35
礼拝堂の立つ広場で、青い水が宙を飛び交っていた。
「きゃあ!?」
「あははははっ!」
悲鳴と笑い声が同時に響く。
天空神の加護を願って互いに青い染料をかけまくるという、わけのわからない祭りイベントの渦中に私たちはいる。たまたま通りがかったらちょうど始まって、フィリア姫がどうしてもやりたいって言うもんだからさ。
大人も子供も柄杓を持ち、広場のあちこちに置かれた大きな瓶の中から青い水を掬って、天に地面に人に物に、目に付くものすべてにかけまくっている。服を汚さず通り過ぎるなんて絶対に無理だった。
「隙ありですわ!」
「うあ!?」
不覚にもフィリア姫に正面から水を喰らってしまった。やったな!?
心底くだらないイベントだからこそ燃える。もはや身分とか礼儀とか知ったこっちゃない。こちらからも盛大にやり返す。でもこれは無礼ではないんだ。だって、たくさんかかればそれだけ幸福になれるって話なんだからさ。
ローブも下の服もぐっちゃぐちゃ。だがそんなの気にしてられないくらい楽しい。リル姉にもめっちゃかけた。
ちなみにギートは、王女を汚しちゃまずいと思ったのか最初は自ら盾役を買って出ていたが、当の護衛対象に頭から水をかぶせられて全身真っ青になり、やる気が失せたようだ。
祭りの巡回中だった彼はすぐに姫をあるべき場所へ連れて行こうとしたのだが、私とリル姉の二人がかりで路地裏に連れ込み恐喝―――もとい、麗しいフィリア姫のチワワな瞳(+上目遣い)で屈服させ今に至る。ちょろいもんだ。人のこと言えないけど。
やがて瓶の中から染料がなくなって終了。フィリア姫はやり遂げたように満面の笑みを浮かべていた。
「こんなにはしゃいだのは何年ぶりかしら!」
息を切らしてまだ興奮冷めやらぬ様子。親切な人が用意してくれたタオルで、顔に付いた染料を拭い落とせば、紅潮した頬が見えた。頭のストールも服も青にまみれて、子供のようにはしゃぐこの人を誰も王女だなんては思わないだろう。
着替えはないが、初夏の風がすぐに乾かしてくれるはず。服に染み込んだ水を絞っていたら、人が一定の方向へ流れていくのに気づいた。それは主に男性が多く、彼らはタオルを受け取らず染料をまったく落とさないままでおり、意気揚々とした足取りだ。
「何かありますの?」
フィリア姫が適当な人を捕まえ尋ねると、男がでれた顔で「競馬車だよ」と教えてくれた。
競馬の馬車バージョン。もちろん賭博である。競馬車場が王都にはあり、普段から営業しているのは私も知っていた。
勝負の前に神の色を全身にまとって、縁起担ぎのつもりらしい。天空の神はそこまで面倒みてくれないと思うけどな。
やっぱりフィリア姫が興味を持ったので、「じゃあ一緒に行こうか?」みたいな空気を出し始めた男はギートを使って追い払い、会場へ向かった。
「そういえば、今日はどうして眼帯してるの?」
移動中、隣に並んだついでにギートに尋ねてみると、彼は姫から視線を外さないまま答えてくれた。
「街中じゃいちいち怯えられて面倒なんだよ」
まあ多少、奇異に映るか。素晴らしい機能を持つ義眼だが、苦労も多いのかな。もう少し瞳の形に似せて作ってあればいいんだよなあ。
「ちなみにそれでも見えてたりする?」
「一応」
覆いが透けてその先が見えるらしい。透視の魔法? 目が向いていない背後や側面が見えるのもそのためなのかもしれない。
「今度またよく見せてよ。ちゃんと気をつけるからさ」
「嫌だ。お前とは極力関わりたくねえ」
ろくな目に遭わねえからな、とギートはうめくように言う。
でも王女様の件は私のせいじゃないぞ? 通りがかった君の運が悪いんだ。
会場に着くとすでにレースは始まっており、辺りは異様な熱気に包まれていた。
競馬車の走る楕円形のコースはレンガが敷かれておらず、車輪が巻き上げる砂埃がひどい。観客席なんてものは特になく、頼りないロープで仕切られているのみであり、すぐ間近を猛スピードの馬車が行き過ぎるんだから怖い。リル姉が思わず悲鳴を、フィリア姫は歓声を上げていた。
競馬車に使われている馬車は辻を走るものとはまるで違う。まず第一に座席がない。御者が一人立つスペースがあるだけで、レースのために軽量化されて作られた特注品のようだった。色や形も様々で、車体に番号が振られている。
