52
ほんとに足を滑らせて死んでもおかしくない、わずかに残った麓へ通じる道を歩き通し、ようやく麓に辿り着いたのは日がとっぷり暮れてからだった。
雨雲が去り、夜空に半月が浮いて見える。なんとか、夜道を進める明るさだ。
ヒューゴさんの道案内は間違っておらず、私たちは無事に見つかることなく街の外側に出ることができた。本音はここらで一息吐きたいところだが、麓を巡回している兵士がいるかもしれない。事実、遠くにゆらめく松明の強い光が見える。一分一秒でも早く移動しなければならなかった。
「あとは自力でいけます。ありがとうございました」
山木の陰に佇むヒューゴさんに、丁寧に頭を下げておく。
「――鉱夫には村の出身が何人もいる。俺もそうだ」
不意に、ヒューゴさんが言う。顔を上げると、今度は彼のほうが両手で膝頭を掴み、深々と腰を折っていた。
「どうか助けてくれ。頼む」
言葉の後半は震えていた。
切実な想いを受け、肉体の疲労など吹き飛んだ。
「きっと。約束します」
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川沿いに歩く村までの道のりがまた果てしなく遠かった。馬があったらあっという間だったのに。すでに山道を歩き通した身にはつらいが、がんばらなくちゃ。
「おぶってやろうか?」
からかいの混じったギートの申し出に少し笑う。
「さすがに兵士でもそこまで体力ないでしょ」
「ねえよ。だから休もうぜ」
「いや、でも朝になる前に着きたい」
体力はともかく気合いはみなぎっている。息を吸って、歯を食いしばると頭の後ろを叩かれた。芸人のつっこみか。
「そうやって山の中でもずっと休憩しなかっただろ。つらくなってからじゃ遅ぇんだよ」
顔はあんまり見えないが、声は真面目だ。普通に忠告されている。
「だって、下手に休憩してペース崩すほうがかえって疲れる気がして」
「逆だ。疲れる前に定期的に休憩いれるほうが長い距離歩けるしペースも落ちない」
「ふうん?」
「焦る気持ちはわかる。が、なんでも気力でどうにかできると思うな」
おぉう、心を読まれていたか。
彼の言うことはきっと間違っていないだろう。本当は、領主の兵が巡回していたら見つかるかもしれないから、障害物のない草原での休憩は避けたかったのだが、歩けなくなったら元も子もない。ギートの言う通りにするほうが賢明だなと思い、草の上に腰をおろした。
「さすが歩兵は詳しいね」
「嫌味かっ」
「そんなことないよ。でも、早く馬に乗れる身分になれるといいね」
「まったくだ。下っ端魔法使いの護衛なんてやってらんねえよ」
悪かったね、嫌味かっ。
定期的な小休憩を挟みつつ、ペースを落とさずに歩き続けてようやく、東の空が白み始める頃にはキクス村に辿り着けた。
村は病人の逃亡阻止のために、人の背よりずっと高い杭柵で隙間なく囲まれ、出入り口は一つしかない。そこに領主の兵が万が一にも立っていたらまずいので、そちらへは回らず裏手から侵入しようと試みた。
「乗れ」
ギートが地面に跪く。彼を踏み台にすればチビの私でも柵に手が届くだろうが、台になったほうはどうするのだろう。
「ギートは一人で登れるの?」
「なめんな」
どうやら大丈夫らしい。なので遠慮なく彼の肩に足を乗せ、持ち上げてもらって柵の上に手をかけた。
有刺鉄線がないかわりに、柵の先は杭と同じくとがっていた。それにひっかけないよう乗り越え、飛び降りて無事着地。
薄闇に包まれる村の中は静まり返っている。松明の光が見えるのは入り口だろうか。
村の中にも領主の兵がいないとも限らない。私はすぐに建物の裏手へ隠れ、まずは様子を窺う。
すると、いきなり後ろから、どん、と鈍い音がした。見れば柵の上に手をかけ、ギートが乗り越えようとしている。
えーっと、助走つけて壁蹴って、なんとか届かせたってところか。その身体能力には敬服するが、もっと静かにできませんか。
案の定、ギートが着地したと同時に「そこにいるのは誰だ!?」と鋭い声が飛んできた。
さあ、どっちの兵士だ?
