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 ヒ素が人体に有害であることはすでに周知の事実だろう。普遍的に存在し、無色かつ無味無臭の毒物は歴史上で暗殺の道具として頻繁に用いられ、かの皇帝ナポレオンの死因もヒ素による毒殺ではないかなどの逸話が残っている。推理小説にもよく登場する手法だ。しかしヒ素は体内に残留し容易に検出できることから、すぐに殺害方法がばれるので《愚者の毒》という異名も付いている。

 ここで一つ注意しておかなければならないのは、『毎日少しずつ毒を飲み、耐性を高める』という話が、きっぱりと迷信であること。

 すべてのものには致死量がある。毎日少しずつ毒を飲めば体に少しずつ蓄積されていき、ある一定の量を越えると症状として現れ、最後は死に至る。耐性は高められない。

 今、キクス村に運び込まれた人には、それと同様のことが起きている。

「つまり、鉱山から流れてくる水にその毒が含まれてんのか」

 村から急いで街へ戻る道中、ギートが先程までの私の説明を要約した。

「鉱山のヒ素が雨水に溶け出して、排水道から絶えず微量に川に流れ込んでいるんだと思う。あるいは地面に染みたのが地下水になって、井戸から汲み上げられても同じことだ。長年に渡って日常的に少しずつヒ素を摂取していって今、慢性ヒ素中毒の症状が出始めたんだよ」

 老人に多く症状が出ている理由はこれで説明がつく。急性ヒ素中毒はショック状態から間もなく死に至るが、慢性ヒ素中毒は皮膚の炎症が特徴的だ。肌が脱色し斑点が現れたり、角質が増えてタコ状態になったり、末梢神経にも炎症をきたして体がしびれるような感覚になる。ひどい時は下肢が壊死する。

 ヒ素は植物にとっても有害だ。ヒ素の含まれる水を与えることで葉が特徴的な枯れ方をする実験の例があった。汚染された水をまかれた土壌もまた汚染される。濃度によって植物は枯れないこともあるが、ヒ素を吸っていないわけではないため、汚染土壌で生育したものを人が食べることはおすすめしない。が、村人たちは食べていたはずだ。街の人々も。微量ながらもヒ素が含まれるものを、食べ物から水から、何十年も摂取し続けていた。

 例えば戦時中なら人は早く死ぬため、問題にならなかったかもしれない。平和な世になったからこそ、この公害問題は表面化した。

「山は穴だらけだった。ヒ素の鉱脈が剥き出しになってる箇所もあるかもしれない。それだと雨水で削れやすくなるから、早くどうにかしないと、そのうち若い人にも影響が出るようになる」

「で、どうすんだ?」

「それを領主と話し合うの」

「お前んちの庭から毒を垂れ流して領民殺してんぞって、言うのか?」

「喧嘩売りに行くわけじゃないよ。ギートは黙ってて」

 問題への正しい理解は不可欠だ。今のギートのような言い方で領民に伝わってしまったら暴動が起きかねない。慎重にいかなければ。

 館に着いたら、部屋で書類仕事をしているというディオン領主にすぐさま面会を願い出た。

「――では、原因は鉱山だと?」

 人払いをした応接室で、私の話を聞いた彼はひどく驚いていたものの、みっともなく取り乱すまでには至らなかった。

「その、水に毒が混ざっているという確証はあるのですか?」

「いいえ」

 検査キットがあるわけではないので確証など得られない。しかし他に聞いた情報と合わせて考えれば、おそらく間違いないと推察できるのだ。

「疫病だとするとおかしな点が多いのです。もっと短期間に爆発的に広がっていいものが、今回の場合はあちこちで少しずつ患者が現れ始めました。しかも同じ家に住んでいる家族全員がかかった例がありません。鉱山に含まれる物質が水に溶け、人身被害をもたらすことは十分にあり得ることです。このまま何もせず待っていても事態は解決しません」