繋がれている馬はパレードで兵士たちが乗っていたのより首が短く、足が太くて逞しい。見ているとレース中はかなり接触が多く、スピードはもとよりパワーも必要そうな感じだ。馬はすらりとしているより、ある程度ずんぐりむっくりで重たいほうがいいのかもしれない。
観客の脇に設置された台にのぼっている小男が、出場選手の書かれた木製ボードを叩き、高い声で次のレースの賭け金を募っていた。
「エメ、リディル、また少しだけお金を貸してくれませんか? やってみたいのです!」
普段なら手を出さないところだが、今日はお祭り。フィリア姫にもせがまれて、試しに私たちも賭けに参加してみることにした。まあ競馬って所持金マイナスにならないし宝くじ買うより当たる確率高いんだよな。負け続けると結局痛いが。
募っているのは単勝。一着の馬車を当てるだけ。
「5の馬車がいいですわよね。あれが最も儲かるということなのでしょう?」
「そうですけど、それだけ見込みが薄いってことなんですよ」
配当金のみを見て選ぼうとするフィリア姫にギートが指摘を入れた。
「3が妥当なとこじゃないすか。一番人気じゃないですがこの間のレースは惜しかった。一点買いは危険なので他のも買っといて―――」
「どんだけ通いつめてるの」
今度はこっちが指摘してやる。妙に場馴れしてると思ったら。
「嵌まり過ぎると良くないよ?」
「馬鹿な賭け方はしてねえっつの。あ、隊長には言うんじゃねえぞ」
私に釘を刺すより怒られるの心配ならやめろよな。
「でも私は5にしてみようかしら」
リル姉は配当の示されたボードではなく、バドックに目を向けていた。
「ほらエメ、姫も見てください。あの馬、首のところにお花の模様があって可愛いです!」
「あら、ほんとですわね! 馬車の装飾も他よりきれいで素敵ですわ。やはり私も5にします」
フィリア姫も同意。ギートは、「いや、きれいなのは首位争いに参加できてない負け続けの奴ってことなんすけど」とかぐだぐだ言っていたが、まったく聞いてもらえず肩を落とした。
「女って・・・」
「計算上はどの馬車も勝率同じだよ。私も5に賭けよーっと」
「計算通りになるなら賭けじゃねえよ」
ごもっとも。だが夢を見るなら大穴! どうせ大した金額を賭けるわけじゃないし、お遊びお遊び。
ギートに呆れられながら券を購入し、間もなくしてレースが始まった。ちなみにギートは仕事中なので我慢していた。
私たちの期待を乗せた5の馬車はスタートでいきなり出遅れ、「そら見ろ」と一瞬ギートを得意げにさせたが、なんと後半のカーブで先頭集団がまさかの大クラッシュ。怒号と悲鳴の渦巻く中、後からのたのたやって来た5の馬車が引っくり返った馬車の群を抜け、一番にゴールした。
「うっわマジ!? やったぁ!」
「やりましたわ!」
「わ、わああ!」
フィリア姫はその場を飛び跳ね、私とハイタッチ。リル姉は喜ぶよりもひたすらあわあわしていた。
結果、祭りで使った分よりまだ余りあるお金が返ってきた。恐るべしビギナーズラック! こういうのがあるからギャンブル依存症になるんだろうなあ。
「これでまだまだ遊べますわね!」
幸いとフィリア姫には競馬車の他にも見たいもの買いたいものがあり、資金を得た途端に次へ走った。
「納得いかねえっ・・・!」
ギートは悔しそうに拳を握り固めていた。データ分析も大事だが、結局は運だよね。
それから芝居小屋を覗いたり、大道芸人の刀剣投げの芸にひやひやしたり、小腹が空いたので買い食いしたりと引き続き祭りを満喫した。お金があるって素敵。
「歩きながら食べるだなんて、侍女が見たら卒倒しますわ」
隠れてお行儀の悪いことをしている時に、なんだかわくわくした気持ちになるのわかるなあ。咎める者も窮屈な衆人環視もない。今日の彼女は自由な空の下にいる。
途中で何度か兵士を見かけたが、リル姉と私とで姫を囲んできゃぴきゃぴ騒いでいれば意外と気づかれなかった。実はギートが裏切るんじゃないかとやや不安だったのだが、むしろ彼はさりげなくフィリア姫を兵士の目から隠してくれたりなど、意外な協力姿勢を見せてくれた。お供の人選は間違っていなかった。
