50
雨の音がする。
その振動は絶えず鼓膜を揺らすのに、不思議と静寂を感じさせた。他の音が一切聞こえないせいだろう。それがひどく心地良い。
身じろぐと硬いもので頭の後ろが擦られた。石か? これは。
いつの間に閉じていたかわからない目を開けて、視界にまず飛び込んできたのは暗い岩肌だった。すぐ、坑道にいるのだと察する。外の光が届く入り口付近に私は横たわっていた。
反対の壁側には、ギートが座っているのが見えた。
「――起きたか?」
外を窺っていた彼がこちらに気づいたので、頷きを返す。眼帯は外されていた。
起き上がろうとしたらお腹に鈍痛が走り、力が抜けた。なんだろ、鳩尾の辺りがすごく痛い。吐きそう。
「無理すんな。もうちっと寝とけ」
やけに優しい声音でギートが言う。視線は再び外へ向けられていた。
「周りに人気はねえから安心しろ。たぶん、もう使われてねえ坑道なんだろ」
廃坑道ってやつか? ずいぶん前に放棄されたのか、坑道の前には草木が生い茂って麓までの道らしきものも残っていない。廃坑道は崩落の危険が大いにあるのだが、雨が降っている外へ出るのは同じくらい賢明でなかった。
さて、私はどうやら気を失っていたらしいが、なんでだったかな。領主の兵から逃げる途中に崖から落ちて、そういえば雷が鳴っていたな。そうだ、近くに落ちたことにびっくりして、パニックを起こしたような気がする。近くと言っても至近距離でなく、もっと離れた場所に落ちたのだろうが、音と光の衝撃で完全に理性を失った。そこから記憶が途切れて今ここにいて、鳩尾が痛いってことから察するに――
「ねえ・・・ギート、もしかして、私を殴って気絶させた?」
ほんの少し、しかし確実に彼の体が震えたのを視認できた。
「し、仕方ねえだろ」
若干声を上ずらせつつ、ギートが肯定と同義の反論を発した。
「わけわかんねえこと叫んでめちゃくちゃに走り回って怖ぇし、他にどうしようもなかったんだよっ」
だからって、女の腹に拳入れるのはどうなのよ。
「そこは、優しく抱きとめるとか・・・」
「無茶言うな」
そうですか。パニック状態でもっとひどい怪我をするよりはましだったと思っておくか。
「雷ごときにビビり過ぎだっつの」
「いっぺん雷で死んでみれば私の気持ちがわかるよ」
「お前も死んだことねえだろ」
あるんだよねえ・・・言わないけど。
寝たままで、ギートの格好をよく見ると鎧に隠れていない肩や襟首など全身に濡れた染みができていた。短い髪の先にも滴が付いている。対して私は、ほとんど濡れていない。少し濡れたらしいローブは脱がされて岩の出っ張りに引っかけてある。
優しく抱きとめてはもらえなかったが、ここまで運んで来る間には、雨に濡れないよう庇ってくれたのだろう。そして私が寝てる間もずっと周りを警戒してくれていた。
そういえば、さっき領主の兵から助けてくれたことにもお礼を言ってなかったな。本当は喧嘩するより先に感謝を述べるべきだったのに。
「ギート、ここ、来て」
自分の頭の横のスペースを示す。
「なんだよ」
「いいから」
彼が横に座ったら、小さな火を発生させる呪文を唱えた。彼の前に熱を持った火の玉が現れ、近くにあるものをぼんやり温め始める。
「山の中で体を冷やすと、死んじゃうよ」
他に火を起こす方法がない時、魔法は便利だ。私もついでに温かい。
「お、おう・・・どうも」
ギートもやはり寒さは感じていたのか、オレンジ色の火に表情が少し緩んでいた。その横顔に、まずは謝罪の言葉をかける。
「ごめんね」
一度寝て、落ちついたらかなり冷静な思考が戻ってきていたのだ。
「あの領主、私が言う前からたぶん毒が流れてることを知ってたんだと思う」
「どういうことだ?」
「『魔石の調査だけで帰っていれば良かったものを』って言ってたでしょ。大体、館で説明した時から物わかりがよすぎたよね。もっと、信じられないとか騒いでもおかしくないのに。私に対する態度が異様に丁寧だったのも今思えば何かあるのが丸わかりだった。――久しぶりで忘れてたよ。現地の人たちは、本と睨めっこしてるだけの学者なんかよりもずっと聡いってこと。きっと鉱山の人たちは皆、気づいてたんだ」
魔石が原因でなくても、鉱山に問題があることには勘付いていたんだろう。誰かが領主にすでに知らせた。そして領主は自分でももう、水を浄化する方法がないか調べたのかもしれない。だけど見つからなかった。