場合によっては暴力沙汰になる覚悟をし、しかし現れたのはどこかで見覚えのある顔。ギートと同じ、王宮の紋章が入った鎧を着ている青年だった。
腰の剣に手をかけていた相手も、私たちを見て「あれ?」と呆けた。
「お前たちがなんでこんなとこに?」
村にいた王宮兵士には何も事情が伝わっていないらしい。ともあれ、味方だったことには安堵し、力が抜けた。
「おい?」
「静かに。俺らがここにいることがバレたらまずいんだ」
ギートが言うと、その青年はきょとんとしたところから、ふと何かに気づいた顔になる。
「お前らまさか・・・いやーそれはさすがに不謹慎だろー。いくら若さがあり余っててもよー」
どうも失礼な勘違いをされている気がする。
「領主館じゃできなかったのか?」
にやにやと下卑た笑みを浮かべる彼。私は、ふー、とまず息を吐く。
「ごめん、ギート。君の先輩かもしれないけど殴りたい」
「遠慮すんな。拳でいけ、顔面に」
「照れ隠しには激し過ぎねえか!?」
ああもううるさい。
夜通し歩き続けて疲労がピークに達している時に、ゲスい冗談言われて朗らかに流せると思うなよ。
「バカ兄ボケ兄いっぺん死ねっ。とっとと領主兵に見つからねえとこに案内しやがれっ」
「兄上様に対する態度じゃねえぞ! なんなんだよ一体!?」
お願いだから騒がないで、と注意する前に。兄と言ったか今?
「え、なに、この人ギートのお兄さんなの?」
「義理のな。もう一人上にいる。そっちはまともだがこっちは色ボケのポンコツ」
「さっきからひどいぞお前・・・」
後でカルロさんと名乗ってくれた彼は、ギートに蔑みの目を向けられしゅんとなっていた。そういえばこの人、グエンさんと目元が似てるかも。グエンさんは実子が二人もすでにいた上でギートを引き取ったのか。すごいなあ。
二人のやり取りから、楽しい家庭なんだろうなあというのはわかった。わかったので、いい加減、実のある話をしよう。
「カルロさん、領主兵は村の中にいますか?」
「は? 領主の兵? いや、夕方頃になんか召集かかったとかで今は一人もいないぜ。もともとこっちは手が足りていたし、問題はないが」
なんと好都合。キクス村を選んだのは悪くなかった。
「今、私たちはとても深刻な事態に陥っています。慌てず、騒がず、私の言う通りに動いてもらえますか?」
真剣な顔で詰め寄ると、カルロさんもただことではない様子を察して居ずまいを正した。
「――何をすればいい?」
「私とギートの存在が領主にバレないように細心の注意を払ってください。今から事態を説明しますので、リル姉とジェドさん、それから村長か、誰か話が聞ける村人をどこかの家に集めてください」
「わかった」
素早く頷いてくれた彼は優秀な兵士だ。と思った矢先、
「妹のほうも美人になってきたなー・・・たまには年下もいいか?」
背を向けて何かぶつぶつ言ってやがった。
「歯ぁ食いしばれ」
「うわ、うそだってば! ほ、ほら、こちらへどうぞ魔法使い様」
不謹慎で軽薄な兄の言動に、ギートは拳を固めたまま深い溜息を吐いた。疲れている時でなければ、愉快な家族なんだろうね。
その後、私たちは医療団が休憩所に使っている民家で待機し、カルロさんがリル姉たちを呼んで来てくれた。
「~~リル姉!」
姿が見えた瞬間にもう、私はリル姉に抱きついた。
ああ・・・癒される。心からほっとしたついでに、殺されかけたりしたことなどを思い出し、ちょっと泣きそうになった。
リル姉はそんな私をぎゅっと抱きしめ返してくれる。
「大丈夫? 大変だったのね・・・」
こんな明け方まで看病していたのだろうリル姉は、幸いと元気そうだ。ヒ素害の影響も出ていない。全身土で汚れて擦り傷作ってる私のほうをむしろ心配している。
「昼間も村に来たって聞いたわ。何かあったのね?」
「うん。皆さんも聞いてください」
名残惜しいがリル姉から離れ、集まってくれた彼らにすべて説明した。
