53
耳の奥から声が聞こえる。
誰かがしきりに話しかけてきているのだ。人が疲れて寝ているところに、うるさくてかなわない。
うっすら目を開ければ、不思議な緑色が視界に飛び込んだ。
「起きた?」
無遠慮に私を覗き込むその顔には見覚えがある。えーっと、誰だっけな。考えながら目を閉じる。
「まだ寝るの? もう昼になるのに。君の頭が回復するにはあとどのくらい必要なんだろう? そろそろ待ちくたびれたよ。早く起きてくれないかな」
正直、まだ眠いのだが・・・とめどない独り言に急かされながらでは、非常に寝づらい。てか、なんで枕元にいるんだ。
徹夜明けの休憩は、ここで終わりのようだ。一度大きく息を吐く。
「・・・おはようございます、ルクスさん」
そう言ってあげれば、彼はとても嬉しそうに顔を輝かせた。
「おはようエメ! 待ちかねたよ!」
無邪気にはしゃぐこの人は、一体いくつなのだろうか。少なくともリル姉よりは年上であると思うのだが。
トラウィス人には見ない珍しい緑白色の長髪と、赤い瞳を持つ謎の男性。
なぜ村にいたのかもよくわからない、正体不明のこの人こそ、かつてギートに魔法の目を与えた魔技師だそうなのだから、まったく不思議な縁である。
「さあ、そのヒ素というものについて、僕に詳しく教えてよっ」
ルクスさんは本当に待ちきれないらしい。
夜明けの話し合いでは私に体力の限界が来て、話が中途半端で終わっていたからなのだろうが、こちとら寝起きだ。彼と早く話がしたいのは私も同じではあるが、その前に身支度や状況確認などしておきたい。
「ちょっと待ってください」
「えー? まだ待つの?」
ルクスさんは不満そうに口を尖らせる。大人だろ! 少しくらい我慢してくれ!
「エメ? 起きたの?」
ローブを羽織った時、ちょうどリル姉が衝立の向こうからひょっこり顔を覗かせた。そしてルクスさんには軽く頭を下げる。
ルクスさんは私たちが来る前からすでに村にいて閉じ込められていたらしく、リル姉たちも彼の存在は把握していた。病人ではない彼が疫病に感染しないように、医療団の休憩所で保護していたそうだ。村には「たまたま迷い込んだ」らしい。
「おはようリル姉」
「おはよ。気分はどう? 痛むところ、ある?」
「ううん」
リル姉は私の傍に座って、寝る前に手当てしてくれたところを確認し、緩んだ包帯を巻き直してくれた。そんな大層な怪我はしてないんだけどね。
「テーブルにパンが置いてあるから食べてね。今、スープも出すわ。エメが魔法で出してくれた水で作ったものだから飲んでも平気よ」
「あ、うん、ありがとう。忙しいのに、ごめんね?」
「私のことは気にしなくていいの」
リル姉は笑って竈のほうへ行く。
衝立から出ると、医療団の人たちが忙しく動いていて、そんな中でギートがテーブルの椅子に座ってパンを齧っていた。私が休む時に、彼もまた休憩を与えられていたのだ。今は鎧も脱いでリラックスしている状態だ。
「おはよう」
「おう」
挨拶ついでに、ギートがテーブルの上の籠からパンを投げてよこす。それを片手でキャッチし、齧りながら彼の正面の椅子に座る。雛のごとく後ろを付いて歩いてきたルクスさんは、私の隣に腰を下ろした。
「気分はどう?」
「目ぇ抉られて起こされりゃあ、爽やかな気分にはなれねえよ」
「は?」
ギートはげんなりした表情でルクスさんを見ている。彼の両目は一応、ちゃんと入っているが。
「だってエメが起きてくれるまで、暇だったものだから」
「暇潰しに人の目に指突っ込むのはやめてくれませんかっ」
テーブルに拳を叩き付けるギート。その衝撃で籠のパンが跳ね上がる。
しかしルクスさんは、なぜ怒られているのかよくわからないかのように、小さく首を傾げていた。
「起こしたら悪いかと思って、こっそり見ようとしたんだ。もしかして、指が入るのは気持ち悪いの?」
「気持ち悪いし怖いんですよ。当たり前でしょうが」
「そっか、ごめんね。でも君のことは思い出せたよ。確かにその目に刻まれている魔法陣は、僕が作ったものだ。すごく懐かしい気持ちになった」
「・・・そうっすか」
にこにこ笑顔のルクスさんに、ギートはそれ以上何も言えず、深く溜息を吐くばかりだった。
実はルクスさん、ギートをまるで覚えていなかったのだ。
なにせもう七、八年前のことらしく、またギート自体がずいぶん成長して様変わりしてしまったので、無理のない話なのかもしれない。しかしギートのほうは恩人にすぐ気づいた。
彼は以前、義眼をくれた人について「毛色の違う奴」と表現していたが、具体的な意味で言っていたらしい。ルクスさんの特徴的な色合いは間違えようもないだろう。
夜明けの話し合いで突然ルクスさんが場に出てきた瞬間に、ギートは驚き詰め寄ったのだが、残念ながら感動の再会とはならなかった。
