05
犯罪者デビューします。
とは言えないわな。冷たいプールにいきなり入ったら心臓が止まるように、慣れない悪事は死のもとだ。なにより、リル姉を貶めるわけにいかん。
しかし、もう犯罪でもせにゃならんかというところまで追い詰められているのは確かだった。最近、街にブーケ売りと靴磨きが増えたんだよな。仕立て屋に端切れを貰いに行っても売り切れで、礼拝堂の周りは嫌な奴らがたむろしている。完全にシェアを喰われた。しかも、あいつら客引きが強引だからこっちまで警戒され、一日に100ベレ稼げたらいいほうで、平気で三、四日何も口にできない。寝ても覚めても毎日毎日食べ物のことばかり考え、残飯がないか飲食店の周りをうろうろするみじめな生活を送っていた。振り出しに戻る、である。いやもっと悪化したかもしれない。
世界から飢餓をなくすために働いていた私が、まさか異世界で当事者になろうとは。あの頃の私は、理屈で深刻な事態だと理解していたが、実感は伴っていなかった。良い経験をしたと暢気に言える。元の世界に戻れるのならば。
夜にリル姉といてもお互い話をする気力すらなく、すぐに突っ伏してしまう。だが空腹で眠れない。寝不足だと情緒不安定になって、やたらに他人が憎くなる。
自分の中に二つの自我が同居しているような感覚があった。勝手にざわつく心を冷静に見つめている理性のようなもの。それがある限りは、まだ大丈夫だと信じたい。
ようやくうつらうつらしてきた頃、隣の気配が動いた気がした。がんばって意識を呼び戻し、目を擦ってよぉく凝らすとなんとリル姉がいない。今までこんなこと一度もなかったものだから、全身からさっと血の気が引いた。
慌てて通りに出ると、果たしてリル姉はすぐ見つかった。けど・・・なんか、知らない親父といた。無精ひげを生やしたきったない親父が、リル姉の華奢な肩を抱いて、リル姉に嫌がっている素振りはないが縮こまっている。つい声をかけるのをためらってしまっているうちに、二人は路地裏に入っていった。
まさか、まさか・・・
嫌な予感が心臓を激しく打ち鳴らし、急いで追いかけた。すると、行き止まりの道の奥で、影が地面に折り重なって見えた。
「かじだぁぁーーーーーっ!!」
無我夢中で、私は叫んだ。上に覆いかぶさっていた影が驚いて飛び起きた。
「すぐそこだぁっ! こっちにくるぞぉぉーーーっ!」
近隣の家々からも人が飛び出してきて、周囲が騒然となる。木造建築が多いため、火災はとんでもない大事なのだ。そのどさくさに紛れ、ぽかんとして地面に転がっているリル姉の手を引っ張って逃げた。
走って、走って、必要以上に走り続けて、喧騒がまったく聞こえないところで、ようやく体力が尽きて止まった。
振り返ると、リル姉は涙を浮かべていた。
「エ、エメ・・・?」
困惑する彼女の、はだけた胸元を直してあげる私もまた涙目だった。
「だいじょぶ? まだ、なにもされてない?」
リル姉がはっと息を飲む。人気のない路地で何をしようとしていたのか、私が察しているのに気づいて、おそらくは羞恥心から、うずくまってしまった。
「リルねえ、じぶんをうっちゃだめだよ。そんなこと、しなくていい」
「・・・でも、あの人、5000ベレくれるって言ったの」
そんな、数日で使い切ってしまう程度の対価で・・・いや、額の問題ではない。
「リルねえは、おかねじゃたりないよ。だれがリルねえにおしえたの? じぶんでかんがえたのとちがうでしょ?」
「・・・花を売ってるとき、女の子の乞食に会ったの。女はみんな、そうやって稼いでるんだって。その子があの人を紹介してくれたわ。エメにはさせられないもの、だからわたしが」
「リルねえにだってさせられないよ!」
大声を上げてしまい、リル姉はびっくりして顔を上げたので見えたろう、私がぼろぼろ泣きじゃくっている光景が。
あぁ、なんたる無力なことか。神はどうして私にチート能力を授けてくれなかったのだ。そうしたら、鬼畜な親父だろうが化け物だろうが第六天魔王だろうが、リル姉に仇なす野郎を片っぱしから消しくさって、穏やかな暮らしをさせてあげられるのに。前世の知識なんかちっとも役に立たない。生涯を費やして勉強してきたこと全部全部全部! 苦境を脱する助けになりやしないじゃないか!
「エメ・・・」
ぎゅ、とリル姉が私を抱きしめた。骨張った背中を優しい手がさすってなだめる。
「ごめんね、お姉ちゃんがまちがってた。ごめんね、泣かないで」
違う、違うんだよリル姉。リル姉は悪くない。私は自分が情けないのだ。守ると決めたのに、結局こうしてあなたに慰められて支えてもらってる自分が、あまりにも。