 領主に腰を上げてもらうため、具体案についても触れる。

「応急処置的に溜め池を作って鉱山の排水が川に流れ出るのを止めましょう。それから領民に配る食糧と水の調達を早急にお願いします。新たにヒ素を摂取しなければ軽度のものは治るので。また、今回表面化したのはヒ素の害でしたが、精錬所からの排水も他の有害金属に汚染されている可能性が高いので、こちらの操業を一旦停止するとともに排水処理の施設を建設すべきです。でなくば、ここは《荒れ地》のような人の住めない土地になってしまいますよ」

「・・・そうですね」

 領主は神妙な顔で頷く。事態の深刻さは理解してくれたようだ。

「このことはすでに他の誰かに?」

「いえ、まだです。まずは領主様にお話しするのが筋かと思いましたので」

「それは、お気遣いありがとうございます」

「王宮への報告書は私が作成しますので、領主様は領民への伝達を正確に、冷静にお願いします。暴動が起きないように」

 公害問題が一般的に知られているものではない以上、ディオンさんに咎はない。そもそも誰かを責めてどうにかなることではないのだ。ただ、この話を聞いた以上、彼には領民への説明と対策を講じる義務が生じた。

「わかりました、事は急を要するようですね」

 聡明な領主はさっそく立ち上がった。良かった、理解を得られて。

「その前に一つお願いがあります」

 安堵した途端、続いて言われた。

「なんでしょうか?」

「その、排水を処理するなどの作業で鉱山の操業が止まってしまうとなると、現在鉱山で働いている者が納得できる説明をしなければなりません。なにぶん初めて耳にするお話ですので、私よりもあなたの口から直接説明されるほうが良いように思われます。つきましては、今から鉱山へ共に行っていただけませんか?」

 おお、行動がめちゃ早いな。そのくらいならお安い御用だ。報告書作成の前に片付けてやる。

 そんなわけで館の外に出ると、午前中にもあった雲が空でまとまってきていた。

「どうした?」

 立ち止まってしまったので、すぐ後ろを付いて歩いていたギートに訝しがられた。

「・・・や、天気悪くなりそうだなと思って。早く済ませよう」

 気持ち早歩きで鉱山へ向かった。



 まず麓の精錬所で説明した後、採掘のほうで働いている鉱夫たちの説明のため、山にも入ることになった。

「上に鉱夫たちの休憩所がありますので」

 そう言われてこの間とは別の山道を登っていく。鉱夫たちは時に山に泊まり込んで仕事をしているらしい。にしても今回、山登り多いわー。乗馬の後だからなお、きっついわー。麓に鉱夫たちを集めてくれれば良いのに。この勢いで街や村人への説明も頼まれそうな気がしてきた。

「すいません、少し休憩させてください」

 ずいぶん登るものだから、さすがに息切れした。

 近くに平らになっている場所があると領主が案内の鉱夫から聞き出し、一度脇道へ逸れてそこへ連れて行ってもらった。いや別にその辺の石の上に座るくらいでも良かったんだけど。

 木々が開けたそこには沼があった。平らになっているので水が溜まるのだろう。休むついでに、濁って不透明なこの水の中にも汚染の影響はないか確かめたくなり、岸の傍に座り込んだ。もし魚が死んでたりしたらマジでやばい。

 しかしなんも見えないなー。首を伸ばして水面の底を覗き込んでいたら、甲高い音が響いた。

 え、なに?

 よくわからない不安に駆られ、おそるおそる振り返るとギートの背中が非常に近くに見えた。そして彼の正面にも、非常に近いところに領主の連れて来た兵士がいる。

 その兵士とギートの間では、二本の刃が交差していた。

 ・・・どういう状況だ?

「立てっっ!!」

 ギートの鋭い指示に、体は反射的に従っていた。そのわずかな間で、ギートは相手を弾いて蹴飛ばし、続いて突っ込んできたもう一人のことも私を背に庇いながらうまくかわして後ろの沼に落とした。残った兵士は剣を抜いたまま間合いをはかっている。

「何をするんですか!?」

 攻撃が一瞬止んだ隙に領主へ問い詰めた。まったく、意味がわからない。なぜ私たちは彼らに襲われているんだ?