ルクスさんがギートを見た第一声は、「君、おかしな目をしているね?」だったのだから、義眼をあげた事実すら、もともと忘れていたみたい。恩着せがましいような人は感心しないが、これもまたどうなのか。
優秀な流れの魔技師は少し、いや、だいぶ、変わった人だった。
「さっき、街に知らせにいった兵士が帰って来たぞ」
ルクスさんとの会話を諦めたギートは、私のほうに話しかけた。リル姉が出してくれたスープを飲みつつ、内心は緊張して続きを促す。
「どうだって?」
「無事に隊長と連絡がついたそうだ」
それを聞けて胸をなでおろす。良かった。
「領主のことはまかせとけってよ。俺らは話がつくまでは動くなだそうだ」
「そっか。じゃあ、動けるようになるまで浄化の方法を練ってるよ」
スープを飲み干し、ようやっと、ルクスさんに向き直る。
「私はヒ素の毒性を説明すれば良いですか?」
「ううん。一番聞きたいのは、それがどういう存在なのか、だよ。もし、僕が想像しているものと同じであるなら、魔法でどうにかできるかもしれない」
どういう存在か、か。なかなか説明が大変そうだ。
「ヒ素は、《原子》の一種です。原子とは物質を構成する最小の単位で、小さな粒を想像してもらえるとわかりやすいのですが――」
私は彼が望む通りに、基礎を含めた詳細な説明をしてみた。
これを聞けば何ができるようになるのかは、さっぱりわからない。だが彼は私よりもずっと魔法について詳しいし、ギートの義眼を見てわかったように、この人はあらゆることに知識が深い。説明が無駄にはならない確信があった。
熱心に聞き入るルクスさんの瞳に、やがて理解の光が宿る。
「――その原子って、ユウェナのことでしょう?」
「え?」
「精霊だよ。万物の根源をなす、神のしもべとされるもの」
私は学校で習ったことを思い出した。
ミトアの民の思想では、地上は精霊の支配するものとなっている。彼らは神の意志を反映し、生物と非生物のすべてをコントロールしているのだと。
で結局なんなんだよそれはって感じの、ファンタジックなものの正体が、原子であるとルクスさんは言っている?
「見て」
ルクスさんはポケットから古めかしい紙を取り出し、テーブルに広げた。
そこにはたくさんの文字が規則正しく升目の中に並んでいる。10や20じゃ足りない、100、200を超える数が。
読めるものはほとんどなかったが、字の雰囲気はミトアの民のものに違いなかった。
「ここにあるのはすべて、精霊を表す文字だよ。この中に、ヒ素に相当する文字があると思うんだ」
「ミトアの民には原子の概念があったんですか?」
驚きが勝手に口を突いて出た。
異民族たちが精霊と曖昧に訳したものが、本当は科学的なものだった? もしかしてこの紙は、周期表か? あの化学の教科書の必ず1ページ目についてるやつ? だとすれば、私が知っているものより数、多いんですけど・・・
「ヒ素は水に溶けているから毒なんだよね? 魔法で直接その原子に働きかけて、手に取れる形にしてしまえばいいんじゃないかと思うんだけど、どう?」
「そんなことができるんですか?」
あらゆる原子が互いに結合して混在する中で、ある特定の原子だけを標的にして取り除く―――まさしく、魔法だ。
「たぶんできるよ。例えば、こういう魔法陣とか・・・」
ルクスさんはさらに白紙とペンを取り出して、魔法陣をいくつか描き始めた。私はもはや立ち上がってそれを覗き込む。
「おおまかな構成はこれでどうかな?」
「そ、っか・・・なるほどこんなことが・・・でも、ヒ素は様々な形態で溶けています。そのすべてが害になっているわけではないのですが、念のため全部取り除くのならこれだけでは」
「そうなんだ? 君は本当によく知っているなあ。あ、最初にヒ素がどの文字かも特定しないとね。特徴を教えて?」
「はい。ヒ素は水中で陰イオンとして存在し、性質としてはリンに似ていて原子量は――」
まだまだ会議は続く。その横で、
「・・・わけわかんねえ」
「この二人、なんだか似てるわ」
ギートがぼやき、リル姉が笑っていたような気がした。
「―――できた!」
たくさんの魔法陣を描いて描いて描きまくり、ようやく、これだろうというものが完成し、その紙を掲げて叫ぶ。
魔法陣は一つだけじゃない。複数の陣を連動させて作用させる複雑なものだ。
あーでもないこーでもないと話し合い、一心不乱に魔法陣をいくつもいくつも描いて修正して、いつの間にかテーブルの上にも下にも紙がばら撒かれ、気づけば誰も傍にいない。辺りが少し暗くなっている。
「あとは実験だね!」
ルクスさんもはしゃいでいる。長髪が乱れてうっすら汗もかいていた。
彼の言う通り、これから実験して本当にヒ素を析出できるかどうか確かめたいところなのだが、問題はそこである。まだ、領主と話がついたという報告が来ないのだ。
「エメ、君が持っている魔石は一つだけ?」
「そうですね。ルクスさんは?」