彼らは聡く、しかし建設的じゃない。結局、鉱山を動かし続けたって人はどんどん死ぬだけだ。わかってるくせに、滅びへ向かう繁栄を選んだ。
「・・・思い通りにならないことは多いけど、最近は周りが優しくて、話を聞いてくれる人ばっかりだったから、浮かれてたのかもしれない。世の中、皆が正論に従うわけじゃないのにね。もっと慎重になるべきだった」
考えることを疎かにしてしまった。それでギートのことも危ない目に遭わせたのだから、やっぱり私が悪かったんだ。
「うかつなことして、ごめんなさい。でも、ギートがいてくれて助かったよ。ありがとう」
「・・・いきなり素直になんなよ」
気持ち悪ぃな、とぼやいてギートは頭の後ろを掻く。
「まあ・・・なんだ。俺もむしゃくしゃしてて、八つ当たりしたのは悪かったと思ってる。あと殴ったのも。あんま加減してなかったかも」
「うん、かなり痛いけど良いよそれは。ただ、もし次があったら今度は殴らないで」
外の雨はまだ降り止まない。しばらく休憩だ。また、遠くでごろごろ鳴る音がした。
坑道の中なら安全とは思いつつも反射的に体が強張り、集中が切れたせいで火の玉が掻き消えてしまう。すると額に手が触れた。
「大丈夫だ」
ギートはかすかに笑っているようだ。剣を扱う無骨な指は思いのほか柔らかく、前髪を梳くように優しく動く。
「知らねえのか? 雷は高いところに落ちるんだぜ。お前みてーなチビには一生落ちねえから安心しろ」
「そっちこそ知らないの? 落ちた場所の近くにいたら感電するんだよ。それに平地だったらチビにだって落ちる」
すかさず情報を訂正して追加。そしたらわざとらしく溜め息を吐かれた。
「可愛くねえなあ、人がせっかく慰めてやってんのに」
「お気遣いどうも。馬鹿にされてるように聞こえたよ」
「偉そうにしてても怖がるものがガキと同じなんだよ」
ギートはまだ笑っていたし、手はまだ私の頭をなでている。まるで本当に子供をあやしているみたいだ。
「ギートは兄弟いるの? 弟とか妹とか」
「あ? なんで」
「何か慣れてる感じがする。気安く触ってくるし」
別に触るなという意味ではないのだが、ギートはすぐ手を離した。無意識でやってたのか?
「あー・・・まあ、兄弟みたいなものはいたけどよ」
気まずげに視線を逸らす、彼の話を聞く前に火の玉を復活させる。
「みたいなって?」
「路上生活してた時の孤児仲間。そん時も雷怖がるチビがいて、よくしがみつかれてた」
おう? さらっと意外な事実を聞いたぞ?
「待って、孤児だったの? 苗字があるからてっきり普通の家の子かと思ってたよ」
「苗字はあれだ、隊長のだ」
グエン隊長? そういえばあの人の苗字は聞いていなかったが。
「グエンさんの養子になったってこと?」
「ちっと馬鹿やった時に、助けられた流れでついでにな」
これをきっかけに、雨が止むまで他にすることもないので、私たちは互いにぽつぽつと昔語りなどを始めた。
ギートの故郷は王宮所領の北方。あまり冬が厳しくない王都に比べて雪も多く、皆で身を寄せ合っていないと凍え死ぬような場所だったそうだ。ギートは自分の正確な年齢も、親の顔もよく覚えていなかった。母親は娼婦で物心つく頃には亡くなり、父親などもとより知らないそうだ。
「チビの頃から腕っ節だけは強いほうだったんだよなー」
そうぼやくギートはつまり、ガキ大将みたいなものだったようだ。食べ物は拳で勝ち取り、年上の子にも負けなかった。喧嘩で連勝していたらいつの間にか弟分、妹分が増えていた。
それで、徒党を組んだ彼らは悪さを働いていたわけだ。
盗みに入った店の人に追いかけられて、逃げ遅れた仲間を庇った際に左目を潰されたらしい。
「自業自得ってやつだ」
本人は至って軽い調子だった。強いと言っても、それは子供どうしの喧嘩の話であって、倍以上も体格の違う大人相手じゃ分が悪い。殺されかけたところに、兵士が駆けつけてきたので助かった。
それが当時、その地方の警備を担当していたグエンさんだった。
グエンさんはギートを気に入って引き取り、子分たちの身の振りも世話してくれたそうだ。一生頭が上がらないレベルの大恩人だね。
グエンさんが地方警備の任期を終えた後に、王都に戻る際も当然一緒に付いて行き、ギートも兵士に志願して、小隊長に出世したグエンさんの隊に入ったそうだ。
「苦労したねー」
「一言にまとめんな」