「魔石の調査だけで帰っていれば良かったものを」

 その声音の冷たさに息を飲む。領主は強張った表情で、睨むよりも強い眼差しを私へと向けていた。

 この目は知ってる。明確な、殺意を持っている時の目だ。

「・・・なぜ、ですか?」

 どういうつもりなのか。問わずにはいられない。恐怖はもとより疑問が大きい。すると領主はほんの少し口の端を上げた。

「王宮にこのことを報告してみろ、私はどうなる? 領民を苦しめ続けた愚かな領主と謗られるか?」

「起きてしまったことに関してあなたに非はありません! 領主としての資質を問われるのはむしろその後です!」

「鉱山を止めては領地経営もままならぬ。土地を取り上げられるのと同じことだ」

「ずっと止めろとは言っていません!」

「ならばどうやって水を浄化する? 魔法でできるのか?」

「・・・魔法、でそういうものはありません。ですがっ」

 この時、嘘でも「できる」と即答しておけば良かったのかもしれない。

「やはり、魔法とは破滅の力か」

 領主は私の言葉を途中までしか聞いてくれなかったのだ。

「魔法使い殿は慣れぬ山中で足を滑らせて死んだ。王宮へはそう報告しておこう」

「待ってください! 方法はあります!」

 続く言葉は命乞いの嘘じみた響きを持った。剣を抜いた兵士が殺到してきたら、もはや言い訳している場合ではない。

 くそっ、なんでこうなるんだ!?

「先逃げろっ!」

 完全に囲まれる前に、隙間からギートが私を放り出す。彼は大丈夫なのか、など生意気なことは考えず、一度も後ろを見ずにひたすら走った。戦えない私は単なるお荷物でしかない。特に近距離戦じゃ無能もいいところ。

 道などない斜面を転げるように降りる。麓のどっかには出られるだろ! グエンさんたちに会えればなんとかなる!

 そんな希望と、後ろの怒声がまだ小さくならない恐怖と、どんどん急になる斜面のせいで疲れた足が必死に回る。やばいやばい本気で転びそう!

 しかし私の身には転倒よりも大変な危険が迫っていた。それは、足元ばかり気にしていたなかで不意に視線を上げたら気づけた。

 

 先に地面がないことを。

 

 崖ぇぇっ!

 咄嗟に体を横に捻って、なんとかぎりぎりの縁で止まれた。や、やばかった。茂った草木に視界を覆われて、先が見通しにくくなっていたのだ。

 下を覗く気にはならないが、かなり高低差がありそう。つかこれ逃げ道ないけど、どうすれば――――

「!? なに止まって!」

 ギートの切迫した声と衝撃の次に、浮遊感。そして落下。

「っ、馬鹿ぁぁぁーーっっ!」

「わざとじゃねええええっ!」

 背後の追手を気にしていたギートが、崖に気づかず私を突き飛ばしつつのダイブ。あまりの出来事に思わず無駄な罵声が飛び出した。こんなこと叫んでる場合じゃない!

「ミンフェアレ!」

 開封の呪文を唱え、風の煽りを受けつつ着地点を見定める。落下までに魔力の取り出しがどれだけできるか、ほぼ賭けだった。

 ひどく、長い時間のように思えた。

「ツェルアレウ!」

 緑の中に入ったところで、下から渦を巻く風に包まれ、落下速度が急速に落ちていった。しかしやはり魔力が足りなかったらしく、速度を殺し切れずに最後はしたたか地面に打ちつけられた。

 痛い。でも、生きてる。

「ギート? 大丈夫?」

 隣で気配が先に起き上がるのを感じた。どうにか彼のことも風で受け止められたようだ。同じ高さから同じ初速で落とされた物体は重さに関わらず同時に落ちる。自由落下の法則。空気抵抗で若干ずれたけど大丈夫だった。