「僕は一つも持ってない。もともと、魔石が欲しくてここに来たから」
ルクスさんは小さく笑って肩を落とした。
「旅しているうちに魔石がなくなってしまって、エールアリーの鉱山で譲ってもらおうと思ったんだ。でもここでおかしな病人を見つけて、興味本位で調べ始めたらいつの間にか閉じ込められてた」
どうやら、村にいた理由は好奇心、だったらしい。ギートのことといい、なんとなく、この人は良心に従って動いているというよりかは、興味の赴くままにふらふらしているような印象を受ける。
「ん、ちょっと待ってください? トラウィスで個人の魔石の売買はできませんよ?」
「そんなの、お金を積めばくれる人もいるよ。中にはね」
「・・・そうですか」
軽い犯罪の話を聞いてしまった。めんどくさいから聞きたくなかった。
ま、今は目の前の問題が優先だ。そういえば、ポケットの中がさっきからじゃらじゃら鳴っている。
「こんなものならありますが」
取り出したのは、前に鉱山の中で拾った、あまり魔力の残っていないクズ石だ。入れたまま忘れてた。動き回ったせいでいくつかなくなっているようだが、それでも手のひらより小さいものが左右のポケット合わせて5個ほど残っていた。
テーブルに置いた石を手に取り、ルクスさんは顔をしかめる。
「がんばれば彫れなくはない大きさだけど、魔力量が足りないな。発動できそうにない」
「ですよね」
答えは案の定だ。
領主との話し合いはどこまで進んだのかわからないが、もう少しすれば鉱山から魔石を手配できるだろう。今すぐに実験する必要はないのだが・・・ふと、ここで疑問に思うことがあった。
「別々の魔法陣を連動させることはできるのに、別々の石どうしでは連動させることができないんでしょうか?」
「え?」
ぽかんとしているルクスさんに、突発的に思いついたことを説明してみる。
「例えばです。こっちの魔法陣とそっちの魔法陣を別々の石に彫ります。それらを同時発動し、相互に作用させることはできないんでしょうか? そうすれば、一つの石が負担する魔力は一つの魔法陣を発動させる分だけで済みますよね?」
ものすごーーく単純な発想だと思う。力が足りないなら分担させれば良いのではという話。
「・・・っ、できるかもしれない。やってみよう!」
物は試し。ルクスさんが持っていた工具を使って、さっき決めた設計から少し改変した魔法陣を5個の魔石に彫ってみた。本来、一つの石の上で閉じられているべき回路を開き、指定した位置にある石の回路と繋がるように。
汚染されているであろう井戸水を桶に汲み、テーブルに置いて周りを石で囲む。そしてそれぞれの開封の呪文を唱えて発動させた。
「わ・・・」
途端に、水中に銀色の粒が現れる。まるで舞い散る雪のようにはらはらとゆっくり、桶の底に沈む。
美しい現象だったが、すぐさま魔石の魔力が切れて終わってしまった。
わずかに底に残った銀色の粒を、ピンセットで拾い上げる。
ヒ素の結晶は放っておくと、どんどん酸化されて黒くなっていくのだが、そうでなければ鏡のような色をしているものだ。
ルクスさんが歓声を上げた。
「本当にできた!」
「確かめてみます!」
喜ぶ前に外へ出て、できた物質を魔法の炎で熱してみる。しばらく熱し続けると、一瞬、藤紫色の光が見えた。
ヒ素特有の炎色反応だ。よし、間違いないぞ!
「完璧です!」
「やったぁ!」
ルクスさんと手を取り合い、今度こそ喜びを爆発させた。何時間にも渡る熟考の後のことで、達成感が半端じゃない。魔法すごい! 試薬も何も使わずにこんなことができる! やはりこの力は破滅を呼ぶだけのものじゃないのだ!
「ありがとうございますルクスさん! あなたのおかげです!」
「いいや、君がいたからこそできた魔法だよ!」
「・・・おーい」
薄暗くなってきた中を小躍りしている、傍から見れば怪しい私たちに、遠慮がちに声をかける者があった。
振り返ればギートがいる。鎧を着て剣を腰に差し、すっかり仕事モードだ。まあもう夕方なのだから休憩は終わっているか。
「ギート聞いて魔法陣ができたよっ! これで皆を助けられるっっ!」
「そ、そうか」
テンションそのままに詰め寄れば、二歩ほど引かれた。
「グエンさんからの知らせはまだ!? 魔石があれば井戸水はすぐにでも浄化できるよ! 川のほうは貯水場をどこかに作ったほうがいいだろうからその人の手配とかももろもろ早くやりたい!」
「おお落ち着け! お前ら、もう少し周りを見る気にならねえのか?」
周り? 私もルクスさんも眉をひそめつつ、ひとまず言われた通り首を回してみた。
兵士たちが村の中を忙しく行き交い、医療団の人たちは病人を家から家へ運んでいる。
なんだか、すごく騒がしい?
「何かあったの?」
「領主の兵に囲まれてる。たぶん俺ら全員殺すつもりだぞ」
えぇ~・・・・領主、だいぶ暴走してしまっているな。