だって他に言い様がなくて。
「義眼をもらったのは王都に来る前?」
「ああ。・・・確かに俺は運が良かったんだろうな。拾ってもらって、タダでかわりの目も貰えて。最期はろくでもねえ死に方するような気がすっけど」
自嘲するようにギートは笑っていた。
「実際、お前は俺よか立派だ」
「なに突然」
「あのとぼけた姉ちゃん守って、悪させずに働きながら勉強して、真面目にやってきたんだろ。たぶん良い死に方すんぞ」
今まさに危機的状況にありますけどね。良い死に方ってどんなんだ。
「ギートだって悪人ってわけじゃないでしょ」
なんとなくは褒めてもらえた気がするので、お返しをしておこう。
「片目を失ってでも仲間を守ったり、兵士になったのだってグエンさんへの恩返しでしょ? 大丈夫、傍から見れば立派でそこそこ善人だよ」
「そこそこかよ」
「まったく善良であることは難しい。でも、胸張って生きなよ。ギートはもう何人もをその手で助けてるんだから」
辛々に命を繋いでいた子供の行為を罪と呼ぶのは酷であるように思えるし、たとえ罪であったとしても、彼が私を救ってくれた事実が消えるわけではない。
過去の償いのためだろうが恩返しのためだろうが動機はなんだって良く、行為こそに意味があり、助けられたこっちはひたすらありがたいだけだ。せめて感謝された分だけでも自分を認めてやったらいい。
「善人が良いことをするんじゃなくて、良いことをした人が善人なんだ。人の性質は固定されたものじゃないよ、過去に卑屈にならないで、今、自分の理想とする生き方をすればいい。死に方はどうせ選べないから気にすることないよ」
「・・・そうかよ」
ギートは胡坐の上に肘など突き、呻く。
「よくそういう・・・偉そうなこと、恥ずかしげもなく言えるな」
「友人を励ますことが恥ずかしいことだとは思わないからね。偉そうに言ったほうが説得力あるでしょう?」
おどおど励まされたって元気出ないさ。少しムカつくくらいでちょうど良いんだ。ギートは溜め息を吐く。
「・・・ま、ありがとよ」
息と一緒に、素直なお礼の言葉が漏れた。
「俺もお前にはちっと感謝してんだ。おかげで王家の覚えは良くなったし」
そしてこの際とばかりに、そんなことも言われる。ギートが会った王家と言えばアレクとフィリア姫。確かに顔は覚えられたろうが。
「取り上げられて近衛兵、って出世コースもあるかもしれねえだろ?」
声を弾ませている様子から、まあまあ本気で期待している心が窺える。
「あるかなあ」
「前例はある」
そういやジル姉も農民出で王室警護してたらしいが、そういう枠があるのかな。
「出世して色々手に入ったら、少しはまともな恩返しもできんだろ」
物質的な豊かさを得ることよりも、出世自体が親孝行ではあるだろう。目標が高いのは素晴らしいことだ。
「――そう。でも良かったよ。ギートには迷惑かけてばっかりだと思ってたからさ。出会い頭から悪いことしちゃったもんねー」
「あ? ・・・あぁ、あれか」
懐かしくてつい口走ってしまったら、ギートもまだ覚えてはいたようだ。
「気にすんな。どこにも付いてねーから」
こともなげに。
なんだそれ、頬にも付いてなかったってことか? いやでも改めて冷静に考えてみれば、目を覗いていてうっかり頬にキスするというのは、鼻が物理的な障害になるよな。要するに無理だ。
「じゃあなんで変態とか言ってきたの」
「初対面であんだけ近寄って来る奴はいねーよ普通」
普通にないからって変態に分類するのはやめて!
「君がそういうこと言うから、あの時アレクに間違った説明しちゃったじゃん!」
「あれ、く? どこの・・・あ、王子殿下か? お前なあ、さすがに気安いにも程があんだろ」
今は他に人いないからいいの!
「べっつに殿下に勘違いされたって困ることねーだろ」
「ある! 私の名誉の問題だ!」
「そりゃ悪うございましたねー」
本気で謝る気ないなこいつ。彼はもう少し女性への接し方を勉強するべきだ。紳士にはまだ遠いぞ!
ただ、こうしてギートと犬のようにぎゃんぎゃん騒いで言い合って、一つ良かったこととしては、雷の音があまり聞こえず、いくらか怖くなかったことだろうか。
――だが、騒いでいたのはやはり良くなかったかもしれない。
真っ先にギートが反応した。
私も頭をもたげて坑道の奥に目を凝らす。と、ランプを持ったドワーフが、暗闇の中からゆっくり姿を現したのだった。