「立てるか?」

 ギートは空中でもなくさなかったらしい剣を鞘にしまい、手を貸してくれた。

「なんとか。さすがに、ここまでは追って来れないかな」

 崖の上はよく見えないが、続いて落ちてくる影はない。ただ、緑の天蓋の隙間から少し見えた空にはだいぶ雲が広がっているようだった。

「死体は確認しに来るだろ。早いとこ逃げるぞ」

「うん。急ごう」

 方角もわからず道なき道を適当に進むという、引き続きやばい状況でとにかくその場を離れるためだけに動く。

「ほんっっと、お前といるとろくな目に遭わねえ」

 束の間の安堵がもたらした余裕のせいか、しばらく後にギートが悪態をつき始めた。

「私のせいじゃないってば」

「嫌な予感がしたんだよなあ。毒が流れる土地なんて領民が逃げてもおかしくねー話だ。まして金になる鉱山を止めろとまで言われて、はいそうですかと素直に聞き入れる奴なんざいねえだろ」

 まるで自分ははじめからわかってたみたいな言い草。結果論じゃないかそれは。

「なら、止めてくれたら良かったのに」

「お前が黙ってろっつったんだろーが。どうせ、誰よりも自分のほうが頭良いとでも思ってんだろ? 自分の言うことには誰もが従うって。単なる小娘のくせに」

「それ半分以上、八つ当たりだよ」

 こんな場所で喧嘩すべきでないのはわかってる。だがどうしても聞き捨てならなかった。

「誰もが私に従ってくれるなんて思ってない。思い通りにならないことばっかりだよ、今だって、これまでだって。君に私の何がわかるの?」

「だからその呼び方やめろって」

「気遣いのできない人に気遣いを要求されたくない」

 単に生意気だと言われるよりも腹立つ。しかしあまり口論を長引かせる気はなかった。そのくらいの理性はまだ残ってる。

「愚痴は後でゆっくりたっぷり聞いてあげるから、急いで降りよう。天気が悪くなってきてる」

 しかしクソガキはまだグチグチ続ける。

「こういう時の便利な魔法はねえのかよ? つーかさっきも、敵を蹴散らす魔法でも一発かませよ。そしたら崖から落ちるはめにゃあならなかっただろうに」

「魔法苦手なの」

「なんだそれ。じゃあ魔法使いじゃねえんだよお前」

「うるさいなー、戦えないから君を付けてもらったんでしょ。そっちこそ、あのくらい軽く蹴散らしてよ」

「五人も六人もまとめて相手できるわけあるか。しかもそこそこ訓練積んでるの相手に無茶言うな」

「私も同じ気持ちだよ。いいから早く行こうっ」

 地面に埋まった大きな石を飛び越え、ギートより先に行く。

「おいっ、丸腰のくせに俺より前に出るな」

「だってうるさいし遅い。早くしないと」

 ごろごろごろ、と地獄の底から響くような低い音が聞こえてきた。

 ――――あぁ、ほら、やっぱり。早くしないと。

 その音は実際は空から聞こえる。私はよりいっそう足を早めた。

「おい待てって!」

 待ってられない。山中でこの音を聞くなんて最悪だ。街中でさえ冷静でいられないのに。

「早くっ、私たちはもうヤツの射程範囲に入ってる!」

「はあ?」

 暢気なギートにただひたすらイラつく。

「木の傍はだめ! 早くどこか、せめて身を隠せる場所に!」

「なんの話だよ!?」

「雷だよっ!!」

 私のトラウマその2、いや、順番的にはその1。自分を殺したものに対し、何にも勝る恐怖が思考を支配する。

 早く岩場とかなんかとにかく通電性が悪そうで高い木の傍じゃないところに! 音がかすかにでも聞こえたならもうそこは危険区域だ!

「一旦待て! 落ちつけって!」

 そんなギートの制止を掻き消すタイミングで、視界に閃光が走り、大地を割ったかのごとくの凄まじい轟音が鳴り響いた。


 落ちた――――どこに? まさかまた私に? 勘弁しろ。

 いや、たぶん違うな。私はまだ生きてる。だがどういう状態にあるのか不明。衝撃でいっぺんに頭が真っ白になったのだ。

 それからまた軽い衝撃を受けた気がしたが、もうすべては白い光に包まれて、確かなことは何もわからなかった。

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