を見させてしまうことなど、一庶民にとっては畏れ多い以外の何物でもない。まして、姫のほうから出向いてのことだ。ジゼルはひどく慌てていた。
「おやめください。謝罪いただくことなど何も・・・」
フィリアは首を横に振る。
「私の愚かさが貴女を振り回してしまいました。今も、王宮に無理に連れて来られてしまって。・・・恨まれても、仕方がありません」
「いえ。姫、お聞きください」
ともすれば泣き出しそうな顔をしているフィリアへ、ジゼルは本心で語りかけた。
「まぎらわしい見た目を利用して、王宮に潜り込んだ私がそもそも悪かったのです。姫のことがなかったとしても、いずれは放逐されていたことでしょう。むしろこの程度で済んだことに感謝しております」
ジゼルはかすかに笑みを浮かべる。
「兵士の時も、その後も、それなりに楽しい思いをさせていただきました。姫がお気に病まれることは何もございません」
もとより己の過失を認めるジゼルは、誰かを責める気などないのだと姫に伝える。
幼い自分を構ってくれた優しい兵士が、今も変わっていないことを知り、フィリアは心の底から安堵できた。
「・・・では、もう一度だけ、貴女の優しさに甘えてしまっても良いですか?」
ジゼルに勇気をもらって、再び言葉を紡ぐ。
「これは命令ではありません。嫌な時は断ってくれて構いません。貴女を縛るものは何もないのですから」
意を決して、言った。
「私と、お祭りに行ってくれませんか?」
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「陛下、お祭りやりましょう!」
仰々しい謁見の間ではなく王の執務室で、私は先ほど早急に作成した企画書を彼の机に叩きつけた。いや、つい勢いが止まらなくって。
場にはアレクとロック、それからレナード宰相もいるだけで、あくまで私的な雰囲気だ。多少の無礼は許してもらおう。
どうやら心労でくたびれているヴィクトラン王はあまり気にする様子なく、なかば死んだ目で表紙を読み上げた。
「魔、道具・・・展覧、会?」
「これから魔道具を売り出すにあたり、国民へ魔法に関する認知を図るのです」
多くの人にとって魔法は未知のものであり、魔法使いも身近にいないため、なじみがない。この状況下で魔道具が果たして売れるのか、ヴェルノさんと宣伝方法をちょうど検討していたところだったのである。
「エールアリーの件で、魔石の人体への悪影響を疑われたことからもわかるように、国民の間で魔法は恐ろしいものであると認識されています。確かに、魔法は研究所でも解明されきっていないものではありますが、決して破壊をもたらすだけの力ではないことを、皆に知ってもらう必要があります。また、レナード宰相のご意見とも合わせて」
ここで右手にいるレナード宰相を見やる。
「? 私の?」
「今後、平民の魔法使いを増やしていかれるつもりであるなら、魔法がどういうものなのかを知らしめることが重要です。どんなに才能があっても、道を志すきっかけがなければ人は動きません。動かなければ才能などあっても意味はないんです。まずは興味を持たせること。環境が必要とされるのはそれからです」
「なるほど。それで?」
「展覧会を魔法学校で行いたいと考えております」
いわゆるオープンキャンパスってやつ。あるいは学祭か。
「子供たちに学校を見学してもらいましょう。目の前で教師や生徒が魔法を使ってみせ、庭園では魔道具の販売を行います。同時に、市場の露店の出店を認めるとさらに盛り上がると思うのですが、いかがでしょうか」
どんよりしているばかりだった王の顔色が変わった。
「つまり、一の門の中に平民を招き入れるということか?」
さすがにそれは、という感じの反応である。
いいや、無理なことなどない。
「魔法学校の敷地に限れば警備はそこまで大変ではないはずです。一回の人数を制限して何日か開催すればいいですし、なんなら入場料を取れば収益になりますよ。ああでも子供たちは無料にしてほしいですね。――準備の時間はさしてかかりません。祭り開催のお触れを陛下が出してくだされば集客も簡単。魔道具と出店の手配は数日で済ませます」
うまくいったら、今後も定期的に開催していってもいい。
テオボルト所長を通さず、女子会した流れでこの企画を王様に直接持っていってしまったことは、あとでめっちゃ嫌な顔されると思うけど。今、イレーナさんに通達には行ってもらってる。
なんとしても企画を通したい。これには魔法を知らしめることと、別の狙いもあるのだ。
「フィリア姫がデートするにしても、一の門の中なら街中よりは安心できるでしょう?」
「・・・は」
また王の顔色が変わり、途端におろおろし始める。しっかりしてお父さん。
「そ、それは、誰と?」
「もちろんうちの姉、ジゼルとですよ。さっき、誘いに行かれたところです」
「まだ開くとは」
「ええ。ですから、すべては陛下のご意志一つです」
私は机に手をつき、追い詰める。
「これは名誉挽回のチャンスですよ」
愛する娘に拒絶され、参ってしまっている父親にこの台詞はけっこう効いたらしい。
王の瞳にわずかな希望の光が宿った。
「陛下、おまかせくだされば私が主導して参ります」
アレクが前に出る。仕事モードの時は父上ではなく陛下と呼んでいるらしい。
「初仕事としては、ちょうど良いのではないかと」
本格的に政務に関わり始めて日の浅い王子は、まだ自分主導で何かを進めたことはないそうだ。だからこれはアレクにとっても良い機会。
「う、む・・・」
迷いを見せるお父さんへ、さらにダメ押しする。
「ちなみに王妃殿下にも賛同をいただいております。陛下もご公務の合間に、たまには夫婦水入らずで楽しまれてはいかがですか?」
それから王が陥落するまで、さして時間はかからなかった。