「以前のお祭りの時にも、こうして歩きたかったものです・・・」
ずっと満面の笑みだったフィリア姫が、不意にそれを消して、静かに呟いた。その目がすれ違ったカップルを追っていたのが少し気になったものの、深くは聞けなかった。
ちょうど、歌声が響き渡ったのだ。
青い水をかけ合った広場で、旅の楽団か何かだろうか、ギターに似た弦楽器の低い音を伴奏に、軽快な笛の音がメロディを紡ぐ。その中心に立つ黒い髪を結い上げている背の高い女性が、さあ皆で踊ろうと衆人に歌声で誘いかけていた。
すぐさま、何人もの人が広場へ躍り出る。まるで最初から段取りを知っていたかのように鮮やかに。
ステップどころか二人で組むとも決まっておらず、三人でも四人でも手を取り連なり、一人でもくるくる回りながら、くっついて離れて、離れてくっついて、しっちゃかめっちゃかな乱舞だった。
カオスであるからこそ、誰でも簡単に気軽に混ざることができる。私もフィリア姫とリル姉の手を握った。
「エメ?」
「踊りましょう? 過去は変わりませんが、今はいくらでも楽しくすることができますよ」
そしてリル姉も、もう片方でフィリア姫の手を取った。姫は、また満面の笑みを浮かべてくれた。
「そうですね!」
テンポの上がる音楽に合わせ、人々が足を踏み鳴らす。
知らない人とも手を繋ぎ、回って離れて、スキップしながら手を打って、すれ違いざまに誰かと腕を組み回る。そうしたら、踊りにまざらずぽつんと立っている少年が目に入った。
「ギートもおいでよ!」
すかさず腕を掴むと、ギートは咄嗟に足を踏ん張った。
「は、いや、いいって! 踊り方なんて知らねえし!」
「笑いながら回ってればいいの!」
無理やり彼を引っ張って広場の中央へ。こういう時に楽しまないでいつ楽しむの?
「ねえっ、私はその左目、別に怖くないと思うよ」
「は、あ? なんなんだ急に」
「だけどそれが気になって人の中に入りたくないのなら、私が本物と変わらないものをいつか作ってみせるよ。君のその目を見て魔技師になりたいと思ったんだ。だから君には本当に感謝してる」
ギートはびっくりした顔をしていた。まるで思ってもいなかったことを言われたかのように。やや唐突ではあるが、彼ともあまり会えないのでこの機会に言っておくのだ。
ギートを両手でぐるぐる振り回し、勢いをつけ放り出す。すかさず誰かがキャッチして、彼は否応なくそのまま輪の一部となった。
テンポがさらに増した頃、私は飛んできたフィリア姫をキャッチ。二人で両手を繋いで回っていたら、誰かの服の装飾が、姫のストールの端に引っ掛かった。
「あ―――」
ストールが取れ、光り輝く長い金髪が露わとなる。私もフィリア姫も同時に小さく声を上げ、私は咄嗟にストールを追いかけて手を伸ばそうとした。
が、その手は姫にぎゅっと握られて、離れなかった。
フィリア姫を見ると、彼女はにっこり笑っていた。
「いいから、今は踊りましょう?」
人混みに消えたストールを追いかけるのはもうできない。私は何も言えずに、頷くほかなかった。
すぐに人々の注目が彼女に集まる。
だが曲が止まるまで、彼女は構わず自由に踊り続けていた。
間もなくして騒ぎを聞きつけた兵士が駆けつけ、フィリア姫は即座に輪の中から連れ出された。
「ありがとう。おかげで、とても楽しい時を過ごせました」
少しだけ追いかけた去り際に、姫は早口に別れを告げてきた。
「あなたたちのことをお友達だと思ってもよろしい?」
「もちろん!」
「良かった、またいつかきっと逢いましょう」
なんとか交わせた言葉はそれだけ。
私たちは兵士にとっとと追い払われて、フィリア姫の姿はすぐに見えなくなってしまった。ギートは彼らに呼ばれて後に付いて行った。
「楽しかったわね」
「うん」
立ち止まって見送りながら、呟かれたリル姉の言葉に頷きを返す。
「また一緒にお話しできる日があるといいわね」
「うん」
たぶん無理だとわかってはいるが、願うくらいは良いでしょう?
すでに夕暮れで辺りは赤く染まっている。祭りはまだまだ夜まで続くが、私たちの中ではもう終わってしまったような心地だったので、アンナさんの下宿屋に帰ることにした。