公害なんて知らない人々にとっては、なかなか信じ難いことだろうから、できる限り丁寧に誤解のないよう話した。領主に私たちが殺されかけたことについても、余さず。
そして説明を終えた後、室内を支配した沈黙は、おそらく彼らが理解したことを示しているのだと思う。
「――じゃあなにか? 原因は患者が口にするものすべて、ってことか? ふざけやがって」
ジェドさんが忌々しげに床を踏み鳴らす。彼が治すためにどれだけ必死になっても、その傍らで絶えず毒を摂取させていたとなれば憤慨もするだろう。
「領主様はわしらを見捨てなさったのか」
対照的に、静かに言うのは椅子に座ったキクス村の村長だ。老人の顔には白い角質ができており、足は黒ずんでいる。付き添いの若者に支えられながらも、意識はしっかりしていた。
その瞳には静かながらも激しい怒りが潜んでいるようで、私は彼の言葉に首を縦にも横にも振れなかった。
「・・・あの方を領主とはもう思えん。このことを他の村や街の人間にも言えば皆そう思うだろう」
「落ちついてください」
なるべく刺激しないよう、声のトーンに気をつける。彼らが動くのが一番怖いのだ。
「腹が立つのはわかります。ですが、貴重な労力は水と土を取り戻すために使いましょう。荒事は精強な兵士にまかせて、私たちは水を浄化することをまず考えるべきです。それが最も子供たちのためになることです」
怒りを鎮めるには守るべきものの存在を思い出すのが一番。
ついでに気を逸らす目的で呪文を唱え、空間に水の塊をいくつか出現させてみた。低い歓声が周囲で上がる。
「浄化設備ができるまでの飲み水は魔法で作ることも可能です。なので冷静に、お願いします。あなた方が怪我をしてまで得るべきものは何もありません」
これは空気中の水分を冷やして液体にしたもの。まあ結露みたいなもんかな。大丈夫、飲める。せっかく出したので、空の水瓶に入れておいた。
「・・・ですが、領主をまずどうにかしなければならないのでは?」
間近で魔法を使ったおかげなのか、村長の私に対する言葉遣いが丁寧になった。
「準備は進めておけると思います。鉱山にも私たちを逃がしてくれた味方がいますから。鉄と塩酸と、中和剤として植物灰でもあれば・・・」
「エンサン?」
一様に首をかしげられる。そういえば、ヒ素もそうだが塩酸って日本語で喋ってた私。しかしこっちの言い方がわからない。
「酸です、酸。鉄を溶かす液体があればいいです」
「あるのか? そんなもの」
ジェドさんに逆に聞かれた。あんた医者なのに。
「・・・まさか、硫酸もないですか? 硝酸も? 鉱山なのに?」
聞いても誰も知らないし伝わらない。硫酸や硝酸の原料は鉱物として採れたりするんだが。
もしかして一から作らないといけないのか? うわー、さすがに私も試薬の作り方まで熟知してないぞ。えーっと、えーっと、どうすればいいんだ?
「塩酸は水素と塩素だから、塩素があるのは、海? あ、海水を電解すればいいのかな。いや、そんなことしなくても確か、黄鉄鉱を焼けば硫酸ができたとか聞いたことあるような・・・」
注目を浴びてるのをわかっていつつ、腕組みしながらぶちぶち考えてみるが、曖昧な記憶しか頭にない。だがとにかく、やってみるっきゃない。
「ねえ」
顔を上げた時、私はようやく、何度も誰かに声をかけられていたことに気がついた。
「君の言う水の浄化は、魔法でできると思うよ?」
他に仮眠を取っていた人と同じく、床に寝ていたことでずっと気づかなかった。
病人でもない、医療団でもない、兵士でもない、どころかたぶん、村人ですらない人が、部屋の隅にいたことに。
長い杖を持って外套を羽織った旅装のその人が、立ち上がって私の前に来た。
「もっと詳しい話を聞かせて? そうしたら、きっと協力できると思う」
彼の肩には緑白色の髪が垂れる。
微笑みながら私を見下ろす瞳は、どこかでも見たような、赤い色をしていた。
 




